life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「アルファ・ラルファ大通り」(著:コードウェイナー・スミス/訳:伊藤 典夫、浅倉 久志)

2016-08-27 23:40:12 | 【書物】1点集中型
 「スキャナーに生きがいはない」に続く、コードウェイナー・スミス「人類補完機構」短篇集の2作目。一種マニアックな人気は、今作に登場する猫娘ク・メルはじめ日本のオタク文化に通ずるものを感じさせることもあって……とかいう話もあるらしい。

 だからというわけではないが、やはり真人と下級民の間の事件に関わる物語が目を惹く。虐げられても愛を唱え続ける下級民たちの革命を描いた「クラウン・タウンの死婦人」。「帰らぬク・メルのバラッド」では下級民撲滅を阻止し、真人と同等の権利を持たせるすべく奔走するロード・ジェストコーストが、猫娘ク・メルを相棒に策謀を巡らす。下級民は動物から人間に似せて作られた生物であり、真人(=いわゆる生物学的に完全なヒト)とは区別され、差別され、抑圧される存在でもある。そしてそれを正しくないと感じる真人もいる。要は、人類が常に抱えている問題が形を変えて表現されているということなのだろうと思う。って、こう言うと単純すぎてチープになってしまうけど。でも、それぞれのもとの動物の種としての特性を持ったまま人間の姿や能力を持つ生き物となった下級民たちを見ると、なんというか、ペットとしての動物をいつしか人間と同等に家族の一員として受け容れる気持ちを思い起こすのである。
 ク・メルと言えば表題作にも登場する。全てが共通化された社会から、「フランス人」や「ドイツ人」になり、それぞれの言語を話し、テレパシーで話すこともなくなり、社会が危険を取り除いてくれることもなくなり、自分の判断で危険を察知し回避する、あるいは立ち向かうことを考える「古代世界」での生活を始めた人々が“自分探し”のために足を踏み入れた廃道が「アルファ・ラルファ大通り」。台風という「大気の擾乱」に初めて曝される無防備な恋人たちが、全くの無知な状態から一つ一つ「古代世界」を読み取ろうとする様は、悲劇とは別の意味での面白さがあった。人は自由を漠然と求めてしまうが、その裏にある危険や恐怖はできれば回避したいとも思う。でもそれなしに、本当に自由であることはできないのだろう。だから自由と統制の間でバランスを取ろうとしたり、反発したり、従属したりを繰り返すのだろう。

 「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」「シェイヨルという名の星」は画を想像するとちょっと凄惨である。前者はオールド・ノース・オーストラリアの富の源泉ともなる長寿薬を奪う計画を立てた盗賊と、それを迎え撃つ「ママ・ヒットン」の「かわゆいキットンたち」の戦い。ミュータント・ミンクの存在が何ともまあ残酷な……さらに、そんな残酷な狂気のエネルギーをそのまま凶器として侵略者にぶつけるという発想のすさまじさ。そういえば筒井康隆の「家族八景」で、テレパスの主人公が人の心を除いたときに受けた衝撃の凄さが描かれていたけど、この作品ではそうやって見せつけられた精神が、受けた者の精神どころか肉体そのものを破壊するというものすごさである。
 流刑星シェイヨルでは、送られた人々は人間の「部品」を作るための株になる。文字通り、自分の体に新しい手や足や臓器が生えてきて、人々の世話係の下級民がそれを切り取っては衛星の基地へ送る。肉体的な苦痛はすばらしいクスリで解消する。その作業の果てしない繰り返し。そこに子どもが送られてきたことから状況は一変し、流刑にある人々は補完機構にこの非道を訴える。いつの間にかシェイヨルの異様さに溶け込みながら、さらに新しい人生に向かうことができるようになった主人公とその連れ合いとなった気高い女性の姿は微笑ましくも映る。

 全作品については語れないけど、世界観の独特さを見ているとちゃんと年表を作ってみてほしいなーと思う。年代順に並べて読み直すとまたちょっと理解が進む気がするので。3巻目の巻末につけてくれたりしないんですかねぇ。

「鷲は舞い降りた [完全版]」(著:ジャック・ヒギンズ/訳:菊池 光)

2016-08-17 21:57:26 | 【書物】1点集中型
 存在だけは知っていつつも手をつけていなかった名作のひとつ。これを読まずして冒険小説を語るな! と言われるほどで、解説の佐々木譲氏曰く「スタンダード・ナンバー」。第2次大戦中、ナチスが企てたイギリス本土でのチャーチル誘拐作戦に挑む落下傘部隊と、彼らを現地支援するアイルランド人のデヴリンとボーア人の女スパイが中心となった物語である。
 この作戦部隊を率いることになったシュタイナ中佐は、いわゆる「悪人の典型」のようなナチス軍人としては描かれていない。彼に限らず、もちろん登場人物個々人に社会的背景があり、それを生かした物語ではあるけれども、それは舞台装置としての役割であるとも言える。作戦に誤算が生じるのが子どもを救おうとしたが人間らしい感情からだというのが何とも皮肉でありつつ、陣営はどうあれ、人としてどうあるべきかを無言のうちに示しているようにも見えるのである。

 作戦の「仕込み」に携わるデヴリンと女スパイのジョウアナ、特にデヴリンと少女モリイの関係と作戦との関わりが、終盤になるほど効いてくる。最初はただ恋に溺れている少女らしい少女というだけに見えたモリイの自我が強く表れて、そrがデヴリンに及ぼす影響が切ない。
 イギリス側に作戦が露見してからの戦闘シーンで一気に、クライマックスに向かう盛り上がりが進み、シュタイナとデヴリンの別れがいよいよ結末を感じさせる。本音を言うと、本格的に面白さを感じるようになったのはここからの割とストレートな展開に入ってからであった。
 全体としていかにも男性受けしそうな硬派な物語だが、「その後」の物語がなお一層のロマンチシズムをかき立てる、抒情あふれるものになっている。かつての恋人たち祖ぞれぞれの姿もリアリティを感じさせるし、シュタイナにとっては非情ともいえる皮肉な種明かしも、イギリス文学らしい雰囲気を感じさせるものであった。ある意味、この種明かしがあったからこそシュタイナの挑戦がより一層の光を放つものになっているのかもしれない。