life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「未来のイヴ」(著:ヴィリエ・ド・リラダン/訳:齋藤 磯雄)

2013-03-29 22:02:01 | 【書物】1点集中型
 これは「屍者の帝国」つながり(笑)。あと「イノセンス」でハダリーの名前を耳にした記憶が(型番名だったけど)。しかし、歴史的仮名遣いときたもんで、時間がかかるかなあと思ったのだが意外とそうでもない。「舞姫」はなんだかえらい読むのに苦労した記憶があるんだけど……

 それはそうと、「アンドロイド」というものが初めて出てきた物語であるらしい。それもあのエディソン博士が創造した「人造人間」であるという設定。そういう意味ではSFのくくりに入れられていたりするが、読んでいるとそういうこてこてのSFな雰囲気が実はあまりない世界。「ヴィナス」のような理想の女性をめぐる2人の男性の言葉は、言うなれば耽美の極限をめざしているようなもの。
 大発明家の語る「人造人間」の構造は、それが現実的かどうかは置いておくとしてもひとつひとつがもうこの上なく具体的で、限りなく精巧に作られた操り人形の如くにその全体像を頭の中で組み立てさせる。

 しかし、「理想の女性」を求めたエワルド卿が、恋人アリシヤ嬢の姿をもった人造人間ハダリーと実際にまみえるのは物語の終章近くなってから。それまでは延々と前述のように人造人間のしくみが語られ、その隙間からエワルドの迷いや欲望が透けて見える。
 エワルド卿はアリシヤを「幻」だと言いながら、エディソンに向かってハダリーを「正真正銘の幻だと思っている」とも言った。結局のところ「理想の女性」というのは「自分の思う以外のことはしない」存在でしかない。エワルド卿にとって「生きている女の方が幻」だというのは、単にアリシヤの魂が卑俗だったからに他ならない。だからこそハダリーは魂のない存在であり、最終的に彼がハダリーを選ぶことになったのではないか。

 だが「せめて、死ぬことだけでも、出来るなら」と悶えたハダリーは、本当に魂を持たなかったのか。ハダリーが理想の女性を演じるのは、ハダリーがそういうふうに作られた存在だからだ。そしてハダリーが存在するのは、そういう存在を望む人間がいたからだ。逆に言えば、エワルド卿が望まなければ、ハダリーは永遠に「存在することがなかったかもしれない存在」なのだ。
 それは果たして、あっていいことなのか。人間に作られた存在は、人間と同じにはなりえないのか。物語の結末はそこまでを語りはしなかったが、ハダリーという存在はあっけなくエワルド卿のもとを去ることになる。それは「死ぬことだけでも」と望んだハダリーにとっては皮肉であったか、幸せであったか。エワルドと歩む(はずだった)ハダリーの姿がむしろ語られないことで、人間のなんたるかに思いをいたす契機にもなったような気もする。そう考えると、やっぱSFなのかもしれない。

「A3」(著:森 達也)

2013-03-27 20:50:06 | 【書物】1点集中型
 文庫を見かけて、興味が湧いたので図書館で単行本を借りた。前2作を先に読めばよかったんだけど、そっちは映像でしかないものだと思い込んでいて気づかなかった(笑)。

 一連の「オウム事件」はなぜ起こったのか、教祖・麻原被告の裁判の流れを中心に、教団幹部や関係者への丹念な取材を通してまとめられたドキュメント。
 正直言って、教祖を含む幹部連が司直の手に委ねられるようになってから、「オウム事件」が自分の意識から急速に遠ざかっていたことは事実だ。おそらく日本中の多くの人が感じていたように、裁判の結末はほぼ「わかりきったもの」だと思っていたから。

 でも、結果が動くことがないからと言って経過を素通りしていいのか。森氏の取材内容を見る限り、素人目にも麻原の「訴訟能力」が失われていることは9割がた事実だと思わざるを得ない。それなのに、裁判はまるで結果に帰着させんがために進む。
 司法の果たす役割は判決という結論を下すことにあるのは事実だが、その結論のためにあらゆる検証を行い、事件の表層からだけでは見えない原因を明らかにすることもまた責務であるはずで、しかしそれが果たして「オウム事件」の法廷で果たされているのか。そういう疑問が鮮烈に浮かび上がる。
 
 私自身は、森氏の言うことすべてに首肯できるわけではないし、特に死刑廃止論者でもない(ついでに言うと文体はあんまり好みじゃない)。ただ、麻原や幹部の人物像など、断片的にしか知らなかったことが詳しく伝えられているのを見ると、なぜオウムがこうなったのかが本当の意味で明らかにならないうちは、やはり事件は終わりではないのではないかと感じる。
 起きてしまった過ちを繰り返さないために何ができるか、それを考えることもできるのが人間の知性ではないのか。であれば、考えるための手段を、そのための「事実」を見つけるべきではないか。もたらされた結果だけを鵜呑みにし、考えることをやめたときに人は自由を失うのだから――オーウェルの小説世界みたいに。

「ヘンな日本美術史」(著:山口 晃)

2013-03-21 23:08:46 | 【書物】1点集中型
 山口氏の作品を初めて目にしたのが「風が強く吹いている」の装画。それがとても印象に残っていて、その後他にもああいった「洛中洛外図」を思わせる雰囲気の作品をいくつか見かけたこともあったので、とても興味を持っていた。で、このたびこの本を見かけ、またこの軽妙な群像画に惹かれて手に取った次第。

 カルチャースクールでの講義が基になっているということで、素人にもわかりやすい。なおかつ「描く人」の視点や意見も織り交ぜてくれている。
 なんというか、そう言われてみれば、なぜ初めて浮世絵を見たときに「顔の描き方が変」と感じないのかが謎である(笑)のだが、そのように今まで何気なく「そういうもの」として見ていた、浮世絵の人物が横顔なのに目が正面を向いているのはなぜかということや、日本の古い絵画の平面性はどういったことから導き出されているのかということの理論的な解説に「なるほど」と納得させてもらえるのである。
 「洛中洛外図」の「上杉本」「舟木本」「高津本」3点の違いとそれぞれにある面白さについても、描く側からの解説なので具体的に呑みこめる。そうやって理解した後だと、透視図法とは違う、隅から隅まで全部同じ精密さで描かれるこの画は、意識の中を写実化した画だとも言えるような気がする。西洋的な、視覚が写実化された絵画とは違うけれど、見たものあるいはそこにあるものを描くという根本の意味では同じであって、こう描く視点(技法)があるということが日本美術の個性なのだろうと。

 「鳥獣戯画」が最初は好きじゃなかったというのは、氏の作品にあるユーモラスな部分からすると不思議だったが、ひとつ楽しみ方を見つけるとさまざまな魅力が見えてくるというのが面白い。他にも河鍋暁斎や月岡芳年など、魅力的な画家たちが取り上げられていて、こういった画家たちの作品を数多く鑑賞・研究しながら、その中にある「おかしみ」みたいなものも取り込んで、山口氏の画風ができあがっていったのだろうなと感じさせられる。
 美術は日本のものに限らず、もっと知りたいと思っているもののひとつなので、こういうわかりやすい本は本当にありがたい。他にも著作はまだまだあるようだし、折を見てまたお世話になろうと思う。

円空さん展@上野。

2013-03-16 23:35:45 | 【旅】ぼちぼち放浪
 前売券を買い忘れる失態をしたものの、やっぱり観ておきたかったので。
 家を出る時には雪が降ってたので「おいおい(汗)」だったけど、東京は桜の花もほころび始めているほどの陽気。コートとブーツ(だってまだ凍ってる地面もあるし~)を脱ぎたくて仕方なかった。(笑)

 今回は平成館じゃなかったのでコンパクトな展覧会。でも、飛騨の山林をイメージした設営で、いい雰囲気だった。
 本題の円空仏はと言えば、何をかいわんやという話で……強いてたとえるならば、棟方志功の板画や肉筆画から感じるような素朴なあたたかさや包容力、力強さ。極限まで削ぎ落とされたシンプルさに宿る表現力は、何度観ても見飽きることがない。
 いつまでも眺めていたいし、見つめている間は、そこに宿るものを素直に信じられると思えてくる、そんな不思議な仏さまたち。市井の人々に愛され、慕われ続けた理由が、理屈抜きに体感できる。またどこかで会えるのを楽しみに。

 夕飯は久々にもつ鍋。例によって食いすぎてしまった……いつもより抑えめにしたつもりだったのに、何故。(笑)
 でも、キムチベースのトマト鍋はうまかったっす。

「工学部ヒラノ教授」(著:今野 浩)

2013-03-13 22:31:06 | 【書物】1点集中型
 「文学部唯野教授」を読んだついでに……というわけでもない。何かの書評で興味を持ったんだと思う。
 語る主人公は「ヒラノ教授」とは言うものの、要するにかつて「ヒラ」の教授であった今野氏自身のこと。でそんな「ヒラノ教授」の体験から、大学そして工学部っていうのはこういう世界なんだよと実名仮名取り混ぜてぶっちゃけている「実録秘話」。

 私は「文学部唯野教授」とあまり間を空けずに読んでしまったので、ついヒラノ教授に唯野教授のシュールなノリを求めてしまいそうになった(笑)のだが、もちろんそういうノリではない。でもやっぱり文系だろうが理系だろうが学内政治的な話からは離れられないのであって、それがまた大学のセンセイたちならではの独特な空気感に溢れており、「大学って(あるいは高等教育業界って)相当な伏魔殿だなぁ」と薄ら寒くなるやら若干呆れるやら……(笑)。ていうか、大学内の「○○センター」がそういう立ち位置(=自治権がない)の組織だということを初めて知った。
 それから、研究費とは具体的にどうやってもらうものなのか? という手順が事細かに紹介されてあって、これがまたなんというか(笑)。「やってしまった研究をあたかもこれからやるように書けばいい」って……それでセンセイ方がもらうお金って税金なんだよねー? と思いつつも、その研究費獲得のための申請作業の煩雑さなど見ると、じゃあそのもらった研究費でちゃんと次の結果を出してくださいよ! と言うしかなくなる(笑)。

 あと、文系教授連と理系教授連のカラーの違いもそうだけど、理学系と工学系の研究者のカラーの違いも面白かった。これまでいくつか読んできた理学(数学)系ノンフィクションを思い出したが、数学者って確かに「今でなくてもいつか証明する」って感じで、その「いつか」が相当途方もない雰囲気があるかも。
 逆に工学は技術だから、最先端ばかりやっていてもすぐに古くなってしまう。だからこそ基礎が大事で、新しい技術は「知る」よりも「開発」してこそナンボなんだという点にはすごく納得できた。それと「頼まれたら断(れ)らない」をはじめとするエンジニア気質、ここで言われるところの「工学部の教え7ヶ条」が素敵。工学部に限ったことじゃなくて、普通に社会人として肝に銘じておきたい内容だと思う。反省。

 ただ、こうやってヒラノ教授に内情を暴露(笑)してもらうと、やっぱり最後は「大学ってこの先どうなっていくんだろうなぁ」と眉間に皺を寄せざるを得ない。もちろん大学だけの問題じゃないけど、大学全入と言われる時代になったからには、受け入れる負担も大きくなっているのだろうが送り出す責任も大きくなっている。人が社会に出て行くためには(それがどんな形であるにせよ)「教育」が絶対に必要なことだと思うから。
 そしてこうなると「すべて僕に任せてください 東工大モーレツ天才助教授の悲劇」が気になって仕方なくなる。またいずれ。

「シャンタラム(上)(中)(下)」(著:グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ/訳:田口 俊樹)

2013-03-10 23:51:16 | 【書物】1点集中型
 オーストラリアで20年の懲役刑から脱獄した武装強盗犯が、インドはボンベイに流れ着いて……という著者紹介と照らし合わせてもわかるように、まさに著者の自伝的な小説であるらしい。それを知って手にとってみたのだが、まず上巻約700ページ読み終えて、わかるのはさまざまな登場人物たちの人となりと関係。物語の核心はまだ全然見えてこない(笑)。
 でも、作中に充満するインドの空気感はものすごい。インドってこういう国だったのかと素直に驚くことばかりで、カルチャーショックという刺激をもらえる。実際、物語として面白い作品だろうとは思うんだけど、すべてが本筋のために用意されたエピソードでもないようなので、単にノンフィクションだと思って読んでもいいんじゃないかという気がしてきたものである。
 そして、主人公「リン」の周辺のインド人や外国人の言葉は、宗教に強く影響されている雰囲気を持っていたり、時々奇妙に哲学的だったりで、ふと目を惹く。「善と悪は人のおこないの中にあるものだ」なんて、わかっていたように思うのだけどあらためて言われると納得する。宗教ってそういうものなのかもしれない。

 そんな感じなので、物語があまり前進した雰囲気もないまま(笑)、しかし別に飽きを感じることもなく、その後の展開を楽しみにして中巻へ進む。
 中巻の最初の難題はスラムを襲ったコレラで、それをなんとか終息させたと思ったら、リンは何故か刑務所に放り込まれる。

 別の本で読んだシベリアの収容所もこんな劣悪な居住環境だったなぁと思い出す苛酷な刑務所生活だが、文字通りボロボロになりながらもどうにか生き延びていくリンの姿が壮絶。その姿は終盤、殺人という自らの罪を、下された罰のまま従容として受け容れることで贖おうとするアナンドの姿と対照的だ。
 誰かを助けるために誰かを殺すことを、「正しい理由から、まちがったことをした」と言ったカーデル。その言葉を体現したのが、このときのアナンドの姿であるような気がする。そんなアナンドに対する、自分の中にある感情を「嫉妬」だと自覚するリンに、どこか共感を覚える。

 脱獄という行為で、それまでの人生を文字通り捨てることになり、インドへ流れ着いたリン。それでも彼は、インドで数々のかけがえのない存在を得ることができた。そうした友人たちが幸せになっていく姿を見ることもできた。
 しかし得ることがあれば失うこともまたあるというのが人生なのだと、あらためて思わされるのがアブドラとプラバカルを襲った悲劇である。その喪失感に耐え切れずまたドラッグに耽るリン。そして彼をドラッグの湖から引き揚げるカーラ。でもやっぱりカーラはリンの望むとおりにそこにいてはくれない。全てをさらけ出すことのないカーラの奥深いところにあるものが果たして明かされるときが来るのか、それも気になる。それと、「サプナ」が一体何者なのかということも。

 本格的にカーデルのもとでマフィアの一員となったリンを、アフガンで待っているのは何なのか。リンは結局、どこへ行き着くのか。下巻で何が結論としてもたらされるのか、あるいは哲学的探究が続くのか。
 ……と思ってたら、アフガンにはそれまでのリンの意識を180度ひっくり返すできごとが待っていた。カーデルとカーラ、見えなかったもの、隠されていたことが一気に明るみに出たとき、リンが心に受けた打撃。「正しい理由から、まちがったことをした」というカーデルの言葉がフラッシュバックする。

 さすがに物語も大詰めだけあって、リンが中巻で最愛の友を立て続けに失ったことに加え、今度は父とも仰ぐ存在を2度失うという大きな試練。なかなかに衝撃的だった。
 ただ、リンはやはり最後までだれも殺さない。憎しみは認めている。それでもそこに愛があることも、それをもはや自分が失うことができないことも認めている。そして、「赦し」を繰り返し考える。
 カーラはそんなリンとは対照的に、愛を知ることもなければ、知りたいとも思っていない。ただ、彼女がリンに寄せる思いは愛でなければ結局なんだったのか。「赦し」を与えてくれる存在が欲しかっただけなのか。悔いていないと言うのなら、なぜ赦しが欲しいと思うのか。
 赦しと愛の違いはどこにあるのか、カーラを見ているとわからないようでわかるようなぼんやりしたものが心に残る。けれども、リンが彼女に赦しを告げたことで、ふたりの心は自由になれたのだろうと思う――過去の恋から、そして憎しみから。

 文体に若干、装飾過剰のきらいはあるものの(笑)、インドという国の濃密な香りは作中に絶えることがない。さまざまな人々のそれぞれの心が、強く胸に迫ってくる。言葉の端々の哲学っぽさは、やはりインドの人々の宗教に対する敬虔さからくるものなのかな。特定の宗教には帰依しないが、こういう雰囲気を感じると、宗教の存在理由がなんとなくわかる気がしてくる。
 プラバカルの母ルクマバイがリンに授けた、"神の平和を愛する人"――「シャンタラム」の名。最後の最後にそれが待っていた。結局このリン・シャンタラムの物語はスラムに始まり、スラムに終わる。そこは、プラバカルという天使が彼に授けた永遠の地。リンが犯した罪を包み、そこでの彼の数々の行いを贖罪とすることを赦し、そして愛することを許す場所。願わくば、リンを愛するすべての人が幸せになるように。特に、ディディエ。(笑)

「砂漠の女ディリー」(著:ワリス・ディリー/訳:武者 圭子)

2013-03-07 22:54:05 | 【書物】1点集中型
 確か、散髪の間に読んでた雑誌の書評コーナーで知って興味を持った本だったと思う。ふだんほとんどファッション誌を読まないからモデルにも全然疎くて、ワリス・ディリーという人についてもこの本で初めて知った次第。

 ソマリアの砂漠で遊牧民の子として生まれた彼女が、幼い身にあまりにも苛酷な割礼を施され、挙句には親以上に歳の離れた老人と結婚させられそうになったことで、たったひとりで砂漠を飛び出していく。モガディシュまでの苛酷な道行きも、その先にたどり着いたロンドンでひとり不法滞在の身になったことも、しかしこうしてワリス自身が語るのを見ていると、なんでもないことのように見えてくるから不思議だ。
 おそらくそれは、ワリスが困難に立ち向かうさまが、それでもとてもポジティブだからだろうと思う。こんなふうに生きてみたいと憧れさせてくれるくらいに。

 そんなワリスが、男女の関係について考え始めたとき、あらためて故郷の現実に直面することになる。

 女性は男性に支配される存在であるといういわゆる男尊女卑の、アフリカにおける究極の具現化。それがワリスが受けさせられ、いまも毎年2百万人が受けさせられているという、この女子割礼だ。女性のからだの一部を切除することそのものが、ただでさえ何の正当性もないことなのに、あろうことか切除を行う際には麻酔もない。使われる刃物は消毒もされていなない。あまりにも危険で、残虐ですらある。
 そして女性が、愛するひとと、愛し合う歓びを分かち合えないということは、彼女を愛するその相手にも、自分が彼女に歓びをもたらすことができないという悲しい現実を突きつけることでもある。そう考えると、ソマリアをはじめ、女子の割礼が残る地域等においては、夫婦間の愛情というものが育まれることがないのではないかとさえ思ってしまう。

 アフリカでは、女子割礼に疑義を呈することさえタブーとされている。それを撥ね返し、女性の未来を救うために声を上げたワリス。女性の体を守ることは(もちろんそれは男性にも言えることだけれども)、新しい命が生まれてくることを妨げないこと。つまり、人間の未来を守ることでもある。
 ワリスは文字通り身ひとつで自ら運命を切り拓いてきたが、「思い立ったら命がけ」のような意志の強さを感じさせながらも、実は行く先々で自分に起こるできごとに対して、決死の勢いで取り組むというよりは、あるがままに受け容れながら自分の血肉にしていく雰囲気がある。
 その空気感は、きっとワリス自身が愛するアフリカそのものなのだ。もしかすると、アフリカの愛すべき魂の部分が人間のかたちをとって現れたのがもがあるがままに次の命を育むことができる世界であるために。