life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「天地明察」(著:冲方 丁)

2011-07-31 23:07:50 | 【書物】1点集中型
 装丁にちょっと惹かれて図書館で予約して、1年待ちでようやく読んだ(本屋大賞受賞直後だったから~)。その間に「マルドゥック・スクランブル」でも読んで作風の予習でもしておけばよかったかな~と思いつつ、結局まだ読んでません(笑)。

 時は江戸の世、メインになる題材は暦。主人公の渋川春海(安井算哲)は本当に、純真でちょっと慌て者で、少年漫画の主人公にありそうなタイプの1人(笑)。
 春海に限らず、キャラクターは全体的に若干漫画ちっくでもあると思うので、その分とっつきやすいことはとっつきやすい。本因坊道策が必死に春海を(一生)追いかけてるさまとか、可愛いし。同じ意味で北極出地を行う建部昌明や伊藤重孝の、天測に際しての無邪気な様子も相当可愛らしい(笑)。保科正之は相当かっこいいし。っていうかかっこいいなどという言葉では失礼にあたるほど立派なのである。かと思えば徳川光圀の怪傑っぷりも……ええと、歴代の役者さんで言うと、やっぱり東野英治郎氏の豪快な笑いのイメージか(豪快と言えば山闇斎も相当豪快に書かれてあるが)。

 従来の暦の誤謬がどのようにして正されたかとか、天測そのものがどのように行われ、どう計算されていたかとか、関孝和との出題勝負においてどう問題が解かれていったかとか、そういう数学あるいは天文学の具体的な話は実は物語中にはほとんどない。個人的にはもう少しそのへんも知ってみたかったけど、そこを表現するための小説ではないんだろうなぁとは思う。でも、それがもう少し見えてたら、春海の歩んだ道の険しさがより浮き彫りになってさらに壮大な物語になったかも? まあこれはあくまで個人的な興味から、だけど(笑)。
 でも、最初はただ算術を愛し暦法を究めんとする純朴な青年でしかなかった春海が、暦というものが一国に及ぼす甚大な影響を知り、その礎となった数多の学者たちの研鑽や、為政者たちの想いまでをも一身に背負うことになった。何度も壁にぶつかりながらも、最終的には事業に対する戦略家としての顔すら見せるまでにたくましく成長していった。このあたりは、「碁打ち」という春海の素養もしっかり出ているかと。

 成されたたったひとつのことのために、本当にたくさんの人々のさまざまな思いがあったことは、よくわかる。綺麗ごとだけでは済まされないこともあり、それでも乗り越えていかなければならない痛みがある。この物語を紡ぎ出すそんな数々の情熱が感じられるだけでもいいんだと思う。時代が違っても、人の心が持つものは、そう違わない。

「暗殺のハムレット (ファージングII)」(著:ジョー・ウォルトン/訳:茂木 健)

2011-07-27 23:58:19 | 【書物】1点集中型
 「ファージング3部作」の2。第1部からそうだが、イギリスならではの階級社会の様子が垣間見えるのは興味深い。

 2人目のヒロイン(ヴァイオラ)の目を通して演劇の世界のあれこれを覗きながら、一方ではイギリス国民にとっては泥沼化しつつある政情と、カーマイケルの抱える問題に悶々とさせられる。そして、ロイストン(泣)。
 最初は、ノーマンビーの(=ファージング・セットの)政策に多少の窮屈さを感じつつも、妹たちの無謀な計画に「自分の人生を」乱されることの方に憤りを感じていたヴァイオラも、デマだと軽く見ていたナチスの暴虐が真実と知ると否や、その中枢にあるヒムラーの妻となった実の姉にまでも憎悪の対象になるほどの心境の変化が起こっている。かと思えば、計画が実行された結果を目の前にして、やはり自分にとっての姉が、言語や感情を超越した存在であることを思い知るのだ。
 それとヴァイオラの、なんとなく「政治なんか変えようとしても変わらないのだ」とでも言うような、計画に対しての最初のそっけなさとかが、自分の胸に手を当てたくなる感じではある(笑)。

 最後は「世界を変えたかった」と自ら口にするほどに、計画へののめり込みを見せたヴァイオラ。その姿を見て「今、ファシズムは、たった一発の爆弾で息の根を止められるほど脆弱ではない」と結論したカーマイケル。計画に参加する(させられる)前のヴァイオラの考えと、言葉面では近い。
 が、カーマイケルはそう結論するとともに、「世界を変えたいのなら、人びとの思考から変えていかなければだめだ」と、次の段階へ踏み込んでいる。やっぱりこれも、身につまされる言葉だ。時代が違っても人の社会の営みの根底は変わらないのである。

 ラストシーンのカーマイケルの決心は、第1部での打ちひしがれた様子とは打って変わって前向きではある。強制される職務はしかし間違いなく権力のひとつで、ならばそれを逆手に取ることはできるはずだという発想の転換。虎穴に入らずんば、の心境だろう。読む側の感覚としては、つまりファシズムに染まるイギリス国家にあって、オスカー・シンドラー的存在になろうとしたということになるのかなと思う。
 ただ当然それは茨の道であり、一筋縄ではいかないのが第3部なのであろう。何せカーマイケルには、ジャックという最愛であるが故の致命的な弱点が存在するのだから。落としどころはどこになるのかな。イギリスは果たして、あっちの世界から帰ってこれるのか?

 ……などと、ブリティッシュ・ミュージックを聴きつつ考えてみた今日である。(笑)

「英雄たちの朝 (ファージングI)」(著:ジョー・ウォルトン/訳:茂木 健)

2011-07-18 22:30:08 | 【書物】1点集中型
 「歴史改変(オルタード・ヒストリー)小説」3部作の1、ということで、物語は大戦中の1941年に(何故か)ナチス・ドイツとイギリスが講和した……というところから始まる。

 その講和の中心となった「ファージング・セット」と呼ばれる派閥を構成する貴族政治家たちの中で、よりによってユダヤ人と結婚した娘・ルーシー。そして、ファージング・セットのメンバーのひとりが標的となった殺人には、ルーシーの夫を犯人に仕立て上げたい意思がいかにもあからさますぎる「証拠」が残っていた。
 その事件を追うスコットランド・ヤードのカーマイケル警部補。事件を追い風に、ファージング・セットの中から生まれるイギリス首相。さらに、その首相が推し進めようとする、ルーシーが言うところの「独裁政権」。

 犯人像が見えてきて間もなくルーシーと夫を襲う急展開と、アビーという救い。対照的に、真犯人像と証拠を正確に掴んでいながら、最後の最後で政治という壁に跳ね返され、打ちのめされたカーマイケル。やるせなさと同時に、「これがファシズムだ」と言わんばかりのファージング・セットの独裁の波がひたひたと押し寄せる息苦しさに包まれる。

「カーマイケル、政治を超えるものなんか、なにひとつないんだよ。おまえの年になって夢を壊されるのは、ちょっと気の毒に思うけどな」

 ルーシーと亡き兄との「マケドニア人」「アテネ人」という密やかな符牒はなんだかちょっと微笑ましい。しかしだからこそ、カーマイケルがゲイであることが彼自身に残酷な選択と現実を突きつけるラストシーンが際立つのではないか。

「俺自身が、生きるためなら妥協を辞さない人間であることがわかった。そしてなにより、たった一枚のファージング銅貨で買えるものなど、なきに等しいことがわかった」

 カーマイケルという人間をその心ごと絡め取り、「道具」へと変えた、政治という怪物。そのおぞましさに嫌悪を感じながら、しかし最終章を繰り返し読まずにいられなかった。
 カーマイケルと同じ選択を迫られて、違う道へ進むことができる人間がどれほど存在するのか。それを何度も自問した。少なくとも私は、カーマイケルを否定できない。だからミリスやゲシュタポを恐れるのだ。屈するしかない自分を知っているから。

 物語としてはこれで終わっても終われると思うが、3部作になっていることにはおそらく別の意味がある。訳者あとがきを読む限り、カーマイケルにはさらなる過酷な道が待っているようだ。おそらくは、「二重思考」を地で行かねばならぬような。(ルーシーが船出前に、「一九八四」ならぬ「一九七四」なる本を選んだあたり、気が利いている)
 果たして、カーマイケルの心が救われることはあるのだろうか。2部以降どう展開するのか楽しみ。

「駅前旅館」(著:井伏 鱒二)

2011-07-14 22:45:36 | 【書物】1点集中型
 純文学は相当に久々。しかも井伏作品となると「山椒魚」くらいしかちゃんと読んでいないのではないかという……いや、「黒い雨」も読んだんだったか? でも、読んでだとしてもちゃんと覚えてないから読んだうちに入らないかも(笑)。

 表題の通り、とある旅館の番頭の身の上話からお客の話、仲間でもあり商売敵でもある同業者たちの話など、「駅前旅館」周りに生息する人々の様子を描いた物語。物語といっても、いかにも純文学(勝手なイメージ)らしく、起承転結自体はそんなにはっきりあるわけではない。でも、中心となるキャラクター(番頭たち)自体が、語り口や台詞の端々に軽妙な雰囲気を漂わせていて、これといった刺激はなくとも読み進めやすい。
 今の時代の我々は、ここで淡々と綴られているひとつの時代と日常が、彼らの生きるその先にいずれ失われていくものだと既に知っている。そして私自身も当然この時代を直接には知らないけれども、それでも何かしらこの物語の世界に郷愁と共感を覚えずにはいられない。環境は違えど、市井の生活にある人間の心の動き方や感じ方そのものは、時代を経ても変わらない部分がちゃんとあるということなんだろうか。

 今回読んだ新潮文庫版は表紙イラストがまたなんともいい味を出していて、こういう本は電子書籍とかのデジタルデータじゃなくて、時々本当に手にとって読める感じがほっとすると思う。

「90億の神の御名」(著:アーサー・C・クラーク/編:中村 融・訳:浅倉 久志 他)

2011-07-09 23:21:07 | 【書物】1点集中型
 「太陽系最後の日」に続く「ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク」の2編目。シリーズ全体としては、作家クラークを時系列で見ていくと……という感じがあるのかな。この2編目は「ほぼ、三十代のときの作品群」だそうだ。
 「2001年宇宙の旅」の原型としても名高いという「前哨」のほか、後の長編のプロトタイプとも言うべき短編、さらにはエッセイまであり、ほんの少しクラークの思考の軌跡が覗ける。そうかモノリスは最初はピラミッドだったのか、とかね(笑)。

 エッセイ「ベツレヘムの星」では、クラークがいかにして対象にインスパイアされ、創作へ発展させるのかを目の当たりにするようでもある。ああ、だから「星」の最後の一文がこうなったのかのかなぁ、みたいな。
 ただ、この一文をより効果的に感じることができる読み手となるには、ユダヤ教とキリスト教、さらにその背景としての世界史観が求められている気がして、そういう意味では自分にはまだまだ読解するための教養が足りない……とも痛感するわけだけども(汗)。

 しかしまぁ、そこまで難しく(?)考えなくてもいくらでも読むことはできるわけで。
 ミステリっぽい雰囲気もある「時間がいっぱい」や「90億の神の御名」には、物理法則の中に潜む、人間にとってのある種の皮肉さも感じられるように思えて、やはりちょっとした怖さみたいなものもある。かと思えば、「月面の休暇」や「月に賭ける」はあたかも月面を疑似体験しているかのような気がしてきて楽しくもあるし、タイトルのわりにほのぼのした「幽霊宇宙服」も好きだな。

 クラーク作品にある、「ここ」や「今」とはちょっと違う、でもいつか人類が到達するかもしれない世界に息づいている人々や生きものの姿。それを、私はいつもちょっといとおしくも感じてしまうのです。

「伯林星列(ベルリン・コンステラティオーン)」(著:野阿 梓)

2011-07-04 22:56:40 | 【書物】1点集中型
 確か本屋で文庫が出ているのを見て、帯やら背表紙やらの文句に「ナチス独逸」・「特務(スパイ)」・「美少年」・「調教」とかいうあたりの言葉が出てきていたのだと思う。で、まだ読んだことのない作家さんだったのでちょっと調べてみたら、SF系の方だと。
 「2・26事件が成功した」という前提の世界を舞台にした、いわゆる「歴史改変」が軸。歴史改変ものはまだ手を出したことがなく、ただ「ファージング」シリーズは近いうち読もうと思っていてまだなんだよなー、というのが個人的にあって、そのジャンルの雰囲気をかじるようなつもりで読んでみた作品。

 簡単に言ってしまうと、スパイの世界があり、SMがあり、そこで食い物にされる美少年あり……ってとこなのだが。まあこの美少年・操青が「調教」され、そこで身につけた技術を駆使する「仕事」を行うあたりの表現が非常にどぎついし、エグい。個人的には「そうかー、ここまでやるかー(汗)」というところまで来てる。帯に書いてなかったことも含め。
 こちらもそんなに多くを読んだわけではないが、イメージとしては団鬼六作品、花村萬月作品の雰囲気をさらに濃く、ドロドロにした感じかなぁ。なので、一般的な(と言うのも変か?)BLの雰囲気を楽しみたい向きにはお勧めしない。耽美ではあっても甘美ではない。いや、操青にとっては甘美なんだろうけど、その操青の感覚が養われてしまったのが何故か、というのが見えているこちら側には余計に、甘さを抜いたものだけが食い込んでくるように思う。

 2・26事件が成功したこの物語においても、結論としていずれ大戦は起こるであろうという流れなので、大局的に見ると事件そのものは大きな要素ではないのかもしれない。問題は、誰のための正義か、何のための正義か。黒澄との別れに際しての操青の言葉がひとつの結論なのだと思う。
 そして操青にとっては元凶と言える叔父・継央が実は……っていうのがまた、ある意味読める展開なんだけど、「ああやっぱり」と言いながら最後の最後で打ちのめされる感じ。だからこそ、「世界のどこにも正義なんてありはしない」という操青の言葉が引き立つんだろうと思うんだけど。

 互いの「正義」が相反するからこそ、争いは起きる。言い尽くされてきたことだと思うけど、それを凄惨なまでの表現で語った異色の物語。耽美で残酷な劇薬だった。
 「ナチス独逸が存続する限り、ぼくの安全と自由も保障されるということです」と語った操青の未来は、だからこそ決して明るくない。伯爵を選んだ時点で操青にはもはや「今」という時しか存在せず、操青自身がそれを諒としていることを、おそらく読む側の誰もが知りながら、その操青の言葉に、彼が迎えるであろう終わりのときをぼんやりと思い描くだろう。