life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「幼年期の終り」(著:アーサー・C・クラーク/訳:福島 正実)

2011-11-15 22:59:48 | 【書物】1点集中型
 雪が降った……ほんのちょっとだけだけど。

 さて、ようやっと読んだ「幼年期の終り」。3部構成の第1部は、多少のディテールの差はあれど、「太陽系最後の日」に収録されていた初期短編「守護天使」そのものという感じだった。なので、世界には入りやすかった。カレルレンとストルムグレン(訳の違いか、微妙に名前が変わってる)の関係って、やっぱりちょっと微笑ましいところもあるし。実際に犬と飼い主、みたいな喩えが妥当だとしても。

 で、「幼年期の終り」には「守護天使」の先の話が当然描かれているわけで、カレルレンをはじめとする人類を導く存在である「上帝(オーバーロード)」と、さらにそのまた上にいるとされる(と、オーバーロードが語る)「上霊(オーバーマインド)」と、そして地球人類がたどり着く道が示されている。それらの関係性を見ていると、「20XX年宇宙の旅」シリーズにも通じるところがあるし、SFの世界で人間の究極の姿を描くとやはり最後はこういう方向へ行くのかな、と、何人かの作家の作品を読んでみて思った。
 でも「幼年期の終り」がちょっと違うのは、それまで地球人類がもっていた「個」を体現する存在が、物語の最後ではオーバーロードたちしかいなくなってしまうこと。言い換えれば、オーバーロード(人類がいなくなったあとでは、オーバーロードという呼び名も意味を成さないかもしれないけど)こそがそれまでの人類に最も近い存在となったということかもしれない。そしてこちら側(読み手)は、それまで以上にカレルレンたちオーバーロードに感情移入しているような気になり、さらにはオーバーロードたちの未来にしばし思いを馳せさえもする。ちょっとしたパラドックス。

 パラドックスと言えば、「最後の人類」となったジャンに最後の種明かしをしてみせるラシャヴェラクの語る、地球人の「未来の記憶」。まさしくタイム・パラドックスというか、ホーガンの巨人シリーズ3部作にもあった時環(タイムループ)というか。そうかぁここでも出てくるのかぁ。
 地球人類が望む進化であったかどうかは別として、ジャンが見届けた地球の最期は、それでも壮絶に美しいであろうと思われた。地球というひとつの命がもつものすべてを文字通り(?)超新星の如く閃かせた、最後の咆哮。人類と地球の双方の迎えた結末を知るただひとりの人類となったジャンは、そのとき、神と一体化したのかもしれない。

「フェルメール 光の王国」(著:福岡 伸一)

2011-11-13 23:21:10 | 【書物】1点集中型
 フェルメールの作品を、所蔵の地に赴いて鑑賞する――この夢は、夢見ることは幾たびもあれど、そう簡単に実現できるものではない。そういう意味では、「足掛け4年」の福岡氏の旅は、私にとっては羨ましい限りの旅でもある。
 機内誌(翼の王国)では途切れ途切れに数回しか読む機会がなかったので、1冊にまとまってくれて嬉しい。全部が収録されているのかどうかはわからないけど、カラー写真もふんだんに掲載されている。特に、各章の扉の写真が美しい。なので、この価格も納得というか。←けちくさい話ですいません(笑)

 フェルメールの作品を見るにあたって、まず何よりも目を惹くのがその「光」。私は初めてそれを目の当たりにしてから、いくつかオランダ絵画も鑑賞して、あの「光」はオランダという土地でこそ生まれたものなのだなと、なんとなくだけど感じられるようになった。
 他の国で生まれた絵画とは明らかに違う「光」。何がどう違うのか、説明する語彙も表現力も残念ながら私は持たないけれども……でも、「オランダの光」というのは、少なくとも絵画の世界には間違いなく存在していると思う。それを捉えて描いた画家たちのおかげで。

 さらにオランダ絵画の中でも、フェルメールの作品が持つ独特の「光」。それを福岡氏は「光のつぶだち」と表現した。単なる比喩ではなく、そのもの「粒子」として。
 この表現も含め、全体として、帯にあるように「科学と芸術の間を遊泳する」福岡氏の科学者らしいアプローチが独特だった。雰囲気としては、サイモン・シンの著書が「文系視点でも理解できる理系話」であるように、「理系視点で見ると芸術をこう読み解くこともできる」という感じがする。ガロアの話とか、「界面」のモチーフとかね。やっぱり、「科学的視点」って何に向けても面白いものだなぁと思う。

 福岡氏が見た、フェルメールの生きたオランダの「光のつぶだち」を、私もいつかこの目で確かめたい。何よりもそう感じる読後でした。

「100年の難問はなぜ解けたのか 天才数学者の光と影」(著:春日 真人)

2011-11-09 23:57:51 | 【書物】1点集中型
 とりあえず数学系のノンフィクションをなんとなく読んでみてしまう昨今。今回のお題は「ポアンカレ予想」。簡単に言えば、「宇宙の形が丸いか丸くないか」という話なのだそうだ。
 これを語るときに外せないのが「柔らかい数学」と言われるトポロジー(位相幾何学)。ごくごく簡単に(あるいは乱暴に?)言えば、「穴の数がいくつあるかによって形を分類する」数学で、ジオメトリクスの雰囲気(素人の大雑把な言葉で言えば、要するに数学の持つ「硬い」イメージ)だけが数学ではないことを私は今さらに知った。それと、高次元空間という考え方がSFに出てくる理由も。数学由来だったのね。って、理解が遅いけど(笑)。
 で、ポアンカレはこのトポロジーによって宇宙が丸いかそうでないかと確認できるはずだと考えたという。

 証明されそうでなんとしても証明されなかったこの100年の難問を、世の数学者たちが想像もしなかった方法で解き明かしたのが、ペレリマン博士。
 新しい数学であるトポロジーの象徴である問題が、トポロジーではなく微分幾何学と、さらには物理学を源とする考え方まで駆使して解かれたという結果は、素人目にも驚きであった。ペレリマン博士がたとえ数学を専門としていなかったとしても、おそらくポアンカレ予想の証明に類する業績を挙げたであろうことは、想像に難くない。

 かつてポアンカレ予想に挑んだサーストン博士は、「数学の本質とは、世界をどういう視点で見るかということに尽きます」と語った。
 おそらく、この証明を検証する作業の中で、そこに描き出されたペレリマン博士の思考の経路を理解することは、数学者にとってすら困難でありながら、同じ視点で同じ理解へ到達することの喜びを感じられる作業でもあったのではないかと思う。

 ペレリマン博士は非常にストイックに数学と向き合った研究者だという。しかしその博士が、証明を終えたあとはまるで世捨て人のように、生き甲斐であったはずの数学を捨て、世に背を向けたのは何故か。想像が及ぶべくもないが、陳腐な言い方をするならば「燃え尽きた」ということなのだろうか。
 しかし博士は、「別の関心事」があるという言葉も残した。それがいつか世に現れる日があると信じたい。その姿が数学の形をしていようとそうでなかろうと、ペレリマン博士は間違いなく、同じ真摯さで向き合っているはずだから。

「復讐するは我にあり 改訂新版」(著:佐木 隆三)

2011-11-08 22:46:38 | 【書物】1点集中型
 恥ずかしながら、過去に映画化されているとは全く知らずに読んだ。「西口事件」と呼ばれる(らしい)実在の犯人による一連の事件をもとにしたノンフィクション・ノベルだそうだ。

 最初に専売公社職員2人を殺害して逃避行を始めることになったのが、主人公となる犯人の榎津巌。行く先々で食いつなぐために詐欺をはたらく形になるが、その手口がかなり周到というか、何故かちゃんと外堀を埋めてあるのが、鮮やかと言うほかない。詐欺の手口の見事さにも現れるように、非常に弁が立つしアドリブもきく。おまけに相当な精力家でもあり、女に不自由はしない。

 事件に関わった人々の言葉を通して描き出される榎津は、彼の犯した殺人事件の現場の凄惨さにも関わらず、決してどぎつい冷酷さや残酷さを感じさせる人間ではなかった。それなりの愛情も信仰もある。これならついてくる女もいるだろう、と納得させられる部分もある。けれど、犯罪に対する自らへの呵責は、決定的にない。
 あまりにも平然と犯罪を重ねていく榎津を追いつつ、なんというか、本当にこういう人間が存在したという実感が、未だに湧いてこない。ノンフィクションだとわかっているのに。それがちょっと自分でも不思議なのだが、おそらく、自分の思考回路が榎津のそれと交わっていないのだろうと思う。
 だから、果たして「復讐」とはなんだったのか、読了した今もまだちゃんと答えを出し切れていない。

 解説で、スタンダールの「赤と黒」が引き合いに出されていたのは、イメージとしてわかる気がしたなぁ。「罪と罰」のラスコーリニコフのような、身を捩って悶えるほどの苦悩は、少なくとも表面上、榎津にはなかったけど。

「自衛隊救援活動日誌 東北地方太平洋地震の現場から」(著:須藤 彰)

2011-11-03 16:24:22 | 【書物】1点集中型
 著者は防衛省政策補佐官。自衛隊員ではなく、しかし業務として内から外から自衛隊をつぶさに見、行動をともにしながら、実際の救援活動において自衛隊が何を考えどのように活動を行ったかを綴ったもの。

 瓦礫の撤去ひとつでも、隊員たちはそこにあった人の営みや想いを考えながら行っている。そして、救援活動を行う隊員たちの生活や、復興へ向けた自治体の努力や取り組みの姿勢など、具体的に被災地がどんな意思をもっているかが、平易な文体でとてもわかりやすく伝わる。
 厳しい生活の中でも、糧食(缶飯)ひとつにこめられた隊員たちの想いや相互の繋がり、ささやかな食生活の変化から感じ取れる前進、ところどころに散りばめられたユーモアにもほっとした。百聞は一見に如かずと言うが、一見することの叶わなかった者にとっては、読んでおいてよかった本だと思う。

「巨人たちの星」(著:ジェイムズ・P・ホーガン/訳:池 央耿)

2011-11-01 17:33:26 | 【書物】1点集中型
 ガニメアンシリーズ(と、勝手に言うが)3部作完結編。
 ガニメアンだけでも充分すごいのに、新たに現れたテューリアンの科学技術はもっとすごかった。知覚伝達装置(パーセプトロン)という代物に関しては、ああなるほどこれが昨今の、意識のデジタル化みたいなSF手法に繋がっていくんだなーと改めて思ったり。

 物語は、地球の監視をめぐって後半はジェヴレンとの「戦い」にシフトしていったので、それまでになかったスピード感があった。最後の最後でこういうハリウッドみたいなエンタテインメントが待っていたとは……。今までがどうしても学術的な謎解きに重心がおかれていたから、こういうストーリーも書ける作者なんだなー、と感じたというか。と言っても、基本的には科学的手法、科学的トリックを駆使してこそのエンタテインメントでもあったのだけど、ヴェリコフの大芝居とか、ブローヒリオのベタな悪役っぷりとか(笑)、けっこう楽しめた。
 さらに、ここで惑星ミネルヴァの謎までちゃんと解いてみせてくれる。しかも時環(タイムループ)という離れ業まで使って。しかし離れ業なんだけど論理は全く破綻してない。広げた大風呂敷はきっちりと畳んでくれる作者の再三再四の鮮やかな手際に、この3部作でいったい何度感嘆させられたことか。

 そして読み終わった今、地球人とガニメアンとテューリアン人(と、ジェヴレン人)の未来に、思いを馳せずにいられない。