「感染宣告」を読んで以来。個人的に、ノンフィクションとSFは1冊読むと一気に波が来てそればっかりになりがちなので(笑)抑えめにしていたのであるが、それでも次に読みたいノンフィクションを探す中で、そういえば石井氏のノンフィクションに感銘を受けたことを思い出し、どれにしようかいろいろ見ているうちに、そういえばハンセン病のことをそもそもちゃんと知らないよな、と思ってこれにしてみた。
ストーリーはミステリ仕立て。村人の集団が「カッタイ」と呼ぶ何者かを、怒りに任せて惨殺する場面がプロローグ。のっけから目を背けたくなる。その場面の裏には何かしらの誤解のようなものが生じていると思われるが、村人は一切耳を貸そうともしなかった。
予備知識ゼロで読み始めたから、「カッタイ」がおそらくハンセン病患者に対する差別用語なのではないかということだけは推測がつくものの、この忌まわしい事件の正体はいったい何なのかという疑問を抱きながら、本編に入っていく。そして、四国のとある田舎の集落で起きた連続失踪事件に、父親がかかわっているとみられたその息子の時間軸=現在と、事件につながるのであろう1950年代の物語が交互に展開する。
読み進めるほどにハンセン病患者の境遇が露わになり、予想の遥か上を突き抜ける過酷や残酷に絶句するばかり。フィクションだけど、それはリアルではないということではないのだ。病に侵された人々が、社会から自らを切り離してなんとか手に入れようとした小さな安らぎや、勇気をもって見出そうとした希望が次々と潰えていく。誤った知識がもたらすものの恐ろしさ、恐怖と嫌悪の同調が呼ぶ人々の狂気と、その狂気に虐げられる人々の悲劇が壮絶すぎて、こんな社会が現実だったとは思いたくない。確執ある父親の事件が何故、連続失踪事件にかかわっているのかを探っていく中で、現在も続く村の風習や実態を知ることになる息子の姿はそのまま読者の視点ともいえる。
そして次第に、父が何故自分に医師となることを強いたのか、何故過去に事件を起こし今また別の事件にかかわることになったのか、その人生が明るみに出される。ハンセン病患者たちとともに暮らした日々が彼にもたらしたものが事件への真相を描き出す。最後には、これはある意味小説らしい一つの種明かしが待っている。小春と乙彦の物語は、人としてありたい姿を語るようにも思えるのである。
この作品の題材はハンセン病だが、こうした過ちや悲劇はおそらくどんな差別にも起こりうるということを肝に銘じておかなければならない。それを今後絶対に起こさないために知ることを避けて通れない、人類の負の遺産だろう。
ストーリーはミステリ仕立て。村人の集団が「カッタイ」と呼ぶ何者かを、怒りに任せて惨殺する場面がプロローグ。のっけから目を背けたくなる。その場面の裏には何かしらの誤解のようなものが生じていると思われるが、村人は一切耳を貸そうともしなかった。
予備知識ゼロで読み始めたから、「カッタイ」がおそらくハンセン病患者に対する差別用語なのではないかということだけは推測がつくものの、この忌まわしい事件の正体はいったい何なのかという疑問を抱きながら、本編に入っていく。そして、四国のとある田舎の集落で起きた連続失踪事件に、父親がかかわっているとみられたその息子の時間軸=現在と、事件につながるのであろう1950年代の物語が交互に展開する。
読み進めるほどにハンセン病患者の境遇が露わになり、予想の遥か上を突き抜ける過酷や残酷に絶句するばかり。フィクションだけど、それはリアルではないということではないのだ。病に侵された人々が、社会から自らを切り離してなんとか手に入れようとした小さな安らぎや、勇気をもって見出そうとした希望が次々と潰えていく。誤った知識がもたらすものの恐ろしさ、恐怖と嫌悪の同調が呼ぶ人々の狂気と、その狂気に虐げられる人々の悲劇が壮絶すぎて、こんな社会が現実だったとは思いたくない。確執ある父親の事件が何故、連続失踪事件にかかわっているのかを探っていく中で、現在も続く村の風習や実態を知ることになる息子の姿はそのまま読者の視点ともいえる。
そして次第に、父が何故自分に医師となることを強いたのか、何故過去に事件を起こし今また別の事件にかかわることになったのか、その人生が明るみに出される。ハンセン病患者たちとともに暮らした日々が彼にもたらしたものが事件への真相を描き出す。最後には、これはある意味小説らしい一つの種明かしが待っている。小春と乙彦の物語は、人としてありたい姿を語るようにも思えるのである。
この作品の題材はハンセン病だが、こうした過ちや悲劇はおそらくどんな差別にも起こりうるということを肝に銘じておかなければならない。それを今後絶対に起こさないために知ることを避けて通れない、人類の負の遺産だろう。
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