life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「冷血(上)(下)」(著:村 薫)

2013-04-29 21:24:13 | 【書物】1点集中型
 来た来た来た、という感じの村作品で心踊りまくり。いそいそ開いたら2段組で、またこれは歯応えある厚みだなぁ~と(笑)。

 携帯電話の裏求人サイトで出会った前科者の男2人が、重機でのATM襲撃、コンビニ強盗、果ては空き巣のつもりが一転した一家4人強盗殺人へとたどり着く。図らずもその捜査に加わることになったのが我らが合田雄一郎、階級は気づけば警部に。強行犯の最前線からは離れ、ふだんは特殊4係で医療過誤事案を担当する日々となっている。
 設定は約10年前。あの雄一郎も不惑を迎え、いわゆる中間管理職もすっかり板についている。そんな中、休日に農家を手伝ったり「教行信証」を読む会に参加したりと、「レディ・ジョーカー」あたりまでの、悶々としながらも頭には血を滾らせていた姿は鳴りを潜めており、「太陽を曳く馬」を経ての微妙な変化が感じられる。「レディ・ジョーカー」のときはまだ教会行ってたなあ、とか思い出したり。
 ついでに言えば、「元義兄」加納祐介とも、つかず離れずでありつつも少し30代のころとは違っているように思える。まあ、「元義兄」については本当に上下巻一言ずつくらいの言及しかないので、ちょっと穿ちすぎかもしれないが(笑)。

 上巻は、やがて被害者となる高梨家の人々が中学生の長女・あゆみ(歩)の視点から語られ、そして加害者である井上と戸田の2人がいかにして加害者となる入口までたどり着いたか、その様子が淡々と描かれる。いかにも現代ぽい少女を描いたところは今までの高村氏と違っていて意外だったけど、とても理知的な彼女の思考はやっぱり高村節な感じ。
 ……とか思っていたら、朝日新聞の記事で「尾崎豊(の詞)にピンとこない」といういまの若者の声が出ていた。さらにその中に「親の反応は読めるから」というような言葉もあり、それがあゆみが両親を見る眼と通じるのだ。一見ふだん書かないタイプのキャラクターなのに、その描き込み方がやっぱり凄い。

 その一方で、この高梨家に対する強盗殺人にたどり着くまでの犯人である井上と戸田の行動の軌跡をなぞりながら、しかしその思考の軌跡と自分の感覚とが交わらない。そのことに気づき、その異質さを「理解できない」と思考停止しそうになるその感覚こそが自分の中にある「冷血」か、とふと思わされる。カポーティを読んだときには感じ取れなかったことが、小説の姿になると真に迫ってくるのが不思議だった。

 実際の犯行の具体像は、捜査が終わるまでほとんど描かれない。それが読者の眼に晒されるのは下巻に入ってからである。
 しかしそこでも理由はやはり具体化されなくて、「なんとなく」「殺すつもりはなかった」「わからない」と繰り返しながら、しかし井上も戸田も偽っているわけでは全くないのである。本当に金が欲しかったわけでもなく、ましてや人を殺したかったわけでもない。まさに理由なき殺人そのもので、そこにどうにかして殺意や動機を見い出そうとする警察と検察の、あるべき手順という徒労を積み重ねていくさまが、やっぱりこれも淡々と描かれる。そしてその手応えのなさは、毎日彼らと接する警察にこそ顕著だ。

 ものごとの結果は厳然たる事実としてそこに現れる。でも人間にとって、その事実を構成しているはずの自分の意思を構成することさえ、実は容易ではないのだ。井上や戸田のように。
 思い出そうとするたびに記憶は曖昧になり、知らぬ間に異物が混じる。それは希望的観測から来る何かもしれないし、後悔から来るものかもしれない。ただ確かなのは、一度産み落とされた事実は、完全な再構成が不可能だということ。

 この一家四人殺しに、いったい言葉で語られるに足る内実はあるのか、と。(中略)どんな深みも真相もない、事実という名の空洞があいているだけではないのか。
(本文より)

 井上と戸田の犯行は、事実を再構成しようとすればするほど、組み立てようとするそばからかたちを失っていく。当の本人たちが自分の中に事実を見出せていないのだから、それは当然だ。その姿をあるがまま受け容れるまでに警察が、雄一郎が経た葛藤は、これをお前はどう捉えるのかという無言の問いを、読み手に静かに突きつける。
 そうだ、「殺すつもりはなかった」と言いながら根切りを振り回すことと、たとえば「そんなつもりはなかった」と言いながら結果として誰かのこころを傷つける言葉を吐くことの間に、根源的に何かしらの違いがあると言えるのだろうか。

 言い換えれば死とは、残された者の喪失感に還元されるような何ものかだということであり、喪失感をもたない医師や病院関係者と、喪失感をもつ患者遺族の間では、一つの死が違うものになるということだった。
(本文より)

 この作品には、被害者遺族側が持つであろう激しい怒りも湿度もそれほど大きく表現されてはいない。唯一が、高梨家の嫁・優子の母である近藤摂子が井上に向けた「遺族は絶対にあなたを許さない、って。せいぜい刑場で後悔するならすればいい、って」という言葉である。
 これは、被害者のための反省も後悔もない加害者に向けられる言葉としては、至極当然であろう。それを理解していながら、戸田と井上の思考を雄一郎の眼を通して追った読み手には、苛烈かつ冷厳と響いてくる言葉でもある。冷血が冷血を生む連鎖を目の当たりにして。
 さらに加害者家族である戸田と井上の係累についても同様で、この件に関わりたくないという意思があからさまに見える言葉が続く。関係の希薄さが為せる業であろうと納得はするが、そこにも明らかに冷血は存在する。

 生きることの大変さは、死ぬことの比ではないというほかはなく、(中略)死刑が何より衝撃的であるのは、それが奪うことになる生命が、かくももの凄いものだからだし、(中略)そうして生命はさらにその凄みを増してゆくのだ。そうだ、たとえば井上が知らないのは、生命がこういうものだということ、そのことだろう。
(本文より)

 そうなのだ。殺意も動機もない代わりに、井上と戸田の中には、殺した相手がそれだけの熱量を持った生命であることの認識も本質的なところで存在していなかったということだ。優子の殺害に際して「眼が合ったから、ゲームオーバー」と言った井上に、そこでやっと納得する。理解はできなくても。
 
 「死刑判決に向かってひた走る公判に一石を投じる方策はなく、いや正確には、方策はあっても手を出す覚悟がなく、そうして結果的に自己満足のための時間を費やしただけで、あとは座視した」雄一郎。
 そしてついに井上の最期を迎えるとき、そこには野菜畑が広がる。「人殺しも刑事も、あるいは不幸な被害者も、その他大勢の善良な市民もない」茫漠たる土の上に、空気のように立ち尽くす雄一郎の姿を目の前に浮かべながら、キャベツのみずみずしさと香りがありありと立ち上ってくるように思えるのである。「レディ・ジョーカー」で、ヨウちゃんがレディに見せたトマトの鮮やかさが脳裏に焼き付けられたように。
 野菜一つのその強烈な印象も「生命のもの凄さ」なのだ。人間はそれを食らって生きていくしかないのだ。

 下巻の帯に「圧巻の最終章」ってあったので、雄一郎の物語が終わってしまうのかなーと読み始める前は思ったんだけど、これは終わらない感じですな。実際まだまだ雄一郎を見ていたいので、それならそれで嬉しいけど(笑)
 ところで、戸田の人物の造形にはちょっと野田達夫を思い出すところもあった。というか、井上と戸田を足して割った感じか? 美術工芸が好きで、病んでいて。そういえば、野田達夫にはあれ以来、雄一郎は一度でも会えているんだろうか。

出張ついでに、ラファエロ@上野。

2013-04-21 21:43:28 | 【旅】ぼちぼち放浪
 何故か土曜に東京出張の羽目に陥り、それならばと延泊して午前中は久々の友人とブランチ。
 ……で、午後はどうしようか迷ってた。ラファエロ、一応前売券を準備はしておいたが、日曜の真っ昼間だと混んでそうだし、本当は別途金曜に休みを取って来る方が無難だと思ってたので。
 ただ、昨日夕方からの雨脚が意外に弱まらず、今日も朝から天気も悪かったのでちょっとは人も落ち着いてるかなーと思い、結局意を決して上野にやってきた次第。時間もまあまあ余裕あるし、いつものように混んでたらもうとにかくゆっくり回ってやろうと。実は、会社の人に薦められた代官山の蔦谷書店もいい感じに時間が潰せそうで興味があったけど、それは次回に持ち越してみる。

 で、行ってみたら、さすがに空いてはいないけどフェルメールのときみたいな混み具合じゃなかった! ので安心して回ることに(笑)。

 ラファエロの描く肖像画の、あの首から肩にかけてののっぺりしたラインが昔からどうにも気になって仕方なかったのだが、今回もやっぱり気になった(笑)。しかし、そうでない肖像画もあることを知った。
 「大公の聖母」の黒い背景は後世に加筆されたものだということだが、でもこれ、黒で全然問題ないなぁと思う。宗教画的にどうなのかは不勉強でわからないけど、雰囲気は凄く好みなんだよなぁ……
 あと、「継承者たち」の中で作品が出てきたジュリオ・ロマーノの作品が個人的に好きだった。

 次は久々に江戸東京博物館に行きたいな。「ファインバーグ・コレクション展。あと、科学博物館の「深海」も! どのタイミングで行くか考えなければ……。

「外事警察」(著:麻生 幾)

2013-04-09 23:44:17 | 【書物】1点集中型
 NHKでやってたドラマがなかなか面白かったので(映画は観ていないけど)、小説はどんな感じなのかなと思って借りたんだけど……話が全然違っていた(笑)。要は巻末にある通り「原作」ではなくて「原案」だということなんだが、「原作」にならなかった意味がちょっとわかるような気がしないでもない。
 というのも、ドラマでは主人公(住本)が相当食えないキャラクターで描かれていて、それ自体が「外事」に関わる人々を象徴しているような雰囲気だったのだけれども、この小説になるとそのキャラクター自体が全く違っている。国防と協力者と家庭の間で苦悩する警察官というのは、いかにもありがちなのだ。そのキャラクターが悪いとは言わないけれども、正直、ドラマと比べてそこからして物足りない。村松長官のキャラも、キャラとしてはいかにもありそうな政治家のイメージだし、白黒はっきりしていてその意味では面白いんだけど如何せん、モノローグの言葉がいちいちちょっと子供っぽくてピンとこないというか……(笑)

 ストーリーとしては、いろんな場面が目まぐるしく展開するのでスピード感はある。なので、ページ数のわりにすいすい読める。……なんだけど、正直なところかなりの緊迫感があるはずの場面も臨場感がいまひとつなんである。「欺瞞」とか「突入」の現場なんか特に。
 描写はそれなりにされているはずなんだけど、とにかく物足りない。なんだろうな、この消化不良な感じ。人物にしても事件にしても少し深みが足りないのかなぁ。題材は面白いと思うだけに(個人的に諜報ものとか好きだからだけど)、もったいないなぁと思った作品だった。

「供述によるとペレイラは……」(著:アントニオ・タブッキ/訳:須賀 敦子)

2013-04-02 23:50:19 | 【書物】1点集中型
 確か、雑誌の書評で見かけて気になった本。「ファシズムの影が忍び寄る1938年のポルトガル」という舞台設定に興味があった。あと、今までイタリア文学に触れたことがなかったのも大きかったかも。ダンテもエーコも読んでないし。

 主人公のペレイラは、リスボンの小さな新聞社の文芸面編集長。といっても文芸面を担当するのは彼ひとりで、当人といえば妻には先立たれ、肥満体で心臓に持病もある、ひとことで言えばぱっとしない中年男といった風体だったりする。
 そんな彼がふと文芸誌で哲学科生ロッシの論文を目にし、その死についての思索の深さに興味を抱く。そしてロッシに会い、自分の下で記事――追悼原稿――を書く仕事をやらないかと持ちかける。このロッシと、彼の「同志」であるマルタとの出会いが、ペレイラの日常を別の方向へ動かしていく。

 時代背景が示すように、いわゆる政治小説の向きがある。その中心を貫くのはペレイラの「たましい」だ。とても使えない原稿ばかりを送ってくるロッシに戸惑いながら、ペレイラはそれらの原稿を何故かどれひとつとして捨てることもない。それどころか、使う当てもない原稿に対して稿料さえ渡し続ける。
 そうしてロッシの原稿と彼の持ち込む厄介ごとが積み重なっていくにしたがって、ペレイラの「たましい」の示すところがだんだん浮かび上がってくるようにも見える。「どうしてなのかわからない」と繰り返しながら、ペレイラは間違いなくロッシに共感しているし、結局はどうにかしてロッシやマルタに助ける手を差し伸べる。

 ペレイラが好んで口にする香草やチーズ入りオムレツや冷えたレモネードが、殺伐としたこの時代のポルトガルの空気に静かに溶け込んでいる。ロッシを襲った悲劇が、ペレイラの「たましい」を破滅さえうかがわせる決定的な方向へ向かわせる。
 ペレイラの作ったオムレツを食べたロッシ。ペレイラの手許に残るロッシの原稿。ロッシはペレイラのたましいの分身ではなかったか。その分身を失ったとき、「死についてばかり、始終、考えてしまう」と亡き妻に話しかけていたペレイラの前に、死はそれまでと全く違ったものとして現れたのではないか。そのときこそ彼は「生きて存在しているだけ」、「生きるふりをしてきた」自身に訣別し、自らのたましいそのものに、そして生きることそのものにやっと意味を見い出したのではないか。

 しかし、最後の一文でも繰り返されるように、この物語は全てが「ペレイラの供述」として成り立っている。だとすれば、彼がこれをどこで語ったのか、そう考えると決してその先のペレイラに明るい未来が待っているだけのようには思われない。それでも、その身がどこにあろうと、「私の同志は私自身だけ」というそのたましいを抱いて穏やかに微笑むであろうペレイラの姿が想像できるのである。

「甘い罠 8つの短編小説集」(アンソロジー)

2013-04-01 21:43:20 | 【書物】1点集中型
 江國香織、小川洋子、川上弘美、桐野夏生、小池真理子、高樹のぶ子、村薫、林真理子の8氏によるアンソロジー。普段だったら絶対読まないタイプのものだが、なんせこの本の貸し出し予約をした時点では、しばらく新作にお目にかかっていない村作品に飢えていたから(笑)。いや、実際には、文芸誌とかちゃんと読めば見つかるんだろうけども。

 裏表紙には「女性の業があぶり出される」って書いてあったもんだから、村氏が書く女性ってどんなんなんだろうかと(まあ、晴子とか美保子とかいるけど)思ったけど……違うじゃないか(笑)。桐野氏のも。この本のタイトルに、いちばんストレートに合っていたのは高樹氏のお話かな。ちょっとベタだけど。
 全体的に、今までそれぞれの作家さんに(自分が)抱いていたイメージとそんなに違わない作品だったので、個性は見られる。好きじゃないにしても「この人のカラーってこんな感じだよね」というのはわかると思う(高樹氏の作品は今まで知らなかったので、わかんないけど)。小川氏の、そのひとたちだけに成立するぬくもりのある心の通わせ方とか、桐野氏のどろりと重たい闇のような雰囲気とか、林氏の女のあざとさみたいな表現とか。あ、川上氏の最後のオチはなかなか面白かった。男と女のビミョ~なズレ(笑)。

 ……とは言っても、結局は村作品がどうだったかって話になるんだけど。まあなんせ出だしから「この手紙の書き方はどうしたって雄一郎から祐介へ、じゃないか!」っていうだけでもうなんか満足しそうになってしまったよ(笑)。
 そして、ちょっと冴えないおじさんと「カワイイ、アナタ」。隠微で、枯れかけた哀愁があって、物語の外に潜むいくつもの可能性という名の落とし穴があって。長編のときのような身悶えしそうになる重さはないけど、よく考えると深い。意外にも、よく考えれば考えるほど底が見えなくなるのだ。んで、合田はどんどん内省的になっていくのだろうな(笑)。

 自分の好みからすると、ずっと読み続けると食傷すること間違いない作家さんが多かったことは事実だけど、たまに読むならこういう短編もそんなに悪くない……かもしれない。でもやっぱり、もうすぐ村氏の「冷血」が回ってくるのが楽しみで仕方なかったりする。(笑)