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登戸研究所資料館を見学

2019-06-10 19:25:44 | 日記・エッセイ・コラム

登戸研究所は現在は明治大学・生田校舎内に一部だけ保存されています。

日本人の年寄りでも、登戸研究所と聞いても知らない人がほとんどだと思います。

正式名称は第九陸軍技術研究所で、80年前の戦争のときに「秘密戦」といった戦争の裏面の研究所だった。

人道上あるいは国際法規上、大きな問題を有するものが含まれていたので、当時働いていた方々は口を閉ざし、戦後になっても、公式な記録が残されていなかった。

登戸研究所は、結果として戦局に大きな力になれなかったので、そのまま閉ざされて公にもならなかった。

80年前の予算を見ると679万円を登戸研究所に支給されていて、当時200万円で飛行機工場ができることを考えると、最大限の期待が寄せられていたのがわかります。

当時の陸軍の研究所の中で、参謀本部と直通なのは登戸研究所だけです。

そもそも第九陸軍研究所なるものは、当時は明らかになっていなかった。

数字も何もない空欄の研究所だった。

「秘密戦」とは「防諜、諜報、謀略、宣伝」ですから、闇の研究所だった。

*諜報グッツの開発、手配、毒物実験、細菌実験、などの開発や知見。

*電波兵器や風船爆弾などの開発。

略に分類されるのか偽札の印刷。

*本土決戦に備えての軍事秘密兵器の開発。

などが主な研究だった。

登戸研究所を案内解説していただいた方の、熱心なお話から理解できたことです。

当時から現存する最後の建造物です。

1950年に明治大学が登戸研究所のおよそ半分にあたる部分を建物ごと取得して、明治大学生田キャンパスとして開設された。

農学部や理学部が設けられたので、、、およそ登戸研究所と同じ方向の研究に用いられたようだ

もちろん、戦時中の兵器研究じゃなく、純然たる研究だった。

明治大学は歴史上の戦争遺跡として復元・公開しています。

唯一残っているこの建物は、数年前まで校舎として使っていた。

弾薬庫と言われているが、実際は資料がないのでわからないそうです。

世に有名な風船爆弾もここで開発された。

1万個ぐらい実際に飛ばしたそうで、アメリカに着いたのはそのうちの10%ぐらい。

1千個も米国に着弾したのはびっくりです!

被害は、6人ぐらいの子供が落ちていた風船爆弾に触れて死亡しただけだそうだ。

風まかせの、確実性のない兵器だったようだ。

ただ、製造は難しくこの写真が実物大で、直径が10mもあります。

これを1万個以上も作るのは、戦時中だったこともあるだろうが、相当大変であっただろう。

若い女性の柔らかい手先が必要だったと書いてある。

和紙を何枚もコンニャク汁で貼り合わせてあります。

これが日本の最終兵器だった。

当時の米国の国力は日本の13倍だったと言われています。

つまり13倍の科学力、工業力の差があった。

今の日本と米国以上の差でしょう。

何よりも戦後になっても、登戸研究所を公にしなかったのは、国際的に見ても恥ずかしいことをやっていたからだ。

つまり、、、偽札製造をしていたのだ。

登戸研究所の中の、さらに秘密の塀に囲まれた一画で、偽札を印刷していた。

製紙から印刷までを秘密裏にやっていた。

戦後生き延びた人でも、さすがに国家の恥を公言できなかったようです。

今の北朝鮮を非難できないことをやっていた。

軍国主義で「お国のため、勝った勝ったと万歳、天皇陛下のため、、、などと」殊勝な言葉の裏です。

独裁政治の行き着くところでろくなことはない。

今回見学させていただいて、唯一なのか、現代につながったのか、面白い有益な装置があった。

丸い筒の中で水をろ過する装置です。

当時としては世界的に見ても高性能なろ過装置だったそうだ。

ところが、このろ過装置を使う想定状況が、、、とんでもないことだった。

日本が本土決戦で追い詰められて、大本営と陛下を長野の山の中に疎開して、攻められないように周りの山林平野に細菌を撒いて、敵が入ってこられないようにして、自分たちはこのろ過装置で安全な水を確保する、、、。

自分たち一部は生き延びて、、、何も知らない国民は死んでも構わないという、破廉恥な作戦を考えていた。

穴熊作戦とでも言いましょうか、でも地域を封鎖されたらどうするつもりだったんだろう。

元祖、引きこもり軍になったかもしれない。

日本の軍部が考えることは、、、こんなことだった。

風船爆弾にしても、面白いお話を聞けた。

もともと細菌や毒物を研究していたので、風船爆弾にそれらを乗せて、全米にそれをばら撒こうと考えていた!

当時の国際法規上では、細菌兵器も毒物兵器も禁止されていた。

それは今も同じですが、、、。

ところが、細菌や毒物で攻撃された側は、同じように細菌兵器や毒物兵器でやり返してもよいという条約だった。

それで、もしこのやり方で米国本土を攻撃したら、米国は同じ細菌兵器と毒物兵器で13倍(国力に比例)返しの目にあうかもしれないと、日本の軍部はハタと気がついた、、、。

それじゃ日本はひとたまりもないと、恐れをなして風船爆弾の小さな火薬だけにした。

そんなのならば、、、早く降参しろよと思うのが後世の人の思いだが、、、現実には「見え」があって、「振り上げた手のおろし場がなかった」というのが事実なのだろう。

戦争は愚かな行いだと、、、歴史は教えてくれます。

明治大学・生田キャンパスには、今でも当時のヒマラヤスギが大きく育っています。

当時の写真を見ると小さな植えられたばかりのヒマラヤスギですが、今では巨木になって学生たちの大きな傘になっていました。

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