life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「黒い悪魔」(著:佐藤 賢一)

2010-12-29 17:48:43 | 【書物】1点集中型
 佐藤氏の成した「デュマ3部作」の第1部、文豪アレクサンドル・デュマの実父の生涯を描いた物語です。もともと「モンテ・クリスト伯」にハマって、ついでに「三銃士」もけっこう好きなので、その大デュマの父から子へ続く伝記小説(?)シリーズと知って読んでみました。

 白人農場主と黒人女奴隷の間の子としてフランス植民地の島で生まれたトマ・アレクサンドルが、父に招かれフランスへ出てきたものの最終的には切り捨てられるような形で家を出て軍人になり、ついにはナポレオン・ボナパルトが脅威と感じるほどの将軍へと登りつめていく、というのが大筋です。
 いい意味でも悪い意味でも直情的で、とにかく腕っぷしに物を言わせて突き進むデュマは、ときどきとんでもない勘違いをしでかしたり不貞腐れたりもするけれども、フランス革命を経て「人権宣言」の実現に心血を注ぐ姿を見れば、やっぱり憎めない。言ってみれば「少年漫画の王道」を行くような雰囲気があると思います。自分が決めたことはとにかくあきらめない、そのためにこそ生きるというデュマの姿には、なんとなく福井晴敏作品のキャラクターを思い出しました。
 奴隷にはなりたくない、黒人だからと蔑まれたくない。そんな当たり前の願いに潜むコンプレックスと向き合い、受け容れ、自分を捨てた父への想いを自覚し、最後は子に誇れる親であらんと常に胸を張り続けた姿は、やっぱり見事でした。

 そしてマリー・ルイーズという、ほとんど無自覚だけれど類稀なる賢女を伴侶に得ることができたことはデュマにとって本当に素晴らしいことだったなぁ、と思います。彼女がいなければ、デュマがいろいろな「気づき」を得る機会が、いくつか失われていたかもしれない。
 まあそれ以前に、マリー・ルイーズのそんなところにもちゃんと気づくことができたデュマが、基本的には素直だったということなんだと思うけど。なんだかんだ言って、最初から最後までしっかりマリー・ルイーズのことを愛していたしね。

 このあとは、息子である大デュマを描いた「褐色の文豪」、さらに孫となる小デュマを描く「象牙色の賢者」と続いていくそうですが、この2作も早いとこ文庫化していただきたいですねー。って今作の文庫化に7年かかってるから、続編の文庫化も実際どのくらいかかるのかわからないけども。

「怖い絵」(著:中野 京子)

2010-12-23 23:15:57 | 【書物】1点集中型
 20点の名画にこめられた「寓意」を読み解く本。出だしのドガの描く踊り子の「当時の地位」の話はけっこうポピュラーな気もしたのですが、それだけに終始せず、ドガのスタンスを加えて考察することでいい意味での「オチ」がついている感じ。
 「本物の恐怖」(帯の煽り文句)というのは若干大袈裟なような気もしましたが(笑)、わかってみると確かにちょっと怖い話ばかり。なるほどと納得できる解説です。絵画の中にある微妙な不調和、画家の技術がもたらす絶妙のバランスこそが逆に醸し出す不穏な空気といったものを的確に指摘してくれます。

 西洋絵画に表されるキリスト教やギリシャ神話関係の寓意などは、個人的にはそういった文化にほとんど触れたことがないので感覚としては捉えづらい世界なので、知っておいて損はないことばかりです。やはり時代背景やお国柄、宗教的な常識、さらには画家の生い立ちなど、その絵画をとりまくさまざまな要素に対する理解をも加えてこそ、本当に絵画の「表現」を理解したと言えるんだろうなと感じますね。ハードルは非常に高いんだけれども(笑)、絵画を「読む」とはよく言ったもので……。
 高い技術で描かれた絵画の、その技術を鑑賞することはもちろん大好き。そしてそこから一歩進んで、寓意を含む絵画に直感したイメージが、あとからこういった背景を知ることで作者の表現の意図と一致したと感じることができたら嬉しいだろうし、絵画鑑賞がもっと楽しくなるんじゃないかなぁと思います。そういう意味で、絵画を「読む」力をもっとつけられたらいいのになぁと思いますが、それには本当にいろんな勉強が要るんだよねぇ。(笑)

「深海のYrr(上)(中)(下)」(著:フランク・シェッツィング/訳:北川 和代)

2010-12-19 21:37:03 | 【書物】1点集中型

 3冊で1,600ページくらいですか。長い道のりでした……。でもま、山岡荘八ものに比べればまだまだってことで(笑)。

 まず、海の生物に現れた異常から物語が始まります。メタンハイドレートの層を掘り進むゴカイとホエールウォッチングの船を襲うクジラやオルカ、そして猛毒のクラゲに病原体の運び屋と化したロブスター、ゼラチンのような未知の物質。
 被害の拡大を防ぐべく各地の科学者たちがそれぞれ身近な異常に挑んでいきますが、どれがどう繋がっていくのか、上巻ではまだまだ序の口で想像がつかない状態でした。

 どのあたりまで進むとタイトルの「Yrr」の意味がわかってくるのか、そしてそのとき物語がどういう展開を迎えているのかと考えながら進んだ中巻は、「起承転結」で言えばまだ「承」の段階ではありましたが、徐々に「Yrr」の本質に近づいていく感じです。
 この中巻のハイライトは、なんといっても津波じゃないでしょうか。M7~8の大地震で起きた津波ですらまるで比べ物にならない規模。どうやったって逃げようがない。ここに描かれているような「海底地滑り」が本当に起こったとき、津波がこれほどの規模にもなりうる可能性があるものなのかと思ったら……背筋が凍ります。
 そして本当に海にYrr(のような生物)が存在するとしたら。隣人とすらわかりあうことが難しい人類が、価値観どころか善悪すらもまったく共有できない相手と出会ったときに、どう対処するのか。対話する方法は、本当にあるのか? 物語のカタストロフィの根本は、意外と現実に近いところにあるのかもと感じました。

 そして下巻で一気に「転結」です。アメリカ軍人とCIA、そして科学者たちが集まる空母インディペンデンスの中で起きる科学と人間のドラマと策略が、めくるめく展開を見せます。
 同じ方向を向いているはずの人々が、微妙に枝分かれしていく。そしてその枝分かれが引き起こす悲劇。常に世界の覇者であらんとするアメリカを極端な形で擬人化したようなジューディス・リーの姿には、Yrrが人類に及ぼしたさまざまな脅威と近い意味でぞっとさせられました。

 終わってみれば、人類にとって海はもうひとつの宇宙であり、地球にとっての生命の源であるという、わかっているつもりで意識していないことを再確認させられる物語ではあります。こういうものを読むと、これまで宇宙のことを知りたくて読んできたものと同じように、やっぱり海という世界も知りたくなりますね。どちらも「起源」をめぐる旅という点では共通するものがあるからじゃないかと思うんですけど。
 しかし、ヨハンソンの仕事は見事だったけど、読んでてヨハンソンには肩入れしたくなる感じだっただけに、彼の迎えた結末はちょっと悲しい~。仕方ないんだけど。
 なので、アナワクとウィーヴァーが揃って帰還したことに未来を見ることにしましょう。


「ハーモニー」(著:伊藤 計劃)

2010-12-15 23:02:06 | 【書物】1点集中型

 人的リソース――「公共的身体」。誰もが社会の一員であり社会に貢献すべき存在であるから、その健康を第一に守るために体内監視システム構築し、ほぼすべての病気を根本から消し去ってしまった社会。
 かつて、少女ミァハはそんな世界に向かって、自ら命を絶つことを選ぶことで、自分のすべては自分だけのものだと証明しようと試みたのでした。優しさという真綿でじわじわと首を絞められながら、ついにはただ社会にのみ尽くす存在になる未来を拒否して。

 それでも人間は、自分が自分であろうとする「意識」を持つからこそ、社会と相容れずに壊れてしまうこともあり、それがゆえに自殺という悲劇が起きることがある。ミァハ自身は自殺には成功しなかったけれど、自殺した隣人を目の当たりにした経験、その悲劇をなくしたいと望んだことは事実でしょう。だから、ならば人間から意識を取り除けばいいという結論に達した。
 誰も間違うことなく、争いもなく、苦痛もなく、完璧なハーモニーを永遠に保つユートピア。
 ミァハはそんな「優しさに殺される」社会を、最初は憎んでいたのに、最終的にはその社会をさらに純化させようとした。彼女自身がもともと「意識」を持たない民族であったという過去が、あるいは意識を第一義的に考えない理由のひとつにもなったのかもしれません。

 「意識の消滅」を選択した人類は、「とても幸福」になった――そう、物語は締めくくられています。
 人は意識がなくても生きられるという現実。それでも、トァンがミァハに向けて撃った銃弾は、トァンの意思で撃たれたもの。社会が自明としたものではなく、トァンという「わたし」自身の選択だった。意識を持った人類の終焉に立ち会ったトァンは、「わたし」に別れを告げたその後、どう生きていったのでしょうか。

 人が人であるために本当に必要なものとは何なのか。身体なのか、心なのか。「意識を持たない」ことは、「考えない」ことに似ています。考えることをやめたとき、迷いながら自ら選択することをやめたとき、果たして人は人であることができるのか。
 ……と、それだけならよくある問いではあるのですが、「意識を持たないからこその幸福」を物語に突きつけられた今となっては、「人間とは本当はいかなる存在なのか」というところまで考えさせられているように思うのです。
 舞台装置はSFなんだけど、最後はまるで哲学。だから、読後感が「虐殺器官」と通じるところはありますね。この空気感が、作家・伊藤計劃のカラーだったのかな。それにしても、つくづく惜しい作家さんを亡くしてしまったと思います。

 あと、etmlという小道具はちょっと面白かったですね。エピローグで「ああ、だからこうやって書かれてるんだ」というのを種明かしされた感じです。本編最後の<null>タグはなんか、気持ちに刺さりました。
 よく考えると、意識をデジタル化して肉体のくびきから抜け出すというのは昨今、SFでは珍しくない設定だけど、この作品が最後にたどり着いたところってその真逆なんですね。今さら気づきました。(笑)


「宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎」(著:村山 斉)

2010-12-08 23:25:12 | 【書物】1点集中型
 たとえば「宇宙創成」みたいな本を読むとそれこそ「宇宙」をもっと知りたくなってくるものですが(「宇宙創成」そのものの出来のすばらしさにも当然、負うところは大きい)、そういう意味では「宇宙つながり」な感じで読んでみた本です。もともとSFに描かれるようなイメージの「宇宙」が好きだったりもするので(笑)。

 この本は副題の通り、「素粒子物理学」を下敷きに、宇宙の起源を探る発見や研究について書かれてあります。「宇宙創成」は天文学に重きがおかれているので切り口は違うのですが、そっちで目に慣れた言葉もちらほらと出てきたので、ある程度のイメージを描きながら入っていくことができました。
 とはいえ私の頭の中は基本的に文系なので、実際のところ、読み進んでいくとだんだん、わかったようなわからないような……みたいな話も当然出てくるわけですが(笑)。ただ、分子→原子→電子や原子核→中性子→陽子→ニュートリノ……みたいな感じで(この順番が正しいかどうかはとても怪しいので置いといて)どんどん物質を細分化していくことが、無限ほどの規模をもつ宇宙の起源を探究することにつながっていく。この一見逆説的な話に、本書を読んでいくと驚くと同時にちゃんと納得できてしまいます。
 しかも、リニアコライダーみたいな実験施設の途方もなさなんて、ただその途方もなさだけで素人には「宇宙規模」に感じられて、ただ「すごいなー」とか思うばかり。←子供じゃないんだから

 読んだ内容が完璧に身についたとは間違っても言えなくて、雰囲気を感じただけで本当は10分の1ほども理解していないんだけど、こうやって読むと物理もおもしろいなーと思うんですよね、学べるかどうかは別にして(笑)。
 学問ってこういうふうに深められていくものなんだなということを、改めて感じさせてもらったと思います。「あとがき」にもありましたけど、こうやって形になったものを読むことは、「心、精神、文化の豊かさも含」めて、ちょっとだけでも自分を「豊か」にしてもらえたような気がします。やっぱり、何かを「知る」って楽しいと思うのでね。それを活かす方法はなかなか見つけられないんけど(笑)

 最近は本を読みながらも、隈のこととか省吾のこととか(渡辺)直人のこととかストーブリーグについて思うところがあまりにもいろいろあるのですが、このへんはとりあえず日を改めて。相変わらず横目で見ている感じだけど。

マリノスのマツ。

2010-12-04 23:56:01 | 【スポーツ】素人感覚
 今ごろの話で恐縮ですが。
 松田直樹@マリノスの来年の契約更新なし、という記事を見てから何日かが過ぎました。「便りのないのは元気な証拠」とはよく言ったもので、久々にスポーツトピックスで名前を見たと思ったらこの話題だったので、衝撃を受けたのはもちろんですが、逆に「ああまだまだちゃんとがんばってたんやな」とも思ったものでした。←でも話題は戦力外通告(汗)。

 私自身すっかりサッカーを見なくなって久しくなっていますが、それでも日産自動車のころからけっこうマリノスが好きで、昔はちょこちょこと(TVで見られるときだけだけど)試合を見たりもしていたものです。井原が去り、俊輔が台頭し……という、一昔前くらい? のマリノスの中にあって、個人的にいちばん好きな選手が、松田でした。小生意気な感じであったり、それでいて暑苦しいくらい気持ちが熱かったり、短気であったり、そういう小僧ちっくな性格も見てておもしろかったし、あとやっぱいざとなれば攻撃もできるDFというのがツボだったのですよねー。
 ちなみに個人的にはDF好きの傾向にありますが(そもそも井原好きだったし)、これは私のサッカーの原点であるC翼で松山がいちばん好きだったからという点に由来します(笑)。どうでもいい話ですが。ま、野球も基本的に守備のできる人の方が、打つのが得意な人より好きだしね。
 
 で、今日が本拠地最終戦だったということで、スポーツニュース見たかったんだけど見れなかった(泣)。

 契約更新を行わない旨伝えられたときは、松田本人がかなり動揺していて「何を言われたかよく覚えていない」という状態だったそうで、その後も球団首脳や和司監督との対話も拒否した、とかいう記事を見ました。
 大人気ないといえばそうなんだけど実際そう簡単に吹っ切れる話でもないし、マツの個性ってきっとそういうところにあって、いい意味でも悪い意味でも子供というか少年というか(笑)そういう部分をずっと持っているんだろうなと個人的には思っていました。だから気持ちの整理がつけられなくて、それが短絡的に「拒否」という形になるしかなかったんだろうなと。

 もはやチーム最古参レベルの選手だと思うので、「良くも悪くも」チーム内での影響力が強くなるのは否めないところだったのだろうと思います。血の入れ替えという意味合いでの今回の、山瀬や坂田も含めた(っていうか、このあたりまでもが……って感じではあるんだけど。正直。)契約終了劇は、チーム再建の論理的にはわからないでもない。でも最大の問題はやっぱり、そのやり方にあったんだろうなーと、傍から見ていて思います(スポ紙の記事だけだけど)。
 一旦言ったことをひっくり返すのであれば、それなりに時間をかけて言葉を尽くすべき。配慮が足りないと言われても仕方がないことを、フロントはやってしまったということなんじゃないでしょうか。そりゃ契約という行為は本質的にはドライなものかもしれないけど、最後は人間同士がやることなんだから、喧嘩別れするよりはお互いの事情をある程度わかりあった上で別れる方がいいに決まっているんだから。マツだって、山瀬だってほかの選手たちだって、その方が気持ちの切り替えも早くなるに決まっている。

 でも、練習中に負傷してこの試合に出られるかどうか微妙な状態になってから、それでもちゃんと和司さんに謝って。周りの後押しもあったと思うけど、やっぱり最後は、今まで応援してくれた人たちに、ピッチに立つことで挨拶をするのがいちばんの形だと思ったんじゃないかなと感じました。
 最後に自分で「生意気でわがまま」と言っていたし、浮き沈みの激しい感じがある選手だから、批判もされることももちろんあっただろうけど、そういうところもひっくるめて、16年間愛されることができたのではないかなと思います。

 早速、山瀬には広島がオファーを出しそうだという話も出てきていて(札幌も出戻り要請しそうな雰囲気らしい)、これから各チームの来季編成が本格化していくのだろうけど、マツがマツらしくサッカーを、やりきったと思えるまでやり続けられる環境が見つかることを祈っています。

 そんなわけで、今日はちょっと思い出話みたいな感じで実のない話をつらつらしてしまいましたが、それにしても残念なのは、横浜をフランチャイズする日本の2大プロスポーツチームがこれでいいのかっつー話ですよね、ベイスターズにしろマリノスにしろ。(横浜FCのことはさらにわからないけど……)
 よりしんどいのはベイスターズな気はしますが、どっちにしてもファンも選手もたまったものではないなぁという今日このごろです。眉尻下がるわ。