life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉」(著:冲方 丁)

2012-12-30 20:44:32 | 【書物】1点集中型
 「光圀伝」がもう少しで回ってくるまでのつなぎに、気になってたけど読んでなかったので借りてみた。「天地明察」が出てくるまでは、冲方氏といえばこの作品、というイメージが強かったので。←そのわりに読んでいなかったのはどういうわけか(笑)

 相当今さらだけど冲方氏がライトノベル出身ということを知って、なんとなく納得した。高殿円氏(「トッカン」)のときほどじゃないけど、キャラクターの造形がアニメ向きっぽいというか……キャッチーでわかりやすいので、捉えやすい。だから入り込みやすいのかも。ウフコックなんか画にしたら相当かわいいだろうな~と思った。っていうか、とっくにアニメ化(映画化)されてたんですね。納得。
 あと、ドクターの電子眼鏡のAR(は、もはやフィクションではないけども)とか、「電子攪拌(スナーク)」とか、「反転変身(ターンオーバー)」するネズミのウフコックとか、ガジェット的な面も飲み込みやすい。バロットが電子的なネットワークと直に繋がることができるだけじゃなくて、ウフコックという相棒とが文字通り「2人で1つ」になることによって、物理的な意味でもリーサル・ウェポンになる。それから、其処此処に散りばめられた韻や同音異義語での言葉遊びのリズム。そういったいろいろがこの物語の個性になっていると思う。

 ストーリーにも勢いがある。1日1章どころか1日1部、3日で読了。これが戦闘シーンだけで盛り上がらせる形だとこうはいかないと思うんだけど、カジノでの話が意外と大きく取られていて、ルーレットとブラックジャックの勝負が佳境に入るにつれ、SFだということを忘れさせられる(笑)。
 まず、ゲームの運び方がわかりやすく説明されてある。加えて、ディーラーとプレイヤーの心理的な駆け引きも余すところなく描かれているので、カードを引く一瞬の緊張感もより伝わる。眼前にカードテーブルが見えるみたい。こんなふうにゲームができたら気持ち良いだろうなと思う。

 辛さを遮断し、自分の殻に閉じこもることしか知らなかったバロットが、ウフコックを「使う」ことによって少しずつ学んでいく。失敗して、後悔して、自分の心の闇を知る。それをウフコック(と、時にドクター)は常に理解してくれる。それはウフコックにもボイルドとの過去があったからだ。
 バロットの過去は確かに苛酷だけど、ウフコックもドクターも、それにシェルもボイルドもみんなそれぞれなりの過去を背負っていて、結局最後は誰も憎めないつくりになっているあたりが、作者の優しさというか安心感かな。特にウフコックがあんまりにも人間できすぎなので、これはバロットじゃなくても惚れる(笑)。個人的には、抜いた記憶を戻されたシェルのその後がとても気になるなぁ。

 正直なところを言えば、人物の深みは「天地明察」の方があるなぁと感じたけれども、エンタテインメントとして充分楽しめる物語。続編(というか前日譚らしいが)の「マルドゥック・ヴェロシティ」はボイルド(&ウフコック)がメインということで、その後のボイルドの様子からしてちょっと暗めになりそうだけど、なんか「シスの復讐」みたいで面白そうかも、とも思うのでそのうち読んでみようかと。暗いの好きだし(笑)

「ニューロマンサー」(著:ウィリアム・ギブスン/訳:黒丸 尚)

2012-12-21 21:48:56 | 【書物】1点集中型
 本屋で見かけた新装版の装丁に目が惹かれたのと、「攻殻機動隊」(とか「AKIRA」とか「マトリックス」とか)がこれに影響された作品であるというので読んでみることに。と言いつつ「攻殻機動隊」の観賞はTVシリーズが主で、原作は読んでないんだけども。

 意外にも何故か物語は日本、千葉から始まる(そういえば「ディファレンス・エンジン」でも日本人が出てきたりしていた)。機械化された人体、サイバースペースを縦横無尽に行き来する「カウボーイ」。アングラっぽい路地裏と裏社会とどぎついネオンが見えるような雰囲気。定義は明確に理解しているわけじゃないが、「これぞサイバーパンク」と無条件に感じてしまうような空気がある。
 ストーリーは正直、わかるようでわからないような……で結局ケイスが雇われた当初の目的って何だったんだっけ? と振り返ってしまうこと多々だったのだが(笑)描写のひとつひとつを頭の中で映像化して読み進めるのだけでも充分楽しかった。なんつーか、オタク心をくすぐられるようで(笑)。雰囲気だけで楽しめるというのは、ありそうでなかなかないことではないだろうか。

 やっぱり、映像化されたものを観てみたいなー! って、それが「攻殻機動隊」の世界であったり「マトリックス」の世界であったりするわけではあるが。なので今はとりあえず「攻殻機動隊」でいいから(「でいいから」ってのも失礼だが)見たい。先日「イノセンス」見逃しちゃったし……。

「アルゴ」(著:アントニオ・メンデス&マット・バグリオ/訳:真崎 義博)

2012-12-12 23:25:34 | 【書物】1点集中型
 映画ももちろん気になってたんだけど、観に行ける気がしなかったので(笑)ええい買っちゃえ! とばかりに買ってみた。お楽しみ的に後生大事に取っておいて、結局観に行くタイミングを逃した映画も終わってからやっと読み終わった次第である。

 作中には「アルゴ」以外にもメンデス氏が携わってきたいくつかの作戦が紹介されており、それらの経験がアルゴ作戦を支えたということがよくわかる。「CIAにはこんな仕事があるんですよ」みたいな、資料的面白さがあると思う。誤解を恐れずに言えば、壮大な手品のタネを見せてもらうような。
 ラインハルト(@銀英伝)じゃないけど「勝ち易きに勝つ」ための、作戦を実行する環境を整える偽装工作の様子が覗けるのが興味深い。同業者でもあり小説家となったル・カレの名前が出てくるのにも、ニヤリとさせられたくらいにして(笑)。

 全体的な雰囲気としては、わりと事実が淡々と述べられている感じで、大事に取っておいたわりには実はけっこうさらっと読み通せてしまった(笑)。でもそれが不満だというわけではなく、要は現地に潜入するまでの準備段階の重要度が高く、そこにさまざまな手が検討され用意されたということなのである。だからいざ実行する段になるともう、「これだけ用意周到なら失敗するはずがない」と思わされてしまうというか。実際、史実であるだけに結末はわかっているわけだし(笑)。
 ただもちろん、実行段階になって臨機応変な対応を迫られることも当然ある。工作員以外の素人である救出対象、つまり「客人」たち自身が工作員の指示通りに動くことができなければ、すべてが無駄になりかねない場面も出てくる。
 なので映画はきっと、こういう緊迫感の出そうな場面での人物描写や、作戦そのものの起伏・転回に寄ったものになってるんだろうなと想像する。こういうCIAの舞台裏話をもとに、映画にはどんな味つけが施されたのかな? とちょっと期待感を持たされた。いや、観てないんだけど(笑)、でも本と映画はそれぞれ全く違う視点で楽しませてもらえるんじゃないかな。そのうちTVでやってもらいたいなー。 

「フラッシュフォワード」(著:ロバート・J・ソウヤー/訳:内田 昌之)

2012-12-11 22:24:33 | 【書物】1点集中型
 たぶん最近読んだハヤカワのどれかの巻末についてる広告を見て、読んでみようリストに入れていた作品。アメリカでドラマ化された物語でもあるらしい。登場人物とかドラマ仕様に変わっているところもけっこうあるらしいが。

 フラッシュフォワード=束の間の「未来視」。ヒッグス粒子を発見するためにCERNの科学者ロイドとテオが行った実験が、世界中の人々の意識を2分余りの間「21年先の自分」へ飛ばさせるという事件を起こす。
 その未来で、いま愛する人と既に同じ道を歩んではいないと知るロイド。自分が生きていないことを知るテオ。そして、まさに今そこに向かって努力している自らの夢が実現しなかったと知るテオの弟――思いがけない未来を知ったさまざまな人々が、「今」にそれをどう組み込もうとするか。そもそもその未来は決して逃れ得ないものなのか?

 もとになる「フラッシュフォワード」という現象は当然SFなんだけれども、この話の本題はその原因追求ではなくて、未来を知ってしまったことが人にどんな影響を及ぼし、どんな事件を起こしたかということ。実際、「フラッシュフォワード」の原因については、わりと棚ぼた的に(笑)開示されるし。
 テオが自分を殺す犯人を捜す過程と、クライマックスのその犯人との激しいカーチェイス(と言っていいのか?)と、そのあたりはなるほどアメリカドラマにありそうだな~という感じ。犯人との息詰まる攻防はなかなか読み応えがあった。

 再びの「フラッシュフォワード」でロイドが見た遠い遠い未来は、ちょっとスター・チャイルドになったような気分。地球が終わり、太陽が潰え、銀河同士が交わり、それでも宇宙は広がっていく。途方もない未来。
 その一方で、テオは自分が殺される日を過ぎてなお無事に生きていた。けれど、彼が2度目の「フラッシュフォワード」で何を見たのかは語られていない。ただ、そのときも生きているだろうとことが読み取れるだけ。でもテオは、自分が生きているということだけで「未来は変えられる」ということを身をもって理解しているのだ。「変えられる」ということは「決まっていない」ということ。だからちょっとだけ勇気を出してみよう、というテオは、見ててなんだか微笑ましくもある(笑)。

 詳しい物理理論はきっちり理解しなくてもストーリーは充分把握できると思うので、全体的に見ると、もしかするとSFよりもミステリとしての要素が勝っているかも。エンタテインメント要素の強い作品だと思う。

招待券をもらったので。@琳派芸術II

2012-12-09 23:04:42 | 【旅】ぼちぼち放浪
 正確には、つてを頼って「招待券ください!」とお願いしたので、「もらったから行く」のではなく「行くからもらった」のであるが……(笑)
 というのも、もちろん琳派だからである。特に江戸琳派ってーか抱一だからである。出光のこのへんの所蔵品が私の好みに合っていて、時々企画展やってくれるのでありがたい。そして、休日でもわりと快適に鑑賞を楽しめるくらいの人の入りなのもありがたい。規模も(個人的には)大きすぎず小さすぎず。

 奔放な明るさをもその表情に湛えたような神様たち。金屏風もいいけど銀も素敵ですよ、とあらためて語りかけてくれる梅の佇まい。最少限の色数でひとつひとつの花の個性すら描き分けた杜若の群生。「風神雷神図屏風」に始まり、「紅白梅図屏風」「八ツ橋図屏風」と抱一の(あるいは琳派の巨匠たちが描き継いできたと言うべきか)代表作が並んでいるのを見れば、自然と頬が緩んでしまう(笑)。
 そして前回ここに来たときも観た、小さな小さな八曲一双の「四季花鳥図屏風」! 裏面は銀泥で描かれた「波濤図屏風」になっていて、2倍楽しめるという素晴らしい作品。これ、サイズもかわいいし描かれた草花は見事だし、逆に波濤図は豪快だけどクールで、表と裏で違う角度から抱一を堪能できるので、本当に大好きなのだ。たとえば福岡伸一ハカセがフェルメール作品でやったような高精細のプリントで5桁で済むならレプリカ買ってもいい。←おい(笑)

 それから、抱一といえばやっぱりこれも外せない! のが「十二ヵ月花鳥図貼付屏風」。毎月の花々はもちろんのこと、小禽類は本当にかわいいし、蝶やら蜻蛉やらな昆虫の体の線の優美なことったらない。あと「燭台図扇面」も良かったなぁ。金粉を全面に散らして、小さな燭台をひとつ。画面の作り方が絶妙だなーと思った。
 そして抱一といえば当然、その弟子の其一も大好きな画家である。今回もあの、画表装が見事な「三十六歌仙図」があったし、「四季図」の「田家月」なんてもう……。不揃いに連なる田圃と家々、上空で折れそうな三日月を描いてあって、墨だけなのに、しかも夜の風景なのに稲のみずみずしい緑色が目に浮かぶよう。牛を牽きながら畦道を行く農夫の小さな姿もいい。

 乾山をはじめとした工芸品の展示もあった。いちばん印象に残ったのは「海浜蒔絵貝形茶箱」。作者不詳ながら、蒔絵の繊細さと美しさが半端じゃない。3つの貝殻を組み合わせた形の箱の蓋は貝殻の模様の中に本当――に細かく花が散らしてあったり、側面を一周するように描かれた浜には鳥や松や……もう、これを手に取って観られるものならばー!! という気分になった(笑)

 しかし、会期終了間際だからなのか、会期中には出さないのか、今までどうだったか覚えてないからわかんないけど、展覧会のフライヤーが置いてなかったのが残念。次回展のはあったんだけど、私はまさに今回のが欲しかったんだー!←なんとなく、記録代わりに集めちゃってるので。(笑)
 私設美術館で琳派というと他に細見美術館が思い浮かぶけど、そちらはまだ行ったことがないのでいつか行ってみたい。
 本当はサントリー美術館の「森と湖の国 フィンランド・デザイン」もかなり行きたかったんだけど、ちょっと丸の内周辺を探索してみたかったので、今回は断念。でもやっぱりもったいなかったかなぁ。うう。

ずっと行き損ねていたえのすい。

2012-12-08 23:39:47 | 【旅】ぼちぼち放浪
 これはオキトラギスという魚。かわいかったので。

 ……というわけで、このオキトラギスもいた新江ノ島水族館に行ってみた本日。数年前から、年に1回か2回は鎌倉から江ノ電沿線をうろうろしてるわりに行ってなかったのが、やっと(笑)
 しかし今日の鎌倉・湘南方面は、天気は素晴らしいのだが台風の如き強風に見舞われていた。江ノ島駅から島に渡るあの橋の手前の通りに出るまでの間ですら向かい風に一苦労し、さらに道を折れて水族館への橋を渡るのにまた一苦労する始末(笑)。風が舞うわ砂は飛ぶわ髪も顔も口の中もざりざりだわ……(笑)

 そんな中で見たイルカ&アシカのショーでは、一部のイルカがショーの最中に喧嘩を始めてしまうというアクシデントもあったけど、トリーターさんはさすが慣れたもので、観客に全体の乱れを感じさせないスムーズなMCだった。
 イルカのジャンプの高さだけで言えば、須磨水族館のイルカの方が高かったと思うけど、えのすいのショーはトリーターさんとのコンビネーションが面白かった。数mの高さからイルカプールに飛び込んで、イルカに押し上げてもらいながら一緒にジャンプするトリーターさんがすごかったなー! イルカとの息もぴったりって感じで。

 あと、10年前に現役を退いた「深海2000」の展示があった。年季の入った外殻やら、計器類満載のコクピットやら、これが深海の圧力に耐える技術の結晶か~とか思いながら見てると、やっぱりわくわくしてしまう。
 さらにこの「深海2000」オリジナルグッズが意外にかわいかったり(笑)。フィギュア付きのペンとか、深海の生物をデフォルメして描いているクリアファイルとか。わりとお勧め。

 というわけで、長らく行きそびれていたがやっと行けた! という達成感は味わえた。あとは、もう少し、風が穏やかな日に行けるともっといいかも(笑)。

前売券買ってあったので。その2@リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝展

2012-12-07 20:07:09 | 【旅】ぼちぼち放浪
 上野から六本木に移動して、チャウダーズ(東京に来るとどうしても食べたくなる)で早めのごはんにしてたら、なんか揺れた。地震だったらしい。
 とりあえず、揺れはしたけど何事もなかったので、ポストカードがもらえる18時の入場を狙って(笑)現地へ。(……が、夜にニュースを見てやっと、だいぶ大きな地震だったことがわかった。ううむ。)

 「夏の離宮」での展示方法を取ったバロック・サロンは、調度品の豪華絢爛ぶりと天井画が印象的。「貴石象嵌のテーブルトップ」とか、「コンソール・テーブル」「飾り枠付き鏡」とか……。中国や日本の磁器もある。マイセンによる「ティーポット」をはじめ、絵柄やモチーフはまんまシノワズリ。
 工芸といえばクンストカンマーのコーナー。「貴石象嵌のチェスト」なんて、どの面も、象嵌でいくつもの風景を描いてあって……この象嵌の作業を思うと気が遠くなる(笑)。「万年暦」もほんとに細かい細工で、その前を立ち去りがたかった。食い入るように見てしまった(笑)。本当に「万年暦」として使いたいなあ。

 そしてやはり個人的にはルーベンスは外せない! 「デキウス・ムス」の連作も迫力あるけど、今回いちばん気に入ったのは「マルスとレア・シルヴィア」かな。ルーベンスらしい、風が吹いているような動きのある場面。レア・シルヴィアの怯えたような、でもまっすぐさのある眼差しには、マルスでなくても(笑)引き込まれてしまうかも。今回の展覧会のポスターにもなっていた「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」も、小さな作品だけど、一心にお父さんを見つめている! って感じの瞳が……目を逸らせない(笑)。

 ヤン・ブリューゲル(子)「死の勝利」はピーテル・ブリューゲル(父)の模写だけど、まさにブリューゲルの個性って感じの作品で、不気味なんだけど見ずにはいられない。アイエツ「復讐の誓い」はマスクを外している女性の美しく鋭い、そして何かしら不穏な情念を秘めた顔つきにすごく惹かれた。黒いヴェールやドレスの質感も素晴らしい。

 これだけのものを個人で蒐集するんだから、途方もない。ナチのオーストリア併合という危機を乗り越えてきた美術品の数々。戦火を避けるため、ときには苦渋の選択を迫られることもあったようだ。
 その過程で是非が問われる部分もあったことは事実であろうし、だからすべてを肯定することはできないのかもしれない。でも、リヒテンシュタイン家がこれらの品を守り抜いて現代に受け継いできたことは、やはりとてもありがたいことだと思う。歴史の陰にあるものを思いながら、美術品そのものを歴史として大事にしていける社会であり続けられればいいなと思う。

前売券買ってあったので。その1@メトロポリタン美術館展

2012-12-07 17:44:22 | 【旅】ぼちぼち放浪
 仕事が読めない読めない! と思いつつ、無理矢理来てしまった(仕方ない。チケット捨てるの嫌だし)。
 良く考えたらアメリカの美術館からの展覧会って、意外に初めて観に来たんじゃなかろうか。ナショナルギャラリーのが最近あったと思うんだけど、そのときは行かなかったし。

 実際に回ってみて、油彩の風景画とか、アメリカの人がオーソドックスに(というのもおかしいが)描いたものってあまり観た記憶がなかったので、新鮮。って勿論、所蔵品展なのでアメリカだけじゃなくて世界中の作品があるんだけど。アメリカの絵画は、たとえばウォーホル(今回は出品なかったけど)やオキーフなんて私でも知っているくらいあまりにも有名だけど、そのせいかなんとなくコンテンポラリーアートのイメージが強い……と勝手に思っていた。でも(当然)それだけじゃなくいろんな作品持ってるんだよ! という印象。

 絵画の中では、ブルトンの「草取りをする人々」がまさに、良く引き合いに出されるというミレーの隣にあって、どっちも素晴らしかった。ブルトンの方は日没直前の強い陽射しと闇の交じり合いが作る雰囲気が素敵だし、ミレーの「麦穂の山:秋」は麦穂の山の質感がまるで匂ってきそうなのと、群れてる羊が可愛い♪
 それとビアスタットの「マーセド川、ヨセミテ渓谷」。切り立つ岩山、岩肌と水面に当たる日の光の描写が醸し出す質感とリアリティがすごい。本当に目の前にその風景を観ているよう。ホーマーの「月光、ウッドアイランド灯台」も同様で、月そのものは見えなくてもその光と、それが照らす砕けている波に目が惹きつけられる。ちょこんと置かれた灯台の赤も。
 誰もが知っている有名どころでは、ゴーガン「水浴するタヒチの女たち」の、女性の後ろ姿。いっそ単純で平面的にも見える配色と塗りなのに、特に臀部のあたりの肌の起伏というか質感というか、まるで触れた気分にさえなるような感じで伝わってくるように思った。なんか今さらだけど、ゴーガンのすごさを感じた。

 絵画以外ではやっぱりポンポンの「シロクマ」! これ以外にはないと思う(笑)。とにかくかわいいのである。白い大理石で、造形はものすごく単純化されているんだけど、絶妙。ちょっと硬いような、でも空気を含んでいそうな毛並みに触れそう。表情もかわいい。
 工芸品ではティファニー関係。ルイス・コンフォート・ティファニーのステンドグラス「ハイビスカスとオウムの窓」は色使いが目を惹く。ティファニー社の花瓶やお盆(モチーフのカエルが今にも動き出しそう!)も気に入った。あとは、白山谷喜太郎の装飾になるルックウッド製陶社製造の「桜の花の容器」。渋みのある色合いと満開の桜の花のひとつひとつの繊細さ。日本らしさここに極まれりである。

 こうやって見ると、実は(という言い方も失礼だが)ものすごく広い分野の芸術が揃っている美術館なんだなぁと、漠然とだけど思う。アメリカの美術館の展覧会ってヨーロッパの美術館の展覧会に比べて、企画としては少ないような気がするけど、ヨーロッパとは毛色が違っているように感じた。どこがどう、と言葉にしにくいのだが(笑)それがきちんと言葉にできるようになるまで見比べてみるのも面白いかもしれない。

「旅のラゴス」(著:筒井 康隆)

2012-12-03 22:55:37 | 【書物】1点集中型
 筒井作品にしては珍しく(私の勝手な思い込み?)毒が少なく、解説にあるようにリリシズム溢れる物語。比較的読みやすく、それでいて純文学的な趣もあるような。

 物語のある世界が具体的にどのようにして生まれたか、詳細は物語の中盤に来るまでははっきりとは示されない。ストーリーテラーである「おれ」=主人公ラゴスの断片的な言葉から汲み取れる程度だ。しかしその世界観は当然ながら明確に成立していて、ラゴスの少ない言葉からでもストーリーを追いながらその場景を脳裏に思い描くことができる。表紙のイメージそのもの(だから表紙もお見事! と思う)。
 その世界の見た目の雰囲気はSFよりもファンタジーを彷彿とさせるが、人々の「精神感応」や「転移」といった超自然的能力、「宇宙の闇を光を追い越して飛ぶ船」といった歴史上の記録(口伝ではあるが)にはしっかりSF的要素がある。そういう舞台設定も面白い。

 ラゴスの一人称は「王国」を経て、「おれ」から「わたし」へ変化する。子供が生まれたタイミングでの変化だが、ラゴスの生き方そのものは変わったわけではないと思う。ただ、強いて言えば、親となり「わたし」となったことで「社会的な立場」が加わったような気はしないでもない。
 とはいえラゴスは自らの2人の妻もその子供たちも後に残して旅立ち、故郷に戻って落ち着いたかに見えても最終的にはまた旅立つことになった。彼が最後までひとつところに留まることがなかったのはやはり、彼の心が常に奥底で、会えるかどうかもわからないままでも、デーデというひとに導かれていたからなのだろうか――一時は彼女を思い出さない時期があったとしても。

 ラゴスの魂がデーデを見い出すまで、旅は続くだろう。だからたとえ彼があの森で果てたとしても、その旅は時空や次元をも超えて続くだろうと思わせる。デーデはラゴスにとっては、世界の真理のような存在となったのかもしれない。

「わが闘争(上)(下)」(著:アドルフ・ヒトラー/訳:平野 一郎、将積 茂)

2012-12-02 20:10:14 | 【書物】1点集中型
 ヒトラーが一体、どういう経緯でああいう民族主義に至ったのかを知ってみたくて手を出した。ディテールは虚実入り混じるところもあるようだが、基本、プロパガンダとして書かれたものであるから、そのへんは偶像化の手段でもあろう。

 上巻のサブタイトルは「民族主義的世界観」。「反ユダヤ」の旗印を掲げて政治の道へ進み始めたところまでとなっている。
 ドイツ民族の優位性、あるいは他民族に対する蔑視や憎悪は、後半になると、ヒトラー言うところの「民族主義」としてどんどん過激というか極端になってくる。まともな神経であれば、なんでこんな論理になるんだと思わざるを得ない。自らの民族に対して誇りを持つことは自然だとしても、そのために他民族を貶めなければならない(と思っているとしか思えない)という論理は、やはり正常ではない。

 「真の独創力はつねに生まれつき」(第十一章 民族と人類「文化の創始者としてのアーリア人種」)であるからして、生まれつきその能力を持っていない者や民族は文化発展に寄与しない、という論理。「この世界では、よい人種でないものはクズである」(同「混血の結果」)という一言にも見られるように、論理もそうだが使われる言葉も、下劣とさえ言えるほど極端になる。
 さらに「人類の進歩と文化は多数決の所産ではなく、もっぱら個人の独創力と行動力に基づいている」(第十二章 国家社会主義ドイツ労働者党の最初の発展時代「最高権威――最高責任」)――ここで言う「個人」とは「一人ひとり」という意味ではなく、「1人の英雄」という意味での「個人」である。そしてそのような能力を持ついわゆる指導者は「無制限の全権と権威を与えられる」(同)のである。
 無制限って。言うのは簡単だが、ちゃんと考えると恐ろしすぎる。

 要するに独裁とは「考える頭はひとつだけあればいい」ということで、他の人間はその思想を忠実に実行する手足でさえあればいいのである。これがやっぱり(同じ「独裁」なんだから当たり前なんだけど)思いっきり、かの「主体思想」に通じていて、相当ぞっとした。そして、社会がそういうヒトラーを支持する流れとなっていた時代があったことにも。
 それが尋常のものとは思われない以上、その思想を受け容れる社会背景が必ずあったはずである。そこを突き詰めて考えていくと、これは決してあの時代だけの特殊な事情ではなく、条件が揃えば似たような状況へ社会が変貌していく可能性があるということでもある。 

 ……というわけで、上巻だけでお腹いっぱいというか胸焼けしてしまったのだが、一応、流れなので下巻も読んでみた。下巻のサブタイトルは「国家社会主義運動」と、これもまたこの言葉だけで充分、胡乱げである。

 とにかく目につくのは、軍事政権礼賛の傾向。たとえば「独立への理想の衝動が、戦闘組織を軍事的権力手段という形で獲得したときにはじめて、民族のその渇望している要求は、りっぱな現実にうつすことができる」(第一章 世界観と党「民族的感覚から政治的信条へ」)あたり、力で奪い取ることの正当性を強調しているという印象を強く受ける。
 それと国家主義的発想。象徴的なのは「国家は、幾千年もの未来の保護者として考えられねばならず、この未来に対しては、個人の希望や我欲などはなんでもないものと考え、犠牲にしなければならない」(第二章 国家「民族主義国家と人種衛生」)といった言葉だろうか。

 この「国家は未来の保護者」という言葉、あるいは「ただ漠然と憧れているだけで自由を獲得することができない」というヒトラーの言葉は、その言葉だけを取り出して見てみれば、大きな意味では一見それも道理としてわからないではないようにも思える。
 けれども、その言葉をヒトラー流に肉付けしていくとだんだん道が逸れていって、「国家は何か明らかに病気を持つものや、悪質の遺伝のあるものや、さらに負担となるものは、生殖不能と宣告し、そしてこれを実際に実施すべき」(同)とか「国家はこの意味で、理解や無理解、賛成や不賛成を顧慮せずに、行動しなければならない」などという例の、見るからに偏執狂的で独裁的な話になっていく。大体、「人種衛生」って言葉が出てくるその発想が凄い。悪い意味で。

 解説にもあったけど、考え方はものすごく首尾一貫してるのだ。ただその考え方が、なんでそういう方向に行っちゃってんのかな、という話なだけで。だから余計始末に負えないということなのだろうけど……「アーリア人のみが文化創造者である」「ユダヤ人=悪」というような決め付けに見える歪みがどこから来たものなのか、それはヒトラーの言葉からだけでは到底わからないが、わからないだけに薄ら寒さが残る。
 だから何事であれ、他人の言葉を知ることを通して「では自分の考えとは?」と、問うてみることが必要となる。来週末はそのいい機会である。って、気楽に構えていられる状況では全然ないけど。