「自生の夢」で「文字禍」の話題が出てきて、次に読むリストにのトップに「文字渦」が控えているので、やっぱ読まないわけにはいかないだろうと思って初めて手を出した中島敦作品である。脚注と解説で80ページを超える多さなので、ぶっちゃけ網羅しきれていないのだ が、話の筋はわかるのでとりあえずさらっと読んでみた形にはなった。そういえば「山月記」すらまともに読んでいなかったんだな……
その「山月記」は、なんといってもこの短さでこの強烈な存在感。人ならぬものに化してから、人間の業が見える。失くさなければその意味に気づけない、誰もがどこかに持っている愚かしさ。でもたぶん人はそれを否定し切り捨てることもできないのだ。
「李陵」と「弟子」は、忠なるからこその悲劇と言おうか。信念は自身にとっては自分を納得させるものかもしれないけど、客観視できる立場の人間から見ると虚しさを感じさせるものでもある。でも、それが自身の唯一拠って立つところである人もいる。それを理解しているからこその孔子の嘆きだったのだろうかと思う。
「悟浄」2作は、特に「嘆異」で見せる悟空への感情になるほどと思わされる。端的に言えば経験のない知識の虚しさというか……知識に意味がないということではないけれど、活用できない知識なら持っていても意味がないのは事実だ。教養と知識の違いとでも言うべきことかもしれない。悟浄の見た悟空のそれは決して知識からくる教養ではないが、教養は知識だけからくるものでもないという話でもあるのだろう。天性の感覚でそれを体現しているように見える悟空が羨ましく、思わず悟浄に自らを重ねる。
「牛人」はホラーな感じ。「世にも奇妙な物語」的な、あるいは完全犯罪もの的な。舞台装置は別だとしても本当にあってもおかしくない話で、思わず意味もなく後ろを振り返りたくなる。
パラオの占領のことはほとんど知らなかったのだが、「環礁」はかの地の素朴な姿が見えて興味深かった。異邦人として見たその土地という意味では「輝ける闇」を思い出す。ナポレオン少年は本当は何を求めていたのだろうと思ったりもするが、実際にはナポレオン自身にもどうでもよかったのかもしれない。マリヤンは、戻ってこないであろうと思っていた日本人がやっぱり戻ってこないことに対して、諦めていたのか、それでもやっぱり嘆いたのか、それとも怒ったのか。穏やかに、しかし鮮やかに描かれた人の姿に触れると、その胸の内を思わずにいられなくなるものだ。
で、「文字禍」だが、「書かれなかった事は、無かった事」。これだなと思った。文字があるからこそ、文字(=記録)がすべてだと思ってしまう。そして「文字の精」が――文字そのものが主体となって残したものが歴史となり、「不滅の生命を得る」。しかし文字が見向きもしなかった事柄はその存在を失うことになる。SFみたいな話のようで、実は現実社会でもその通りの話なのだ。そう思うと納得しつつもその現実がどこか薄ら寒い。それにしても、これは中島敦にしろ飛浩隆にしろ円城塔にしろ、文字というものに対しての作家の捉え方が実に面白いと思う。
その「山月記」は、なんといってもこの短さでこの強烈な存在感。人ならぬものに化してから、人間の業が見える。失くさなければその意味に気づけない、誰もがどこかに持っている愚かしさ。でもたぶん人はそれを否定し切り捨てることもできないのだ。
「李陵」と「弟子」は、忠なるからこその悲劇と言おうか。信念は自身にとっては自分を納得させるものかもしれないけど、客観視できる立場の人間から見ると虚しさを感じさせるものでもある。でも、それが自身の唯一拠って立つところである人もいる。それを理解しているからこその孔子の嘆きだったのだろうかと思う。
「悟浄」2作は、特に「嘆異」で見せる悟空への感情になるほどと思わされる。端的に言えば経験のない知識の虚しさというか……知識に意味がないということではないけれど、活用できない知識なら持っていても意味がないのは事実だ。教養と知識の違いとでも言うべきことかもしれない。悟浄の見た悟空のそれは決して知識からくる教養ではないが、教養は知識だけからくるものでもないという話でもあるのだろう。天性の感覚でそれを体現しているように見える悟空が羨ましく、思わず悟浄に自らを重ねる。
「牛人」はホラーな感じ。「世にも奇妙な物語」的な、あるいは完全犯罪もの的な。舞台装置は別だとしても本当にあってもおかしくない話で、思わず意味もなく後ろを振り返りたくなる。
パラオの占領のことはほとんど知らなかったのだが、「環礁」はかの地の素朴な姿が見えて興味深かった。異邦人として見たその土地という意味では「輝ける闇」を思い出す。ナポレオン少年は本当は何を求めていたのだろうと思ったりもするが、実際にはナポレオン自身にもどうでもよかったのかもしれない。マリヤンは、戻ってこないであろうと思っていた日本人がやっぱり戻ってこないことに対して、諦めていたのか、それでもやっぱり嘆いたのか、それとも怒ったのか。穏やかに、しかし鮮やかに描かれた人の姿に触れると、その胸の内を思わずにいられなくなるものだ。
で、「文字禍」だが、「書かれなかった事は、無かった事」。これだなと思った。文字があるからこそ、文字(=記録)がすべてだと思ってしまう。そして「文字の精」が――文字そのものが主体となって残したものが歴史となり、「不滅の生命を得る」。しかし文字が見向きもしなかった事柄はその存在を失うことになる。SFみたいな話のようで、実は現実社会でもその通りの話なのだ。そう思うと納得しつつもその現実がどこか薄ら寒い。それにしても、これは中島敦にしろ飛浩隆にしろ円城塔にしろ、文字というものに対しての作家の捉え方が実に面白いと思う。