life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「悲しみのイレーヌ」(著:ピエール・ルメートル/訳:橘 明美)

2017-05-29 21:54:42 | 【書物】1点集中型
 「その女アレックス」の前日譚。というか作品(「ヴェルーヴェン警部3部作」)としては実際にこっちが先なんだけども、一大ブームになったのが「アレックス」の方だったので知らずにそっちを読み、「イレーヌ」の存在を知り、戻ってきたのであった。

 「アレックス」でもかなり具合の悪くなる壮絶な惨劇の描写があり、「ううう(汗)」となりつつもこれを一体どう始末つけてくれるのかが気になりすぎて読み進めるしかなかったのだが、ご多分に漏れずこちらものっけから人間業ではない殺人現場描写のオンパレードである。で、その前代未聞の犯罪を追うヴェルーヴェン班の面々がこれまた、「アレックス」でも語られてはいたけどシリーズ第1作ということでより精細に描かれているように思えた。ルイとアルマンだけじゃなく、ルイとマレヴァルの人物コントラストも面白い。
 混迷する複数の惨殺事件の傍らでは、カミーユと妻イレーヌの愛情がやや大げさなくらいに描かれている。あまりにもカミーユがイレーヌに夢中なのが、却って切ないような気持ちになる。だからこそ結末が引き立つんだろうなと思うけど。

 しかしこの物語の何よりもの仕掛けは、「第一部」の終了間際に現れる「名前」と、開かれる「手紙」であろう。だから第一部がこんなに長かったのか……。いわゆる劇中劇に近いような印象も受けるが、一瞬、自分がここまで追ってきた物語はどちらなのか判然としなくなる。そして、その混乱を収束させるために、カミーユとともに結末へ向かう。避けられない終末へ。

 フランスのミステリを読むのはおそらくこのシリーズが初めてで、海外ドラマでもあまりフランスものはやってないので、何かすごく新鮮に感じられる。なんというか、ロートレックの描いたムーラン・ルージュのような……凄惨な事件はいっそ華やかなほどに人目を惹かずにおかないし、それでいて犯人の狂気には退廃を感じずにはいられない。そんな印象をルメートルの作品から受けた。
 もうここまで来たら、せっかくの3部作なので、カミーユが一体どこへ向かうのか最後まで見届けるために、3作目を図書館に予約した次第である。とは言えこっちはまだまだ皆さんも同じような思いらしく、かなり順番待ち行列になってるけど(笑)。

「歌おう、感電するほどの喜びを![新版]」(著:レイ・ブラッドベリ/訳:伊藤 典夫 他)

2017-05-23 22:54:04 | 【書物】1点集中型
 福島正実氏の回想録を読んでいたら、「華氏451度」以外のブラッドベリも読んでおかないとダメだろうと思い立ってしまった(笑)。
 ブラッドベリの作品は叙情的だと言われているけれども、あらためて読んでみると確かにその通りだなと。「華氏451度」を読んだとき、解説にあった「これはSFではない」という一言にも納得できたのと多分同様に。巻頭の「キリマンジャロ・マシーン」からしていきなり純文学かと思うくらいだ。ヘミングウェイをちゃんと読んだことがない私にはのっけからハードルが高かった(笑)。キリマンジャロの豹の話はたまたま他のもので見たことがあって覚えてたので救われたけど、知らなかったら読後の余韻を楽しめなかったところだった……。

 まあしかし何といっても表題作である。タイトルがまず素晴らしいし、物語はさらに素晴らしい。人間の世話をするアンドロイドなんていうと短絡的に若い女性を想像してしまいがちなところ(私だけ?)、そこに「電子おばあさん」という存在を持ってくること自体、まずもって温かみを感じさせる。そしてその人ならぬ存在である「おばあさん」を通して、人が人に対して抱く愛情のさまざまな形が鮮やかに描き出されている。アガサとおばあさんの心が通じあうシーンは、こうなるだろうとわかっていてもやっぱり感動する。
 あとは、衝撃的な「明日の子供」。いかにもSFっぽい題材と言っていいと思うが、発想が面白い。かつ、物語が描く家族の選択は限りなく切ない。「夜のコレクト・コール」や「ヘンリー九世」には、取り残された人間の荒廃とその隙間から噴き出すような激情がある。

 解説にもあるけど、確かに別離を描く物語が多い。さまざまな別れの場面、それに至るまでの背景とを、ブラッドベリはまさに叙情豊かにといった体で見せてくれている。このリリシズムがもたらす余韻を味わうためだけにでも、ブラッドベリを読む価値はあると思う。

「未踏の時代 日本SFを築いた男の回想録」(著:福島 正実)

2017-05-05 16:46:58 | 【書物】1点集中型
 良く立ち寄る本屋の店舗内企画で取り上げられていた本。著者は初代「SFマガジン」編集長。雑誌の外でも数多くの海外作品翻訳を手がけていたので、多少なりともSF小説を読んだことがあればこの人物を知らぬ者はないはずである。かく言う私も、SFマガジン自体は読んでいないが海外SFで何度も氏の名前を目にしてきた。なので俄然興味を惹かれて借りてみた次第である。
 そもそもSFというジャンルが一般的でなかった、むしろアブノーマルなものとして忌避されてさえいた時代があったということがまず、想像の範囲外であった。それを現代のように多くの読者に親しまれる存在に押し上げることにひとかたならぬ功績を遺した人であるにもかかわらず、巻頭言からしてそのことに対する充実感とは程遠い。「やり遂げた」という意識ではなく、「人生の、かけがえのない部分が、最もみじめに蚕食された」「救いがたい試行錯誤の時期――誤認と挫折と失敗との時期」とまで言い切っている。そんなことを言われて、それまでの氏の行動が気にならない者などいるだろうか。

 氏自身については全く何も予備知識を持っていなかったので、47歳で夭折されたということも初めて知った。SF作品ならほぼどこでも目にする名前だから、長く活躍された方だとばかり思っていたのである。この本で語られるのはまさにSFマガジン創刊前夜の1959~60年の時期から、国際的SFシンポジウムの開催を企画した(が、実現しなかった)1967年まで。
 SF読者とミステリの読者が共通することが多いというのは何となく納得できる(実際、私自身もミステリは嫌いではないし)。が、であるにもかかわらず、いやだからこそと言うべきか、黎明期はミステリの片隅にあるようなジャンルとも見做されていたと知ると、それはそれでおかしな話だったんだなと思う。

 全体として非常に激しい筆致で、時には出版界にも社会の視線にも、あるいは同業者にも喧嘩をふっかけるような言動も多い。売られた喧嘩を買っているというものも多い。その主張には納得できるところが大半であるが、そこまで狷介にならなくても、と思うところもないわけではない。ただ、これだけの氏のバイタリティがあってこそ今、私のような読者が多くの名作を楽しむことができているのもまた事実であり、日本のSF界の土台をほぼ何もないところから築き、牽引しようとした人であることは間違いないのである。

 氏はSFを指して「常識がやみくもに否定してかかったものが現実のものに突然変異した世界そのものにかかわりを持つもの」あるいは「科学を意識した心で思索し空想する小説」と称している。膝を打って「そうそう!」と言いたくなるほどの至言であるし、今やそのことに異を唱える人は滅多にいないのではないか。なのにそれが、こう宣言しなければ(あるいは宣言しても)理解されない時代があったのだということが、この回想録における福島氏の奮闘を追っていけば身に染みてわかるようになる。
 星新一、小松左京、筒井康隆といったあまりにも名高い作家を日本SF界の表舞台へ送り出す環境を整えたというだけでも、氏の功績はすでに計り知れない。が、そこに阿部公房という巨匠の尽力もあったということが、この本で改めて理解できた。「砂の女」は確かにSFと言われても全く違和感がない。他の作品はちゃんと読んでいなかったけど、やっぱり読まないといけないなぁと思わずにはいられなかった。これについては眉村卓作品も同様で、というか何故今まで全然読まなかったんだろう(笑)。

 この回想録は、氏の病没によって未完のまま刊行された。あまりにも突然断絶された筆の痕跡を見ると、この先氏は何を読者に伝えたかったのかと考えてしまう。それを幾分か補ってくれる解説では、本編にはなかった福島氏の言葉がある。「批評を嫌い、批判されたことを恨み、未練がましくあげつらう精神で、いったいなぜ、SFが書けるか」
 批評のための批評ではなく、作家にはそれを糧に進歩してほしいという、ごく当たり前の願いである。それでも相手はいい大人だから、痛いところを突かれれば腹を立てもする。それでもやはり強く訴えるその言葉には、SFを成長させ続けたいというその強靭な意志に思いを致さずにいられない。大体、「一九八四年」と「すばらしい新世界」が1冊になっているなんてそんな夢のような本(世界SF全集の第10巻)を発刊するなど、神業に近い。

 没後40年余、私自身の不明のために、その功績をこうしてつぶさに知るのがあまりに遅きに失した感はあるが、それでも知ることができてよかったと思う。とりあえず、阿部公房と眉村卓と平井和正はもうちょっとちゃんと読まないと……(笑)