life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「山月記・李陵」(著:中島 敦)

2021-01-30 12:32:41 | 【書物】1点集中型
 「自生の夢」で「文字禍」の話題が出てきて、次に読むリストにのトップに「文字渦」が控えているので、やっぱ読まないわけにはいかないだろうと思って初めて手を出した中島敦作品である。脚注と解説で80ページを超える多さなので、ぶっちゃけ網羅しきれていないのだ が、話の筋はわかるのでとりあえずさらっと読んでみた形にはなった。そういえば「山月記」すらまともに読んでいなかったんだな……
 その「山月記」は、なんといってもこの短さでこの強烈な存在感。人ならぬものに化してから、人間の業が見える。失くさなければその意味に気づけない、誰もがどこかに持っている愚かしさ。でもたぶん人はそれを否定し切り捨てることもできないのだ。
 「李陵」と「弟子」は、忠なるからこその悲劇と言おうか。信念は自身にとっては自分を納得させるものかもしれないけど、客観視できる立場の人間から見ると虚しさを感じさせるものでもある。でも、それが自身の唯一拠って立つところである人もいる。それを理解しているからこその孔子の嘆きだったのだろうかと思う。

 「悟浄」2作は、特に「嘆異」で見せる悟空への感情になるほどと思わされる。端的に言えば経験のない知識の虚しさというか……知識に意味がないということではないけれど、活用できない知識なら持っていても意味がないのは事実だ。教養と知識の違いとでも言うべきことかもしれない。悟浄の見た悟空のそれは決して知識からくる教養ではないが、教養は知識だけからくるものでもないという話でもあるのだろう。天性の感覚でそれを体現しているように見える悟空が羨ましく、思わず悟浄に自らを重ねる。
 「牛人」はホラーな感じ。「世にも奇妙な物語」的な、あるいは完全犯罪もの的な。舞台装置は別だとしても本当にあってもおかしくない話で、思わず意味もなく後ろを振り返りたくなる。
 パラオの占領のことはほとんど知らなかったのだが、「環礁」はかの地の素朴な姿が見えて興味深かった。異邦人として見たその土地という意味では「輝ける闇」を思い出す。ナポレオン少年は本当は何を求めていたのだろうと思ったりもするが、実際にはナポレオン自身にもどうでもよかったのかもしれない。マリヤンは、戻ってこないであろうと思っていた日本人がやっぱり戻ってこないことに対して、諦めていたのか、それでもやっぱり嘆いたのか、それとも怒ったのか。穏やかに、しかし鮮やかに描かれた人の姿に触れると、その胸の内を思わずにいられなくなるものだ。

 で、「文字禍」だが、「書かれなかった事は、無かった事」。これだなと思った。文字があるからこそ、文字(=記録)がすべてだと思ってしまう。そして「文字の精」が――文字そのものが主体となって残したものが歴史となり、「不滅の生命を得る」。しかし文字が見向きもしなかった事柄はその存在を失うことになる。SFみたいな話のようで、実は現実社会でもその通りの話なのだ。そう思うと納得しつつもその現実がどこか薄ら寒い。それにしても、これは中島敦にしろ飛浩隆にしろ円城塔にしろ、文字というものに対しての作家の捉え方が実に面白いと思う。

「わが母なるロージー」(著:ピエール・ルメートル/訳:橘 明美)

2021-01-22 00:38:49 | 【書物】1点集中型
 「悲しみのイレーヌ」に始まり、「その女アレックス」と続き「傷だらけのカミーユ」で完結してしまったカミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズのボーナスステージ(だと思ってる)。時系列的には「アレックス」と「カミーユ」の間。といっても個人的には3部作を読んだのが相当前なので、あんまりその辺はピンと来てないんだけど。まあ、わからなくても読むのには問題はない。

 今回は中編ということと、3部作のきつい事件の場面で慣れていたので、ある意味安心して読める。とはいえやっぱりインパクトのある事件から始まるわけだけれども。
 7つの爆弾が1日1つずつどこかで爆発する。自ら名乗り出てきた犯人ジョン(自称ジャン)は供述の相手にカミーユを指定して、そんなとんでもない告白をしてきた。爆弾について教える代わりの要求は今こうしている自分と、殺人容疑で拘留中の母親ロージーの釈放と、オーストラリアでの新しい生活。警察としてはもちろんそんな取引ができるわけはないので、カミーユはなんとか情報を引き出そうとするものの、ジャンは暖簾に腕押し。しかもその母親といえば、ジャン自身の恋人を殺害している。

 俯瞰すると、今でいう「毒親」と息子の話ということになるだろうか。このシリーズではカミーユと母親の関係も折に触れて描かれてきて、それはもちろんジャンとロージーとの関係とは違うんだけれども、カミーユ自身の中にある母親への思いがジャンとロージーへの接し方にも影響を及ぼしているようにも見えなくはない。
 でも、ジャンとロージーの親子関係が、少なくともジャンの側からは決して良いだけではないものだったのは、母親との対面で見せた緊張感からも窺い知れる。ジャンは母の犯した罪が自分に起因するものだと当然理解していたに違いない。それでも母親から離れようとしなかったその心の中は、本当はいかなるものだったのだろうか。あまりにも呆気ない結末は、その可能性が充分に見えていたものではあったが、ジャンにはそれしか残されていなかったということなのだろうか。自らをジョンではなくジャンと称したのは、やはり母の軛から抜け出したい思いがあったからなのだろうか。突然断ち切られた物語に、思わされることは多い。

「自生の夢」(著:飛 浩隆)

2021-01-11 09:59:17 | 【書物】1点集中型
 ずっと読もう読もうと思って手がついていなかったのを、円城塔「文字渦」が文庫になると知ったタイミングで読むことになったので、「言葉による殺人」という要素は個人的にタイムリーさがあった。

 で、いざ読み始めると巻頭の「海の指」はホラーっぽい雰囲気。SFらしいSFを想像していたらちょっと肩透かしを食らう。「音」がキーになるのがわかってきて、音=振動ということで、ああSFっぽくなってきたと思う感じ。その音の奔流が物語として描き出されると、見える映像の鮮やかさで「屍者の帝国」のオルガンのシーンを連想しちゃったりもして。そこに男女の隠微な官能と感情が加わって、五感で味わう世界がさらに広がっていく。この1冊の幕開けとしてはむしろこの異色さこそがぴったりかもしれない。
 「#銀の匙」以降の「自生の夢」連作は強烈な世界観に圧倒される。人の生を記録する言葉と語彙が人を書き出し、世界を構築する。そしてひとたびその世界が崩れたとき、人はどうなるのか。また、「死んだ言葉を継ぎ接ぎして」何かを書き出すことは可能なのか。そんな「ARの次」の世界を描きながら、それでいて現代の情報社会の陥穽、つまり欲しい(と思われる)情報しか取りにいかないことの欠点をも何気なく突いてくるのも面白い。
 「はるかな響き」はもうまんま「2001年宇宙の旅」へのオマージュで(笑)、今度はまた「音楽」、そしてオーバーロード……とまでは言っていないけど。〈響き〉とはもちろん音列であり、それは歌と言葉である。この本に収められた物語を包括するようなラストシーンは、まさにこの1冊の掉尾を飾るにふさわしい。相変わらずの、独創的というありきたりの言葉だけでは表現しきれない物語世界を充分に堪能できる。

 さらに、解説が相当な勢いでネタばらし(いい意味での)してくれるので、思わぬ発見もあって楽しかった。「知をそなえた不滅の言葉と臓器」という一節がなお感慨深い、飛浩隆と伊藤計劃と円城塔のトライアングル。間宮潤堂を「読みたかった」〈忌字禍〉とは、物語の読み手たる我々自身だったということなのだ。そしてもしかするとアリスが潤堂に向けた言葉は、飛氏自身の言葉でもあるのかもしれない。
 ここにこんな貴重なつながりがあったとは知らなかったし、知ることができてよかった。というわけで、「虐殺器官」ももう一度読み直さねばである。ちゃんと見抜けるかどうかは怪しいけれども(笑)。近々文庫になる「文字渦」ばかり気にしていたけども、こうなったら早いとこ「文字禍」も読まねば。