馬部隆弘(ばべたかひろ)著『椿井文書―日本最大級の偽文書』(中公新書)(2584)読了。
私は地方史や郷土史について自ら歴史的な文書(もんじょ)にあたって調べたことはないし、むしろ積極的に「歴史的な絵」の展覧会に足を運んだり、観光地の石碑や説明板にあるその絵図の内容を真に受けて画像に残し弊ブログでアップロードして紹介するのが常だ。そしてそのような記事には大抵以下のようなコメントを付す、「往時の姿が偲ばれる」、「当時の様子を想起するのは難しくない」などと。
しかし、そのアップロードした画像に写る石碑・顕彰碑や説明板の内容が、ある時代に突如現れた創作物といってもいい文書を基にしたもので、その文書の内容自体が村や家や寺にとって「由緒あるもの」と人々に信じ込ませる意図で創られ、時代が進んだ現代の研究者や公的機関が町の歴史を語る「史料」としてお墨付きを与え、地域の人たちがその「歴史」を(利害関係もあって)信じ込み、子どもの郷土教育に活用されてしまっているものだったらどうなの?と思うと、悪寒が走る。
一匿名のブログ記事ゆえ、その内容に誤りが見つかったり指摘があれば、「あの説明板の内容はその後の研究で修正されました」と改めの更新記事をアップすることは容易だし、実際、訂正記事や追記をしたものもあるので、気にしすぎることはないと思う人もいるかもだが、これが研究を生業にされている人、とりわけ著者のような人が神経をすり減らして問題を指摘する事態となれば、弊ブログが訂正記事をアップする程度の問題で片付くはずはない。
実際、本の中の第六章と終章に書かれている内容は問題を指摘する著者にとって大変なことだし、指摘される側にとっても辛いことなのはよく分かる。ただ、指摘された側の人々はどうか勇気をもって著者の指摘に対して真摯な態度で自らの研究成果と向き合っていただきたいものだ。周囲を巻き込んで一旦動き出してしまったものを止める事は期待を裏切ることに繋がるという罪悪感が付きまとうし、アイデンティティの崩壊を恐れ既成事実にしがみつきたい気持ちも分かる。しかし、自浄作用を発揮する機会を見てみぬ振りをして過ごし時間が解決してくれる淡い期待とは裏腹に、後世から後ろ指を差されつづけられることを免れることはできない。記録は残り続ける故、聞かぬは一生の恥に留まらないのだ。
難しいかもしれないが、著者がp201で述べた「救われた気にな」った事例などが積み重なれば結果的に公的機関の信頼度を高めることになると思う。方法としては、著者の心を打った三浦蘭阪(みうららんぱん)のエピソードを紹介するのも一つの手だろう。こういったエピソードを踏まえた歴史も人々が知ることによって、人間の習性を考えるいいきっかけになるどころか、修正を恐れず自浄作用をもつ公的機関であることを自ら示せるわけだし、それはおおいに意義のあることではないか。少なくとも観光地の石碑や説明板にあるその絵図の内容を真に受けて画像に残すだけよりは遥かにいい。