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デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



三島由紀夫『金閣寺』(新潮社、決定版三島由紀夫全集6)読了。

8月と9月、お盆その他でいろいろとあったのもあるが、弊ブログの更新頻度が著しく低下したのは『金閣寺』とС・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』をこの二か月の間に読んで自分なりの沈思黙考状態に陥ってしまったというのも大きい。
両作品とも扱われている時代が第二次大戦の時期であり、内容について考えれば考える程、時代の異なる小谷城跡やその他の古戦場跡にまつわる、いわゆる「戦」について触れることにも億劫になったり二の足を踏むようになってしまった。
さて三島由紀夫の『金閣寺』だが、金閣を燃やすまでの主人公の内面の動きの描写の見事さに目を見張るが、主人公に直接的にも間接的にも影響を与える登場人物の中に軍の関係者がいることにどうしても目が行った。海軍を逃げ出して女と山中にこもり射殺される軍人、南禅寺の傍で女と今生の別れの儀式を行う軍人、戦争が終わり(新しい時代が邪(よこし)まな心の人々で始まると主人公が考えるうえでの象徴的な)工場の物資をトラック一杯に積み込んで闇でさばこうとする士官、この3人の軍関係者を登場させた作者の冷徹なまなざしを意外に思ったのだ。
というのは私はほとんど三島作品を読んだことが無く、三島由紀夫といえば陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入しクーデターを呼びかけて自刃して果てた三島事件の映像の印象が余りに強かったのだ。戦中と戦後に見られた闇の部分について短い作品の中できちんと触れていることへの純粋な驚きとともに、三島事件だけで作家のことを断定する形で論じるなどもってのほかだと反省した次第だ。
『金閣寺』で描かれる「短い単純な生涯の中」にはさまざまなことが盛り込まれていることは言うに及ばずだが、なんらかの決意をするまでの物語という点で私はプルーストの『失われた時を求めて』と似ているように思った。人の生涯を勝ち負けやそれこそ断定したレッテルで短く評してしまいがちな世の中にあって、人の内面を見つめるのに最適な作品の一つとして『金閣寺』を読む価値は十分にある。


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スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(三浦みどり訳)『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)、読了。

傷痍軍人が帰国後に受けた仕打ちを描いた映画で子どもの頃に衝撃を受けた作品としてS・スタローン主演「ランボー」がある。また最近、紛争地域や戦地での凄惨な体験を綴った本で印象深いのは旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』、安正孝(アン・ジョンヒョ)『ホワイト・バッジ』があるのだが、アレクシエーヴィチが"小さき人々"から聞き取った第二次大戦の証言文学『戦争は女の顔をしていない』に収録された内容は、上に挙げた映画や本と共通するところも少なくないものの、それでいてまるで異なるような、誤解を恐れずに書けば多くの人にとって新たな衝撃を与えるものだろう。
第二次大戦中の独ソ戦ではソ連から100万人以上の女性兵士が従軍していたこと、看護や食事を供給する後方部隊の役割の兵士だけでなく、最前線で実際に戦闘行為を行った女性兵士たちの証言が収められているのが『戦争は女の顔をしていない』であることにまず驚いた。ソビエト時代、この本の内容が戦勝国の物語としてふさわしくないとしてペレストロイカが進むまで出版はされなかった。それは戦争について男の英雄譚的な視点からしか語られてこなかったことを意味しているといえるが、作品に出てくる女性兵士や女性レジスタンス、女性パルチザンの目を通して見ると、やっぱりこれまで戦争が男視点からしか、つまりは女性視点からのもう半分の戦争は語られてこなかったともいえる。
具体的内容についての感想を書くことは正直厳しい。何を書いても私の書く物は薄っぺらい内容になってしまうように思う。私がいうのもなんだが、証言には戦時中の日本と酷似している内容も多く、16~20歳の年齢で前線に志願して行った女性兵士の心情であり信条として「国と私は一心同体」であったこと「自分は不死身だと思っていた」こと、戦地で負った傷だけでなく、帰郷してから負う傷のあらゆる生々しいエピソード、それらを、およそこの現代に情報が溢れているなか却って戦争のことを軽んじロマンティックにさえ描くような夢想にしか接しない人々にぜひ読んでいただきたいものだ。


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レイ・ブラッドベリ(伊藤典夫訳)『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF)、読了。

読了直後は、すごい小説だ!、世の中の何もかもがスピード化し読書の感想をまとめる時間どころか書物を自ら読まなくなり、自ら思考しようとする人を危険視し取り締まろうとする社会を舞台にした作品を描いた作者の先見の明に舌を巻いた、と勢い余って人に語って聞かせたくなるほど興奮した。
アメリカでは戦前には商業テレビ放送は開始されていたとはいえ、作品が1953年に書かれた時点で、人々がヘッドホンステレオおよびパソコンやスマホにイヤホンを挿し耳にあてて自分の世界に閉じこもったり、TVやインターネットを介したバーチャル世界での自分に割り振られた役割に充実感を見い出し、まるで「いいね!」の評価を得ることが最も重要で心的に満足する価値観に疑いを抱かないような世の中を描いて、実際、予見しているところは素直に驚きを禁じ得なかった。私だって作品をイヤホンを耳につけて読書し、ファーストフード店でそれこそ作品に出てくる婦人たちのような人の会話が否応なく聞こえてくるなかで弊ブログの記事に何と書こうか考えていたりし、そしてヘッドホンのスピーカーを耳に当てながらこの記事を書いているわけで、まさにブラッドベリが描いた世界に出てくる道具≪巻貝≫を使っているのだしなおさらだ。
ただ、読了して約2か月経ってみると、過去に周囲の人が作品について熱く語っていたその気持ちは分からないではないし、私にとって衝撃作であることに変わりはないが、第二次大戦後から8年しか経っていないなかで作品が書かれたという時代背景を鑑みても、私はどうしてもある不満を覚える。
作品内の世界は衣食住足りて礼節を知るどころか、足りているにもかかわらず礼節を知ろうとせず、むしろ自らそれを蔑ろにする世界であるともいえる。では衣食住足りるに必要な理系の書物の扱いってこの作品の中ではどのような位置を占めるのか?と思うと、(人文科学・社会科学の本を焚書する任務に就く人物が本のエッセンスを切なくつぶやき、焼く行為が実際のところ単なるパフォーマンス・ショーに過ぎないと語らせているのは巧いが、)どうせなら理系の書物も焼くシーンや切なくつぶやかれる内容に自然科学の成り立ちを象徴するようなアフォリズムの一片を紛れ込ませたり、それが無理ならどうして理系の書物は焼かれないのかといった省察まで欲しくなってしまったのである。別の言い方をすれば、なんというか、人文科学・社会科学系の書物こそ神聖かつ崇高なヒエラルキーの高いものという意識が透けて見えてしまうのだ。
作品内の「戦後」に街に戻る人々のなかに宿る書物の中に理系の書物、自然科学、数学、農学や工学やこの場合医療科学や精神医学や経済学もあっていいし、一人の人間の中に文系と理系の書物を併せ持っていてもいいし、むしろ生き延びるにはバランスの取れた人も必要だろう。
もちろん、それは個人的な過ぎたる望みにすぎない。作品が全体主義の社会やインターネット上の膨大な情報や斡旋の情報に踊らされる自らの思考を停止しようとする人類への警告の書として十分な役割を果たしていることになんら異論はない。


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五木寛之 作『さらばモスクワ愚連隊』、『蒼ざめた馬を見よ』、『青年は荒野をめざす』読了。
こちらの番組で五木寛之氏が当時のソ連への旅について語っていた内容に興味が湧いたのが読書のきっかけだった。
ロシアへツアー旅行したとき、五木寛之作品を読んでいたという人がいて、当時はその人の気持ちが全く分からなかった。
しかし、今になって作品を読んでみると、とても面白い作品だと感じたし、物語を引っ張っていくというのはこうやるんだ、といったお手本のような作品だと思った。
こんな私がこう書くのもなんだが、モスクワの街の描写は細部にわたっていて、やっぱり「こんな作品を書けるということは実際に現地に行ったことがあるな」と正直に思った。


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司馬遼太郎 作『坂の上の雲』(文春文庫)、読了。

作品を書くにあたり、準備や下調べに膨大な時間をかけたのは分かるが、だからといって良質な作品になるとは限らない、読了直後そう思った。
この作品については以前にも触れたことがある。ちなみに10日もあれば文庫版で全8巻を読んでしまう人もいるだろうが、私の場合は読了まで21か月かかった。
遼寧半島への旅行の準備の一環で豆知識を得るために再び読み始めたのがきっかけであるが、読めば読むほど大陸に侵攻したことの理由としてロシアからの侵攻の恐れを建前にし、他の土地で戦争を繰り広げた時代を活力があった明治時代のロマン・夢としてうやむやにした作品だなと思った。
この作品の質が悪いのは明治期の外交や歴史について、自分の信じたいこと都合のいいことだけを信じ込ませる力があるところだと思う。諸外国に対して自分の「こうであったらいいな」といった歴史観から出た信念に合致したような記述を目にして作品を信奉し、ある種の精神的な願望をかなえ、それにしがみつきたくなる要素がある。作品を読んでおしまいというのでなく、20世紀初頭のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本、各国の自国および対外の歴史について目を背けたい事実もきちんと整理したくなった。


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ダニエル・デフォー(武田将明 訳)「英国十八世紀文学叢書『ペストの記憶』」(研究社)読了。

ETVの「100分de名著」にて紹介されていたことで俄然興味がわいた作品。
それまで私は標題に「ペスト」とある外国文学やルポはいくつか知ってはいたが、『ロビンソン・クルーソー』を書いたダニエル・デフォーが人獣共通感染症のペストについての小説(かつ観察録)を書いていたことは知らなかった。
読んでみると、半分も読まないうちに、2020年から続くコロナ禍によって国内および外国で起こった事とあまりにも酷似しているので、結局人間は同じ事を繰り返して、過去の教訓から何も学んでないことを痛感させられた。もちろん、今の世界ではそこまで認められないようなエピソード、危機を前にして市内のあらゆる宗派が敵愾心もなくしていき、説教の場をあらゆる宗派が使ってもよいことになったものの、ペストが終息するにつれ、再び他の宗派を迫害するようになってしまうといったことなどの違いのあるものはあるといっていいだろう。しかし、作品に描かれていることは、本当に感染症の名称と発病してからの症状が異なるくらいで、感染症が大都市に猛威を振るったことで、その危機に対峙する都市の人間の反応と行動は今とほとんど同じじゃないかと思う。
1回25分未満で計4回の番組内で触れることのできるテーマは限られるので、深くツッコめないこともあったろう。しかし作品を手にしてみると、訳者解題にあるとおり、

 こうして明らかとなるのは、表面的な秩序を維持するために市民の身体を家庭のなかまで管理し、秩序を逸脱する存在(病人・死体)を徹底して排除するという、近代的な権力のあり方だ。この権力は、市民の生命を護ると言いながら、「穀潰し」(二五五ページ)と呼ばれる貧民たちにもっとも危険な仕事を割り当て、その生命を犠牲にすることは厭わない。ミシェル・フーコーのいう生権力が、ここでは剥き出しにされている。
(中略)
 そしてこの、ペストという危機を背景に、近代市民社会の根本を抉り出した点にこそ、本書が現代人に強く訴える秘密がある。
上掲書 p355


のであることは深く考えさせられるし、他にも厳しい内容があることは読んでみないとわからない。実際、かつて多くの死体が埋められた場所の上に豪邸が建ったエピソードは番組内でも採り上げられていたが、その死者の扱いがあんまりで終息すればどこ吹く風ではないか、といった指摘以上に、自然災害などの緊急事態が起こったことで現れた「空き地」(無主の地(テラ・ヌリウス))の原住民を追い払い、その空き地をリゾート開発の地にしてしまうといった、災害時の思考停止状態につけ込んで掠め取る現代のディザスター・キャピタリズムの問題をも髣髴とさせるということができるように思うのだ。
世界を覆うこの事態だからこそ考えることはたくさんある。作品の内容は今でも問題やものごとを考えるにあたって参考以上のものとなるように思う。


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安正孝(アン・ジョンヒョ)『ホワイト・バッジ』(光文社)、読了。

韓国映画は幾作品か見ているが、韓国の現代小説をそれもベトナム戦争を採り上げた小説を読んだのは初めてだった。こういっちゃなんだが、国際紛争に介入したことで起こしたベトナムでの行為を正当化・合理化することなく、ありのままを描いた作品ってほとんどない、もしくはあっても知られていないのじゃないのかと思う。
作品の主人公は南ベトナム側として武力で介入した韓国軍(アメリカを除く国でベトナムに派遣した兵士の数としては最大の人員を韓国は派遣した。延べ人員数で31万人の兵士が派遣された)に従軍した元兵士である。
作品で語られるエピソードは生々しく、それは著者が韓国軍の特殊部隊として現地に派遣された経験からくるところのものが多分にある。文章の一節一節にこれほどまでの臨場感を覚える作品は読んだことがなかった。
ベトナム戦争は国際紛争がベトナムの地において繰り広げられた面を持つが、作品は戦場における凄惨で悲惨な体験を書き連ねているだけではない。戦争の全体像をきちんと把握・分析し、登場人物の口からその各々の立場から語られる戦争の所見は韓国軍の置かれた立場のみならず、戦いの背後にある大国の論理や現地人の複雑な感情に至るまで多岐にわたりその内容も情感が込められつつ的確に語られている。
『ホワイト・バッジ』からは旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』、一ノ瀬泰造『地雷を踏んだらサヨウナラ』で感じたような衝撃とは別の衝撃を受けるだろう。大義名分や犠牲の尊さやヒロイズムやロマンといった、戦争につきものの夢想など、戦地で恐怖におびえ現実の生の戦闘・殺し合いを体験し負傷し精神を病んだ兵士たちには何の意味も無いことをこの作品は教えてくれる。


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川合康三『杜甫』 ★★★★★  
…学校で漢詩を習っても日本の奈良時代の頃に唐で活躍した詩人の一人が杜甫であることは覚えられないし、「春望」や「絶句」は知っていても、他にさまざまな詩を詠んでいることは知らずに過ごしていることを改めて感じた。

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上・下)』 ★★★★★

ユヴァル・ノア・ハラリ 『ホモ・デウス(下)』 ★★★★★

グリンメルスハウゼン『阿呆物語』 ★★★★★

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』 ★★★★★

興膳 宏 『杜甫のユーモア ずっこけ孔子』 ★★★★★

ハヴェル『力なき者たちの力』 ★★★★★

井上章一『京都ぎらい』 ★★★★★

石澤良昭『アンコール・ワットと私』 ★★★★★
…著者のアンコール・ワットへのひたむきな思いのみならず、アジア人や西洋人の研究者が遺跡の管理や修復を独占することのないようカンボジア人の手による遺跡の修復と管理を目指したプロジェクトに深く関わった話はとても心を打つものがあった。

井上章一『京都ぎらい-官能篇』 ★★★★★
…いつの時代も複数人の男を同時に魅了する女性はいることがよく分かる内容で、話のネタに困ったらついその内容に頼りたくなる(笑)。

若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』 ★★☆☆☆
…旅行が中止になり、旅行先に関する本へのテンションが下がったときに手に取ったが、むしろ齟齬をきたす結果になった。

柳田国男『口語訳 遠野物語』 ★★★★★

石井正己『NHK「100分de名著」ブックス 遠野物語』 ★★★★★

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン(上・下)』 ★★★★★
…読んでいて、自分はこんな残酷な世界に生きているのか!?と唖然としたが事実をきちんと調べた上で書かれているので内容を直視する価値は大いにある。「危機」に便乗し緊急措置や弾圧を正当化しやりたい放題する強大な権力や企業勢力が、ショック状態におかれた国民になにをもたらしてきたのか、これからの未来を考える上でぜひ頭に入れておきたいことばかりだった。

マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』 ★★★★★

***

越年読書
『「私」は脳ではない』、『ペストの記憶』、『坂の上の雲』、『燃えあがる緑の木』、どの作品も読了まで2021年一杯かかるかもしれない。

来年もよい本と出会えますように。
そして画像の割合が多くなった弊ブログですが、来年もよろしくお願いいたします。


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柳田国男(口語訳 佐藤誠輔)『口語訳 遠野物語』(河出書房新社)、読了。

柳田国男の文語体の分も並行して読み進めたかったが全てのエピソードを並行させることはできなかった(笑)。
「古事記」や「日本書紀」の神々が公的に固定化された世界とするなら、その世界と並行して存在していたかのようなアミニズムの日本の姿、ずばりフォークロアの典型そのものが『遠野物語』なのだなと思った。未だに日本の神話については知らない事ばかりでなんだが。
『遠野物語』の存在及び語り継ぎの意義としていろいろなことを考えたが、石井正己氏のこの解説を

 さらに言えば、『遠野物語』には、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが「野生の思考」と呼んだような、自然とつながった原初的な知が息づいています。いまもそうした思考や記憶は抑圧されているだけで、私たちの心の一番深い底に存在しているはずです。『遠野物語』は遠野だけでなく、東北地方、日本、さらには人類に通じる普遍的な問題と提示しているのではないかと、私は考えています。現代社会を生きる私たちのなかに眠っている、人類史的な古層の記憶を、『遠野物語』を介在させることによって、呼び起こすことができるのではないでしょうか。
石井正己『NHK「100分de名著」ブックス 柳田国男 遠野物語』(NHK出版)、p122


引用させてもらうのが一番だと思う。
個人的には物語の後世への影響力に注目するものがあった。とくに何度もリメイクされている妖怪もののアニメやTVゲームの元ネタとしての『遠野物語』の存在感は途方も無い。
また天保の改革を皮肉った歌川国芳の妖怪図のことも思い出したりもした。現代でさえ、ひどい政策や仕打ちに対して庶民の言葉にならぬ思いを形にしたり、時に負の感情や人間至上主義から一歩距離を置く事を考えたりするうえで、聞くと耳の痛くなるような物語を知っているのと知らないのでは大きな違いが現れる気がする。実際のところ、罵詈雑言や衝動的な一言より物語を引いて表現するのは難しいが、理解しあえるまでの道のりとしては遠回りなようで案外近道だったりするように思う。


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閻連科 作(谷川毅 訳)『愉楽』(河出書房新社)、読了。

閻連科の作品は『炸裂志』以来だが、作者への敬意としては訳者によるあとがきに

着想の奇抜さもさることながら、それを起伏に富んだストーリーに組み上げる才能には脱帽します。

とあるこの一文に尽きる。
作者もよく触れているガルシア・マルケスの作品の雰囲気に加え、『愉楽』にはトーマス・マンの『ヨゼフとその兄弟たち』の雰囲気が強いように思った。
作品の中で起こることは荒唐無稽な出来事ばかりだが、「まるで本当にあったことのようですね」と思わず読了後につぶやいてしまいそうになるし、いかにも中国で実際に起こっている出来事であり、人間の欲望の際限の無さは確かにこんな風だという感じを今回も受けた。
どうしてこうもリアリティを感じてしまうのか、「くどい話」を用いてあったこともあるだろう。河の流れに例えるなら大河がストーリーの中心をなし、読者はその流れを追うだけで十分なはずなのに、大河に注ぐ数々の上流からの支流が「くどい話」なのだ。支流は受活村の生活に割り込み、また村としても良かれと思って受け入れた社会思想や社会システムに他ならず、支流は村に何をもたらしたか目を背けたくなる歴史的背景そのものである。この否応無しのまさに「くどい話」の反復に、近世から現代にかけての中国の過去の辛い仕打ちを決して忘れないぞ、記憶の忘却を許さないぞという信念と凄みが感じられた。


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