life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「地下鉄道」(著:コルソン・ホワイトヘッド/訳:谷崎 由依)

2021-02-28 09:58:15 | 【書物】1点集中型
 久々に眺めた本屋の棚で目にした本。19世紀前半、アメリカ奴隷制時代の物語である。当時実際にあった、奴隷の逃亡を助ける「地下鉄道」と呼ばれる秘密組織がキーになっていて、それが物語の中では当時にはなかった「地下を走る鉄道」として描かれている。軸になるのは母が逃亡奴隷である持つ少女コーラ。彼女自身と彼女の近くの奴隷たち、主人や奴隷狩り人、あるいは奴隷たちの逃亡を手助けする地下鉄道の人々など、登場人物は実に数多いし、コーラの道のりも遠い。まさにアメリカという国全体の物語である。

 仮に本当に対象が人間ではなく動物だったとして、人間はこれほどの残虐を働けるものなのか。奴隷とされていた人々、またその人々を助けようとした人々に降りかかる残虐は、過酷という一語だけではとても片づくものではない。一方で、主人に逆らうことなくひっそりとしかし平穏に暮らす奴隷もいる。身分は奴隷でも、主人の意向によって自由黒人に近い扱いを受けている奴隷もいる。だがそうした暮らしが終生続くものかどうかは別のことだ。彼らが「所有物」である以上、主人の気まぐれや相続者の意思によって運命がどう流転するかは全くわからないのだ。それがいかに不条理なことなのか。
 コーラは、自分を助けてくれた人々に悲惨な結末が訪れたことも知っている。その痛みを抱えて逃げ続け、しかしその痛みで自らを滅ぼすことはしなかった。人の優しさに触れる一方で、手ひどく裏切られることもある。悲劇は何度でも襲い来る。それでも諦めずに脱出に挑み続ける。
 彼女が本当の自由を得られたかどうかはわからない。ただ、潰えたかに見えた希望の光が、地下鉄道を這い出たコーラにわずかにであっても確実に射している。筆舌に尽くしがたい苦難の中でも意志を持ち続けることの尊さがそこにはある。言葉にするとたやすいことだが、それがどれだけ困難なことであるかは、コーラのみならず物語の中の人々を見ていればよくわかる。

 奴隷制度こそなくなったものの、人種差別は根深い。またアメリカだけの問題でも、黒人と白人だけの問題でもない。生まれによって一生の身分が規定されてしまうことはどの国にもどの時代にもあったこと、また今もどこかに残るものでもある。生まれによって他の人々と自分たちを差別し、相手を排除しようとする動きも世界中にあふれている。
 悪法もまた法ではあるが、それはただ絶対的な正しさを示すものではない。だから人はいつでも自らに問わねばならない。自分以外の誰かを尊重するとはどういうことなのか、自らの尊厳を守るということはどういうことなのか。奴隷制度という一つの史実を通じて、人間社会の普遍的な課題を考えさせてくれる物語でもある。

「わかりやすさの罪」(著:武田 砂鉄)

2021-02-21 15:16:00 | 【書物】1点集中型
 仕事をしているとアウトプットとしてわかりやすく伝えることを常に要求される。理由がない「なんかわかんないけどなんかいい」では成立しない。でもその理由を言葉にできなくて悶々とし、言葉を探し、なけなしの言葉をひねり出しては捨てていく。打ち合わせをすればその場で即、意見や見解を求められる。しかしその場では咀嚼しきれず、あとになってから「こう言えばよかった」「こういうことだったんじゃないか」と思ってみるものの時すでに遅し。そんなことばっかりである。
 いつでも二者択一で話がすむのならこんな簡単なことはない。何かを選び取るためにはそのプロセスがあるわけで、そしてそのプロセスに迷いつつも選ばねばならないという機会は誰にでもある。ものすごくざっくり言ってしまうとそういうことなんだろうと思うが、著者はそんなふうに要約されることを求めている本ではないはずである。そういう本だと思っている。

 理解するなという話ではない。ただ、単純明快に理解できることがすべて正しいということではない。言葉は広がったものを狭めることもあれば、限りなく広がってとっ散らかっていくものでもある。とっ散らかることから生まれるのが人の考えだったり創作だったりするはずなのである。
 そこにある事実を受け入れるという意味での知識なら「理解する」でもいい。いや、それは実は理解ではなくて、言ってみれば「食べる」ことに似ているのかもしれない。口に入れたものを咀嚼し、消化して自分の栄養にするものとそうでないものを分けることこそ、「理解する」ということになるはずなのだ。そしてその手前で「消化不良」を起こすことすら本来、厭うべきではない。リアル書店に行くと買う本をただの1冊を選ぶこともできずに長居する羽目になってしまうのは、知らない言葉に、わからない言葉に囲まれ、時に知りたい欲をかき立てられるからだ。自分の興味・経験に基づくリコメンドから得るものも確かにあり、それを自分が利用していることも知っている。しかし、知らないことや興味のないことを検索することはできない。リアル書店(あるいはもっと広く、街の中でもいい)を歩き回ってしまうのは、それらに出会う偶然にあふれているからである。

 結論を出すことは時に気持ちのいいものだし、時に必要なことだ。しかし、そこにたどり着くことだけを急ぐ必要はないと思っていいということなのかな、と思う。わかりやすいものを求めるのではなくて、わかりにくいものを自分なりに解釈してみる意欲を持ち続けることのほうが大事だ。結論は選んでもいいし、選ばなくてもいい。選んだ結論があるのなら、選んだ理由を自分のものにすればいい。思えば、「よくわからないけどもう1回読みたい」と思う小説って、結局そのわかりやすくないところを自分が求めているからなんだろう。人間の思考とはいつでもシュレーディンガーの猫状態なのだ。