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或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」(著:清水 潔)

2018-01-08 15:30:12 | 【書物】1点集中型
 「桶川ストーカー殺人事件―遺言」を読んで以来の清水氏のノンフィクション。こちらも「足利事件」というあまりにも有名な事件に絡むもので、「調査報道のバイブル」と言われる。というよりはどちらの事件も、こうして清水氏が疑問を持ち、真相解明に動いたからこそ社会に大きな影響を与える事件になったともいえるのだろう。

 社会に届かない被害者と遺族の「小さな声」を聴くこと。今ものうのうと暮らす犯人への憤り。そうした思いを抱え、遺族の心を乱すことを重々知りながらも、著者は非難も罵倒も覚悟で取材を進めていく。大切なこととわかっていてもやはりそうそうできることではない。その真摯な思いが伝わるからこそ、遺族も辛い気持ちを抱えながらも目指すところが同じであることを理解してくれたのだろう。

 足利事件で菅家氏が冤罪被害をであることが判明したのは、DNA「型」鑑定の問題に起因するということはなんとなく聞き及んでいた。特にこの鑑定について読んでいってわかったことの一つは、鑑定が技術的に成熟しきっていなかったこと。もう一つは、同様の鑑定を行ったうえで決着した他の事件、それもすでに死刑執行済の事件にかかわる可能性が大であったこと。そしてそれこそが、17年間に栃木で3件、群馬で2件起きた幼女誘拐殺人事件の真相が明るみに出ることを阻んだ一因になっていると思われること。
 DNA型鑑定を妄信したが故に、その結果に合わせるための「証拠」と「自白」が集められ、鑑定結果にそぐわない「証言」は捜査上なかったことにされる。果ては証拠が捏造までされる。事実がそこに見えているのに、被害者側の思いが、正義が果たされない。その裏にあるのは、いわゆる悪い意味での忖度というやつだろう。筆者の言うように、桶川ストーカー事件もそうだったが、警察と司法の体面を保つためとしか考えられない。こんな状態で法治国家を名乗っていいのであろうか。

 解説にある「調査報道」と「発表報道」の話を理解すると、現在の日本のジャーナリズムの問題点も、素人なりに感じ取ることができる。調査報道の重要性もわかる。報道のあり方を考えるとともに、その報道を受け取る側である自分も、情報に向かう姿勢を考えなければならないと思わされる1冊であった。

「禁忌」(著:フェルディナント・フォン・シーラッハ/訳:酒寄 進一)

2018-01-03 23:40:41 | 【書物】1点集中型
 「犯罪」「罪悪」と読んできたが、長編のせいか、より純文学度が増したような雰囲気。とはいえ淡々と事象だけを積み重ねるような描かれ方なのはいつもと同じで、無駄のなさが心地よい。今さらだが酒寄氏の訳も良いのだろうなと思う。
 そういう表現なので、主人公ゼバスティアン・エッシュブルクの特徴のひとつである共感覚もさほど深く掘り下げてはおらず、ただ彼という人間を形成する性質の一つとして描かれているだけで、強調はしていない。あくまでも感性の個性の一つ。何かのはずみでそういうふうにものを感じることは誰にでもありうるだろう、とさえ思わせそうなくらい。

 物語は主人公の少年時代から、カメラマンとして名を成すまでを描いて半ばまで進む。そして突然に殺人事件が起こる。ただし遺体は見つからず、しかし残された証拠から主人公は容疑者とされ、あっさりと自供する。しかし、被害者が誰なのか、遺体がどこにあるかは明かさない。そのうえで、「法とモラルがちがうように、真実と現実も別物だ」と話したビーグラーに弁護を依頼する。
 その依頼を受けることにしたビーグラーは、主人公の恋人ソフィアとともに、主人公の姉妹と判明した犠牲者の足跡を探しにオーストリアへ。しかし、犠牲者であるはずの妹が生きていることが判明する。ますます事件の様相が混乱する中、「真実と向きあう最後の重要な機関」である公判の法廷を迎える。
 そして公判で展開されたのはまるで、舞台演劇のような主人公の「作品」だった。

 罪とは、その罪を裁く法とは、真実とは、現実とは。人間とは。ゴヤの絵画、チェスを指すトルコ人の自動人形。そして主人公の作品である写真とインスタレーション。何もかもが溶け合い、混ざり合って境界がわからなくなる。いま自分が見ているものは、読んでいるこの物語が語るものは何なのか。作者は映像を映像たらしめる光の3原色を言葉として操り、まさに主人公のコンテンポラリー・アートの如き物語を紡ぎ出した。
 察しの悪い私は、表紙の大事な仕掛けにも「訳者あとがき」を読むまで気づかなかった。が、知れば、作者が翻訳版でも使用することを条件にしたことに合点がいく。そして最初に通報してきた「被害者」って結局誰だったんだろう? とか思うが、今さらどうでもいいことでもある。美しいと感じることに理由が必要ないのと同じように。何を美しいと感じるかが自由であるのと同じように。