life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「歩 ―私の生き方・考え方―」(著:宮本 慎也)

2014-02-26 20:57:05 | 【書物】1点集中型
 遡ること何十年、篠塚や川相に始まり、水口栄二、アライバ、高須洋介とかとか、さらにはデイヴィッド・エクスタインに至るまで私は、野手を観るなら二遊間! という好みであった。宮本慎也氏はその中に当然入ってくる選手の1人であり、仲間内では親しみと敬意をこめて(勝手に)「宮様」と呼び習わしている(笑)お方である。
 実はこの本を手に取ったきっかけは、出てるのは知ってたんだけれども特にすぐ読もうとか思ってたわけでもなくて(すいません)、上原浩治「不変」をWS優勝のご祝儀(←何様だ)のつもりで買いに行ったら隣にあったからである(笑)。あれだけクレバーな守備をする選手が何を考えてプレイしているのかにはとても興味があり、読みたいとは思っていたので、どうせ1冊買うのならばぜひとも宮様の印税にも貢献したい気持ちが盛り上がり(笑)購入と相成った次第。で、「不変」はあとに取っておいてこちらから先に読み始めた。

 全体は、選手晩年→小さいころ→高校から社会人まで→プロ入り以降、という形でまとめられている。「スタメンで出場する価値がない守備力など、評価されても本意ではない」と言い切るところに矜持を感じた。それが自分の選手としての価値であるというプライドだけでなく、後進へチャンスを与える道を残すという意味合いを持っているところが、深い。
 そして驚いたのは、犠打数の記録については氏自身がそれほど重きを置いていないということ。犠打はあくまで選手としての自分に価値をつけるために必要だった手段であって、それ自体を最大の武器にするつもりはなかったということだ。
 あれだけ犠打の技術を磨きながらも、「犠打のサインを出されないような打者」をめざしていた。みんながみんな、たった1打席しかなくてもボロボロになるまでやりたいというタイプではないというのは、わかっていたようで実はそうでもなかったんだとあらためて気づいた。もしかしたら、守備を売りにするタイプの選手はそっちの方向が多いのかもしれないなぁ。

 脱税事件も、そういえばこうやって氏自身が語るまですっかり忘れ去っていた話ではあったけども、今さらながら(今だから言えるとも言うが)あの宮本慎也にしてそんな落とし穴にはまることもあるということだ。っていうか、自身の「せこさ」が招いた事件だったと分析しているのが、言い方は不謹慎だけどちょっと笑いを誘うところでもある。
 なんかこう……プレイスタイルからするとぱっと見、考えて考えて行動しそうなタイプに見えるのが、実はえらいしゃべりだったり、AVマニアだったり←この話はこの本には出ていないが(笑)。ある意味、そういう「宮様、そんなところもあるんやなー」と苦笑させられつつも結局面白く受け容れてしまうような。もちろん、今こうしてその後の本人の姿勢を知っているからだけれども。

 とにかく「野球で食っていく」ための自分の方向性を常に探り、見極め、チャンスを活かしていく、言葉で言うのは簡単だけど実行し実現できる人は一握り。進塁打ひとつ打つにしても、その打席の中での1球の意味を考えなければ、上に行くことはできない。その、上に行く一握りのなかに結果としてしっかり生き残ったという凄さ。気がつけばアテネでキャプテンしてた当時の氏の年齢を越えてしまった我が身を省みて、人生経験の差に愕然とする(笑)。
 欲を言えば、宮本氏自身の視点から、アテネのほかのナショナルチームについてももっと話を聞いてみたかったなー。アテネが終わってからの上原氏とのエピソードは、いかにも上原氏らしくて面白かったけど(笑)。DVD見返してみようかなー。

「スットコランド日記」(著:宮田 珠己)

2014-02-25 22:55:42 | 【書物】1点集中型
 旅じゃないタマキング本としては最近「なみのひとなみのいとなみ」を読んだばかり。こちらは複数の連載ものをまとめてたせいか、個々のエピソードにタマキングらしい面白さあるものの多少のバラバラ感が少しあったが(そういう編集なので良し悪しではないけど)、こっちは企画としては1本ものだったので普通~にするする読めた。

 関東のどこだかわからないけどちょっとのどかな方面の崖っぷちの宮田家周辺は、スコットランド風味だけど未満なのでスットコランドと命名される(タマキングに)。妻・娘・息子(敬称略)のそれぞれの性格にも、この夫・父にしてこの人々ありという存在感がありありである。
 「だいたい四国八十八ヶ所」を書き始めた経緯とか、実は小説を書きたいんだぁ!(書いてる)という話とか、エッセイ連載の難しさとか、よく読むとけっこう真面目な話もある。でも、そう思わせつつその真面目さをがつがつ掘り下げたりせず煙に巻く感じが、いつものタマキングである。この空気感がたまらない。

 ●夜になると人知れず赤外線発光し、それを目印に次々と不幸が投下される「不幸のワッペン」。
 ●トイレットペーパーの芯を捨てられない理由(=タマキングの妄想寸劇)。
 ●「辺境作家」高野秀行氏が辺境を書き出版界の辺境に棲息するならば、「外出作家」宮田珠己氏は外出について書き出版界から外出している。
 ●凶悪台風フンシェンへの気さくなアメリカ人的語りかけ「ファイ・ドンチュー・ジョイナス・マイフレンド」←絶妙すぎるカタカナ表記のセンス。
 ●舌が肥えるのは、体がだめになってきた証拠。←タマキングは最近、味がわかるようになってきたので余生の過ごし方を真剣に考えねばならないと感じているらしい(笑)。

 ……といったところが今回、特に個人的にツボに入った点である。が、それに輪をかけて印象に残ったのは、タマキングが北京五輪の男子4継に燃えていた様子である。
 仕事がそれどころじゃない状況だから五輪も見ないようにしているのに、うっかり「夏から夏へ」の存在を知ってしまったせいで血が騒いでしまっているタマキング。銅メダルのレースを反芻して涙ぐむタマキング。そして、ニック・ステファノス氏の魔の手(笑)。私もかねて「夏から夏へ」の続編を熱烈希望しているので、まるで他人事とは思えなかったのである。
 
 基本的にのほほんと進行するのであるが、前半あまり出てこなかった「ふざけてはいけない。」が後半ちょこちょこと見えてきて、それも嬉しかった(笑)。旅エッセイに比べると勢いが少し落ちるかな? と思っていたけど、楽しかった。「深煎り」もいずれ読みます。

「幸せはいつもちょっと先にある 期待と妄想の心理学」(著:ダニエル・ギルバート/訳:熊谷 淳子)

2014-02-16 22:39:52 | 【書物】1点集中型
 「明日の幸せを科学する」というタイトルの文庫版を見かけて、装丁も好みだったので興味を惹かれ、図書館で探してみたら単行本のみ所蔵があったので借りてみる。「人間の脳が事故の未来を想像したり、どの未来が最も喜ばしいかを予測したりするしくみと精度を、科学で説明」するのがこの本の目的だそうだ。
 前頭葉に損傷を負うと、未来について考えることができなくなる場合があるという症例が興味深かった。それ以外のことは全く普通の人と変わらないのに、自分が明日、何をしようとするだろうかということが考えられない。予測ができないから不安がない。冒頭からこんな話を持ってこられたら、惹き付けられざるを得ないところである。

 想像の3つの欠点――脳は勝手に記憶や近くの穴埋めや放置をしがちである。現在を未来に投影しがちである。物事がいったん起こると、思っていたのと違って見えるようになるのに、前もってそれに気づかない。想像とは、自分ではどんなに慎重に行っているように見えても、実は客観性は皆無に近いようだ。「人は見たいものだけを見る」とはよく言うけれど、結局「経験」と「希望」を元手に導き出そうとしているのだから、そうならざるを得ないのかもしれない。たとえば、宝くじを買ってから当選番号の発表日を待つまでの間、「当たったら何をしようか、何を買おうか」と、(信じないふりをしつつも)わくわくする日々のように。
 誰もが他人と自分が違うことを信じているし、事実そうではある。が、自他の差は実は自分が思っているほど大きなものではない。ついつい口コミを重要視してしまうあたり、「代理体験が有効」なのを身をもって実証しているのと同じことなんだなぁと思った次第である。

「鋼鉄都市」(著:アイザック・アシモフ/訳:福島 正実)

2014-02-13 01:04:43 | 【書物】1点集中型
 実は意外と読んでないアシモフ。もしかしたら「われはロボット」しか読んでないかも。

 ニューヨーク・シティで起きた、ある殺人事件の被害者は宇宙人。宇宙人とは、地球外に移民した地球人の子孫であるが、地球において地球人を支配する立場であり「地球外法権」を持っており、当然地球人は彼らを快く思っていない。
 そして宇宙人は、この事件の犯人は地球人だと主張する。その解決のために指名されたベイリ刑事は、宇宙人側のロボットであるR・ダニールと嫌々ながらコンビを組まされることになる。

 「ロボット3原則」とミステリの絶妙な組み合わせ。ベイリは、R・ダニールのロボットらしさに反発を覚え、能力で無意識に張り合おうとし、感情で動くことのない姿に苛立つ。ロボット3原則は確かに存在するのに、たとえばロボットに人間が仕事を奪われるというような切実な問題が巷にあることによって、ロボットに凌駕され生活が脅かされることを人間は恐れる。
 でも、ロボットの機能は人間の能力を上回るが「電子頭脳は、唯物主義から一インチでも出ることはできない」のである。人間の持つ(まだ)解明され得ないファジーさがあったればこそ、「人間の人間としての能力を持ったロボットを造ることはできない」
 地球人と宇宙人の関係も、種が明かされてしまえば結局はこれに近いのだ。宇宙人が地球人との接触を忌避するのは、地球人を下に見ているからではなかった。宇宙人を追い払い自然に帰れと主張する回顧主義者たちと、ある意味では同じ考えを持っていたからだ。種の存続において、論点は違えど、環境によってそれぞれ解決せねばならないことがある。それが明らかになるベイリとファストルフ博士の論争のシーンは、読んでいてとても引き込まれた。幸せに見える環境の陰に隠れているものは、現実のどんな時代のどんな国にも何かしらあるものであるはずだから。

 R・ダニールの「悪の破壊は、この悪をいわゆる善に転換させるよりも正しくないし、望ましくもない」という言葉は、C/Feの実現する世界へ向けて、誰もが持つべき考えなのかもしれない。罪を償うことと、償うことを許すことの両立。そんな気がする。

「影のミレディ(ブックマン秘史2)」(著:ラヴィ・ティドハー/訳:小川 隆)

2014-02-10 00:37:09 | 【書物】1点集中型
 「革命の倫敦」に続く物語。今度はタイトルに「ミレディ」の名を関しているだけあってパリが舞台である。前作より少し後の年代になっているが、話の関連性は設定にちらっと見えるだけなので、前作を読んでなくても差し支えない。
 パリだけど、やっぱり自動人形が幅を利かせてたり、人間と機械の融合みたいなモチーフがいろいろと出てきたり、スチームパンク全開なのは変わらず。フランケンシュタイン博士なんて、題材的には使いやすくて堪らんよね(笑)。それに加えて今回は何故か中国武侠なんか出てきちゃったりする。

 前作の主人公オーファンが流れに流されていたとすれば、今作の主人公たるミレディは「議会のエージェント」という立場ではあるものの、いっそ傍若無人なほどの動きを見せる。アクションの描写も相当激しい。全然「影」じゃない(笑)。あまりにも肉体派なので、なんつーか「ミレディ」じゃなくても良かったんじゃないか? とか……それを言ったらこのシリーズおしまいなわけだけども(笑)
 基本的にはスチームパンクだけど、地球外生命体の存在があることによって、一風変わったものになっているのは確か。「ゲイトウェイ」とか、そこはなんか妙に王道のSFっぽくなってたなぁ。まあ、私なんかはこういう場面を見ると短絡的にすぐ、クラークとか思い出してしまうのだが。

 そういった要素を入れつつ、あのキャラもこのキャラも……という空気は前作と変わりない。盛りだくさんだから、全体的にどうしてもとっ散らかってる雰囲気は変わらないんだよね。作者がとてもいろいろなことを書きたくて仕方がないのかな、という感じはする。まあ、三銃士の影は相当薄いけど(笑)。
 が、舞台装置以外には前作との関わりが見えにくいので(見えなくてもいいというつくりなんだろうけども)、締めくくりの第3部でどう収束させるのかという点には興味がある。特に今作、肝心の「ブックマン」もほとんど本筋に絡まないところにいたからなぁ。

「尾形光琳―江戸の天才絵師」(著:飛鳥井 頼道)

2014-02-05 23:39:28 | 【書物】1点集中型
 琳派好きとしては、装丁で手に取らずにはいられなかった(笑)。幼少から晩年までの光琳の時々を短く綴った「点描」を妻女多代の聞書の体で補足し、資料的に同時期の「光琳年譜」が添えられた形になっている。

 大店の次男坊が放蕩の末に画業で食っていく決心をしつつも、その「今業平」の性は終生変わらず。タイトルには光琳の名があるけど、実際、作中には作品に関するエピソードはほとんどないので、絵師・尾形光琳というより最後までずっと雁金屋のぼん・市之丞を見ている気がした。「この世は仮の宿やいうけど、やはりそこに執着して生きていくしかないんや」と、奔放に生き切った男。しかしよく出来た奥さんがいて本当に良かったね、という話。か?(笑)
 でも、たとえ光琳がどないにダメ男でも(笑)そういう奔放な性格から生まれたのが光琳の作品だから、同じく「遊び」を楽しんでたように見える抱一が光琳の作品に惹かれる気持ちは、わからないでもない気がする。とすると、ここまで好き放題遊ぶほど人生楽しんでる気がしない自分(笑)は、琳派のそういう、自分にないものが投影されたあの絢爛さを愛しているのかもしれないなぁ。
 「悟り澄ましとったら、人を愛することも人を慕わしく思うこともでけへん。それでほんまにこの世を生きたということになるんやろか」。あの絢爛たる華やかさの中にある品の良さ、凛とした感じも、「遊び」の中にある彼らの矜持そのものなのかも。

「シブミ(上)(下)」(著:トレヴェニアン/訳:菊池 光)

2014-02-02 21:25:02 | 【書物】1点集中型
 「サトリ」を読んでから。作者が違うとは言え、まず文字量の違いにびっくり(笑)。

 冒頭のローマ国際空港での虐殺事件の裏側に蠢くCIAとその「母会社」の謀議と対をなすように、少年ニッコがいかにしてニコライ・ヘルとなったかが生き生きと描かれている。しかし、上巻で見えるニコライ自身の像は、母と暮らし、岸川将軍と暮らし、大竹氏に囲碁を学び、大戦後の東京でひとりどうにか生き残った姿。そして、ニコライにとっては恩人であり父である「岸川さん」の誇りを汚さないために、彼を手にかけた姿。どれもこれも過去の姿であり、「今」のニコライ本人の姿が全く出てこない! 彼の「今」は、すべて第三者が語っていて、おかげでまだ見ぬニコライに妙に期待が膨らむのである。
 <裸-殺>の詳しいアクションが敢えて省かれているのは、そのようにフィクションの中での本物をを悪行に利用されることを避けたいからということだ。やる人がやれば本当にそのように一撃必殺、手に触れるもの全てが凶器たりうる術があるというのは、凄い話すぎて現実味はないけどやっぱり本当なんだろうなーと漠然と納得したりしてしまう(笑)。

 それにしてもニコライ母って、自分の魅力をよく弁えているんだけれどもその分意外にいけ好かない人なんだなぁ(笑)。まあニコライもこうして見ると、ウィンズロウが描いた青年ニコライよりもさらに人好きのしない感はあるが。

 下巻に入ったら入ったで、やっとニコライご本人登場! と思ったらずーっとケイヴィングしてる(笑)。「サトリ」のド・ランドを思わせる駄法螺吹きのバスク人ル・カゴとの両極端コンビ。っていうか、今回の敵である「母会社」と接触するまでに相当洞窟に潜っているので、探検小説かと思ってしまうくらいである(笑)。
 実際、例のダイヤモンド氏とご対面を果たしてからも、ニコライ自身の肉弾戦は本当に少ない。そういうとこは「サトリ」と全然違う感じ。冒険小説といえば確かに洞窟を冒険している小説であるのだが(笑)、アクションは本当は敵に対してではなくて(確かにダイヤモンドに邪魔はされるのだけれども)この自然に対しての戦いを指しているのではなかろうかと思われる。

 なんつーか、スパイ小説とかサスペンス小説とかそういうものを期待してはいかん物語だった。本当はそこを期待してた(というか勝手にそういうジャンルだと思っていた)から、ものすごい盛り上がりを感じたりしたわけではなかったけど、つまるところは西洋人の姿をした東洋人・ニコライの生き方を読むための物語かも。だからこそ「シブミ」なんだな、きっと。
 洞窟でのダイヤモンドとの対決も緊迫感があって、自然と人間との併せ技の戦いって感じでよかったけど、個人的には「とつぜん、ピンと張った青空と陽光の下に出た」ときの「完全な静寂に包まれて」「自分のこめかみを血が押し通る音が聞こえ」る場面の山と谷、そして空の描写がとても好き。完全に頭の中で画ができ上がってて、「見てみたい!!」と思わずにいられないのである。

 ところで、岸川将軍が、自らを政治やイデオロギーに対してではなく「日本の事物に対する愛国者」と語ったのには、そうそう、そういうことだよねーと納得した。守りたいものはそういうもので、そういうものを愛でる心が国の「うつくしさ」を作るのではないのかなぁ。