デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー(村上春樹 翻訳ライブラリー)』(中央公論新社)、読了。

実は再読である。初読は別の翻訳者の分である。
個人的な昔話でなんだが、初読の頃の私は、世界が善と悪でくっきりしていて人生が分かりやすく単純なものであると疑わないような年齢で、小説の名作とされているものはことごとく聖人・聖女のようなキャラクターが酷い目に遭う話しとなっており、心の美しい清廉潔白で一途な男女が決してハッピーエンドを迎えず引き裂かれるか破滅することから、そういう結末を迎えるのは背後に世の中の不条理が横たわっているのが最大の原因だと読者に訴え、多くの読者を獲得したものであると真剣に思い込んでいたのである。
そんな頃に『華麗なるギャツビー』を手掛けたが、その動機やきっかけはアメリカ文学の準古典の名作で「有名作品」であるというふれこみに触発されたもので、「『ギャツビー』くらい読んだことはある」と言いたいだけのものだった。細かいことは映画で補完しておけばいいという心もち(結局映画も鑑賞していない)だったし、読書自体ただストーリーを追うだけ、登場人物すら頭の中で整理しない字を追うだけのひどい「読書」だったので、登場人物たちが我がまま放題やりたい放題して不愉快で退屈な作品だなぁ、なんでこれが名作なんだろう?と思ったものだ。ギャツビーとデイジーが聖人・聖女で両想いであるものの不運にも結ばれなかった可哀想な悲劇の目撃証人となる青年の談の何がおもしろくて名作なんだろう?思ったのが昨日の事のように思い出せる。
若い頃の私にとって『華麗なるギャツビー』は登場人物たちの振る舞いがまったく分からなかった作品であり、ある程度の読書体験や親類縁者の間や社会での人付き合いといった社会体験が無いと内容すら理解できなかった作品ではないかとは思う。(ただ、『グレート・ギャツビー』の訳者も「訳者あとがき」で述べているように作品が「本当に正当には評価されてこなかった」のは、これまでの翻訳が「違う話みたいに思える」せいもあった可能性も僅かにはあるかも(笑))

それはさておき、今月に入ってヘミングウェイの『移動祝祭日』所収の「スコット・フィッツジェラルド」の章を読んでからは、俄然フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』に興味を覚え、次に読む予定の本を後回しにして作品を手に取った。
今回は、数日で一気に読めた。私の勝手な印象だが短い形に洗練された『モンテ・クリスト伯』『アンナ・カレーニナ』『カラマーゾフの兄弟』や『失われた時を求めて』みたいだと思った。なんというか完全無欠で隙がないにもかかわらず登場人物や話しの展開に中性的なものがなく、話しが取り繕ったような飾る事もなければ理屈っぽくない、創作上の無理やり感をうまくそぎ落としたように思ったのだ。
これだけ完璧な作品を見せ付けられると、どこかしら穴が無いのか?と粗探しをしたくなったほどだ。個人的に誤植か脱字ではないのか?と思った個所に付箋を貼ったが、後で調べると私が言葉の読み方や語句の意味を知らなかったり、通常なら漢字で表されるものをひらがなにしてあるだけだったので、そのような悪あがきも何の意味もなさなかった。逆に穴を探そうとしたことで、最初から第3章まで読み返すことになり、作品の隙のなさや緻密さがより一層分かるようになったので、かえって舌を巻くことになった。それが昂じて、登場人物たちの過去を整理するうえで代表として以下のようなデイジーの年表まで作ってしまったほどだ。

5年前(1917年)の秋デイジーは18歳になったばかりで、ジョーダン・ベイカーは16歳。デイジーがジェイと関係を持った年でもあり、彼女がこの年の冬に出征するジェイを見送るためNYに出奔しようとする騒ぎを起す。
1918年、ジョーダンにもとりまきが現れ、ゴルフでプレーするようになる。この年の秋はまた、デイジーがもう「傷心」も癒えたかのように明るく振舞うようになった時期で、協定後(第一次世界大戦の休戦協定は同年11月11日)にデイジーが社交界デビュー。
1919年6月にトム・ブキャナンと結婚。いろいろな意味で彼女は大泣きする。3ヶ月の新婚旅行(初夜は6月であろう)に出発する。(8月末までに)帰ってきたら、トムにぞっこんになっている。
1920年4月娘を出産。それから翌年4月までフランスで過ごす。
1921年の4月中か5月?に帰国してシカゴで過ごす。デイジーはシカゴで若い金持ちの若者と付き合い遊びまわるちやほやされることに充実感?を覚える性格は変わらない。
1922年にイースト・エッグにトムと住む。デイジーは(秋に)23歳になる。同時に2歳児の母でもある。同年、ウェスト・エッグにニックが移って来る。ひと夏の(物語の)始まり。

作品で描かれる内容はやっぱり正直不愉快なものであって、読んでいて気持ちのいいものではない。だが、ひと夏の間に起こったこと、出来事を引き起こす登場人物たちの性格や感情の動きや衝動・行動は、あまりにもリアルで活き活きとしていると思ったし、不愉快にもかかわらず唸らされるというか続きが気になって仕方が無くなる力が作品に満ちている。また、語り手ニックが関わった事や当時のことを想起しての思いなしというか感懐は、アメリカのなかに存在する社会構造や階級意識や現代史の表面からは見えづらい面を浮き彫りにしているようにも思えた。
具体的に登場人物たち一人ひとりについて考察すると限がないので、年表を作ってしまったデイジーとジェイについて少し書くと、デイジーの気持ちの移り変わりは目まぐるしいものがあると思った。男女関係において彼女にも「その時だけは本気」という時期こそあるが社交界の自分の立場を捨て去るほどの決断力はもっていなく、一途とはいえないなかにある意味現状維持という名の美徳への身の振り方に落ち着くような現実主義的面がある。それでいて純なところと不実なようでそうではないギリギリのところを併せ持っている。そんな彼女に惹かれるのはジェイだけではなかったろう。多くの男を群がらせイチコロにしてしまうタイプの女の像を、本当に巧く描いているように思う。物語の冒頭で、「つらい目に遭った」だの「世の中ひどいことばかり」だのとのたまうデイジーのことを語り手でもあるニックは不誠実と断じるが、無自覚に男からの愛情を無碍にあつかってきたことを棚に上げてどの口が言うかと思えど、当人の前では決して言えない雰囲気が感じ取れそうだ。
結局のところ、決して一途とはいえなくも相手が誰であれ自然な振る舞いとして優しく魅力的な声を掛けることのできる八方美人女に男は惹かれるという典型例で、ジェイが5年前の感情を延々と引き摺り続け、数年掛けて胡散臭い教養や財を蓄えてなお過去を取り戻そう、彼女を振り向かせようと純情がいきすぎて痛々しい振る舞いに至ってしまったことについて少しくらいは共感できる人もいるのではないか。
あと、感心したのは設定としてデイジーの夫トムをミセス・ウィルソンとの不倫関係に置いたことだ。フィッツジェラルドの妻の浮気相手のパイロットに該当するようなジェイを創作しただけでなく、この不倫関係を組み込んだのは作家にとってみれば会心のひらめきだったように思えてならない。ドストエフスキーもジョイスもプルーストも私生活において辛すぎたり他人に迷惑を掛け倒したことを作品に昇華することが巧いが、フィッツジェラルドもまさにこの並大抵のメンタルではできないことをやってのけた点で、アメリカ文学の金字塔を打ち立てたといっても過言ではあるまい。


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