「スキャナーに生きがいはない」に続く、コードウェイナー・スミス「人類補完機構」短篇集の2作目。一種マニアックな人気は、今作に登場する猫娘ク・メルはじめ日本のオタク文化に通ずるものを感じさせることもあって……とかいう話もあるらしい。
だからというわけではないが、やはり真人と下級民の間の事件に関わる物語が目を惹く。虐げられても愛を唱え続ける下級民たちの革命を描いた「クラウン・タウンの死婦人」。「帰らぬク・メルのバラッド」では下級民撲滅を阻止し、真人と同等の権利を持たせるすべく奔走するロード・ジェストコーストが、猫娘ク・メルを相棒に策謀を巡らす。下級民は動物から人間に似せて作られた生物であり、真人(=いわゆる生物学的に完全なヒト)とは区別され、差別され、抑圧される存在でもある。そしてそれを正しくないと感じる真人もいる。要は、人類が常に抱えている問題が形を変えて表現されているということなのだろうと思う。って、こう言うと単純すぎてチープになってしまうけど。でも、それぞれのもとの動物の種としての特性を持ったまま人間の姿や能力を持つ生き物となった下級民たちを見ると、なんというか、ペットとしての動物をいつしか人間と同等に家族の一員として受け容れる気持ちを思い起こすのである。
ク・メルと言えば表題作にも登場する。全てが共通化された社会から、「フランス人」や「ドイツ人」になり、それぞれの言語を話し、テレパシーで話すこともなくなり、社会が危険を取り除いてくれることもなくなり、自分の判断で危険を察知し回避する、あるいは立ち向かうことを考える「古代世界」での生活を始めた人々が“自分探し”のために足を踏み入れた廃道が「アルファ・ラルファ大通り」。台風という「大気の擾乱」に初めて曝される無防備な恋人たちが、全くの無知な状態から一つ一つ「古代世界」を読み取ろうとする様は、悲劇とは別の意味での面白さがあった。人は自由を漠然と求めてしまうが、その裏にある危険や恐怖はできれば回避したいとも思う。でもそれなしに、本当に自由であることはできないのだろう。だから自由と統制の間でバランスを取ろうとしたり、反発したり、従属したりを繰り返すのだろう。
「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」「シェイヨルという名の星」は画を想像するとちょっと凄惨である。前者はオールド・ノース・オーストラリアの富の源泉ともなる長寿薬を奪う計画を立てた盗賊と、それを迎え撃つ「ママ・ヒットン」の「かわゆいキットンたち」の戦い。ミュータント・ミンクの存在が何ともまあ残酷な……さらに、そんな残酷な狂気のエネルギーをそのまま凶器として侵略者にぶつけるという発想のすさまじさ。そういえば筒井康隆の「家族八景」で、テレパスの主人公が人の心を除いたときに受けた衝撃の凄さが描かれていたけど、この作品ではそうやって見せつけられた精神が、受けた者の精神どころか肉体そのものを破壊するというものすごさである。
流刑星シェイヨルでは、送られた人々は人間の「部品」を作るための株になる。文字通り、自分の体に新しい手や足や臓器が生えてきて、人々の世話係の下級民がそれを切り取っては衛星の基地へ送る。肉体的な苦痛はすばらしいクスリで解消する。その作業の果てしない繰り返し。そこに子どもが送られてきたことから状況は一変し、流刑にある人々は補完機構にこの非道を訴える。いつの間にかシェイヨルの異様さに溶け込みながら、さらに新しい人生に向かうことができるようになった主人公とその連れ合いとなった気高い女性の姿は微笑ましくも映る。
全作品については語れないけど、世界観の独特さを見ているとちゃんと年表を作ってみてほしいなーと思う。年代順に並べて読み直すとまたちょっと理解が進む気がするので。3巻目の巻末につけてくれたりしないんですかねぇ。
だからというわけではないが、やはり真人と下級民の間の事件に関わる物語が目を惹く。虐げられても愛を唱え続ける下級民たちの革命を描いた「クラウン・タウンの死婦人」。「帰らぬク・メルのバラッド」では下級民撲滅を阻止し、真人と同等の権利を持たせるすべく奔走するロード・ジェストコーストが、猫娘ク・メルを相棒に策謀を巡らす。下級民は動物から人間に似せて作られた生物であり、真人(=いわゆる生物学的に完全なヒト)とは区別され、差別され、抑圧される存在でもある。そしてそれを正しくないと感じる真人もいる。要は、人類が常に抱えている問題が形を変えて表現されているということなのだろうと思う。って、こう言うと単純すぎてチープになってしまうけど。でも、それぞれのもとの動物の種としての特性を持ったまま人間の姿や能力を持つ生き物となった下級民たちを見ると、なんというか、ペットとしての動物をいつしか人間と同等に家族の一員として受け容れる気持ちを思い起こすのである。
ク・メルと言えば表題作にも登場する。全てが共通化された社会から、「フランス人」や「ドイツ人」になり、それぞれの言語を話し、テレパシーで話すこともなくなり、社会が危険を取り除いてくれることもなくなり、自分の判断で危険を察知し回避する、あるいは立ち向かうことを考える「古代世界」での生活を始めた人々が“自分探し”のために足を踏み入れた廃道が「アルファ・ラルファ大通り」。台風という「大気の擾乱」に初めて曝される無防備な恋人たちが、全くの無知な状態から一つ一つ「古代世界」を読み取ろうとする様は、悲劇とは別の意味での面白さがあった。人は自由を漠然と求めてしまうが、その裏にある危険や恐怖はできれば回避したいとも思う。でもそれなしに、本当に自由であることはできないのだろう。だから自由と統制の間でバランスを取ろうとしたり、反発したり、従属したりを繰り返すのだろう。
「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」「シェイヨルという名の星」は画を想像するとちょっと凄惨である。前者はオールド・ノース・オーストラリアの富の源泉ともなる長寿薬を奪う計画を立てた盗賊と、それを迎え撃つ「ママ・ヒットン」の「かわゆいキットンたち」の戦い。ミュータント・ミンクの存在が何ともまあ残酷な……さらに、そんな残酷な狂気のエネルギーをそのまま凶器として侵略者にぶつけるという発想のすさまじさ。そういえば筒井康隆の「家族八景」で、テレパスの主人公が人の心を除いたときに受けた衝撃の凄さが描かれていたけど、この作品ではそうやって見せつけられた精神が、受けた者の精神どころか肉体そのものを破壊するというものすごさである。
流刑星シェイヨルでは、送られた人々は人間の「部品」を作るための株になる。文字通り、自分の体に新しい手や足や臓器が生えてきて、人々の世話係の下級民がそれを切り取っては衛星の基地へ送る。肉体的な苦痛はすばらしいクスリで解消する。その作業の果てしない繰り返し。そこに子どもが送られてきたことから状況は一変し、流刑にある人々は補完機構にこの非道を訴える。いつの間にかシェイヨルの異様さに溶け込みながら、さらに新しい人生に向かうことができるようになった主人公とその連れ合いとなった気高い女性の姿は微笑ましくも映る。
全作品については語れないけど、世界観の独特さを見ているとちゃんと年表を作ってみてほしいなーと思う。年代順に並べて読み直すとまたちょっと理解が進む気がするので。3巻目の巻末につけてくれたりしないんですかねぇ。