私はたとえば浮世絵や西洋絵画を見ていても、画面の片隅にいる、さっと筆を走らせたような小さな人物に見えるゆるさ(本当は確固たる技術に基づくものだけど)と親しみを覚えて見入ってしまうことがよくある。なもんだから、この本は表紙からして好みのゆるさの人物画なのが気になって読んでみた。
ただしこの本のメインは無名の人々、いわゆる職業画家ではない人々の手になるまんま素朴な味わいの絵である。人や動物の描写がゆるゆるなのはもちろん、構図が崩れまくっているところになぜか妙な味があって面白い。「絵巻と絵本」の章にある「かるかや」「築島物語絵巻」(これが表紙に出ている)の人物のタッチなんか、個人的には超好みである。いわゆる「へたうま」というよりは、線がかなり素人っぽい分普通に「下手」な感じだが、でも本当に親しみがわくというか、文字通り素朴というか……どこか憎めない下手さなのである。
「庶民信仰の温もり」の章は、それに比べると全体としては幾分洗練されているものが多いのだが、「地蔵十王経(仏説地蔵菩薩発心因縁十王経)」なんか地獄絵図なのに、(絵の中で)やってることは恐ろしいのに、そこにいる人物や鬼の素朴でユーモラスな表情が見事。あと、石仏。確かに、道端のお地蔵様やら小さな祠にあるご神体的な石の彫刻みたいなものって、それこそもうとんでもなく素朴で、時々笑いを誘われるものさえあったりするのだが、だからこそ親しみがあってささやかな信仰の対象になるんだろうなとも思う。
「知識人の素朴」の章に出てくる仙とか蕪村とか乾山の絵はもともと好きだったこともあって、その読み解きを興味深く読ませてもらった。そういえば、佐藤卓氏がとあるインタビューで「ゆるキャラ」のデザインについて、くまモンは「ユルさの精度が高い。プロの仕事」で、ふなっしーは「ものすごく素人っぽいデザインを『これでいいのだ』とあえて押し出すことを楽しんでいる。『くまモン』の逆」と分析し、どっちもありだとおっしゃっていた。それを思い出して、言うなれば白隠・仙はふなっしー系で、蕪村・乾山はくまモン系であり、「へたうま」系かなあと思った次第。
こうやって見ると、確かに現代のゆるキャラブームはあれども、ゆるさや素朴さを心地よく思う感性というのは、人類が綿々と受け継いできた精神性の現れでもあるのだろう。田辺誠一「画伯」の「かっこいい犬」も、言ってみれば「素朴絵」だし(笑)、あの絵に対する反響も、人が素朴絵をどう受け止めるかという感性の発現のような気がする。あ、とすると、タマキングこと宮田珠己氏のイラストもそっち系だ!(笑)
ただしこの本のメインは無名の人々、いわゆる職業画家ではない人々の手になるまんま素朴な味わいの絵である。人や動物の描写がゆるゆるなのはもちろん、構図が崩れまくっているところになぜか妙な味があって面白い。「絵巻と絵本」の章にある「かるかや」「築島物語絵巻」(これが表紙に出ている)の人物のタッチなんか、個人的には超好みである。いわゆる「へたうま」というよりは、線がかなり素人っぽい分普通に「下手」な感じだが、でも本当に親しみがわくというか、文字通り素朴というか……どこか憎めない下手さなのである。
「庶民信仰の温もり」の章は、それに比べると全体としては幾分洗練されているものが多いのだが、「地蔵十王経(仏説地蔵菩薩発心因縁十王経)」なんか地獄絵図なのに、(絵の中で)やってることは恐ろしいのに、そこにいる人物や鬼の素朴でユーモラスな表情が見事。あと、石仏。確かに、道端のお地蔵様やら小さな祠にあるご神体的な石の彫刻みたいなものって、それこそもうとんでもなく素朴で、時々笑いを誘われるものさえあったりするのだが、だからこそ親しみがあってささやかな信仰の対象になるんだろうなとも思う。
「知識人の素朴」の章に出てくる仙とか蕪村とか乾山の絵はもともと好きだったこともあって、その読み解きを興味深く読ませてもらった。そういえば、佐藤卓氏がとあるインタビューで「ゆるキャラ」のデザインについて、くまモンは「ユルさの精度が高い。プロの仕事」で、ふなっしーは「ものすごく素人っぽいデザインを『これでいいのだ』とあえて押し出すことを楽しんでいる。『くまモン』の逆」と分析し、どっちもありだとおっしゃっていた。それを思い出して、言うなれば白隠・仙はふなっしー系で、蕪村・乾山はくまモン系であり、「へたうま」系かなあと思った次第。
こうやって見ると、確かに現代のゆるキャラブームはあれども、ゆるさや素朴さを心地よく思う感性というのは、人類が綿々と受け継いできた精神性の現れでもあるのだろう。田辺誠一「画伯」の「かっこいい犬」も、言ってみれば「素朴絵」だし(笑)、あの絵に対する反響も、人が素朴絵をどう受け止めるかという感性の発現のような気がする。あ、とすると、タマキングこと宮田珠己氏のイラストもそっち系だ!(笑)