おさかな’sぶろぐ

日々感じたことを徒然なるままに。。。

「わからない」という方法11

2005年06月18日 21時29分25秒 | 日記・雑談
第3章 なんにも知らないバカはこんなことをする より抜粋
1 基本を知らない困った作家
◆二羽目のウサギ
 「やってみなけりゃわからないこと」はいくらでもある。「セーターの本」を書いていた時にも、「とんでもなくヘンテコリンなウサギ」を捕まえた。「文章に関するウサギ」である。「セーターの編み方」を説明するため、やたらの数の絵を描いた。次はその絵に合わせて、文章による説明を書いた。わかり切ったことの絵を描くことも面倒だったが、文章にいたっては飽きてしまっていた。そんな時、目の前に「とんでもなくへんなウサギ」が突然現れる。
◆写生文のお手本
 そのウサギの名前は、「志賀直哉」というものであった。有名な写生文『城の崎にて』を思い出した。谷崎潤一郎は『文章読本』において《此処には温泉へ湯治に来ている人間が、宿の二階から蜂の死骸を見ている気持ちと、その死骸の様子とが描かれているのですが、それが簡単な言葉で、はっきりと表されています。》と語っている。ここで重要なのは「蜂の死骸を見ている私の気持ち」ではなく「私」に見られている「蜂」なのである。
◆「説明」は作家の基本である
 「対象をきちんと書く」が出来ていなかったら、「それを見る私の気持ち」なんかは伝わない。「説明」は小説の基本で、「説明をする」がすべてでもあるような「実用の文章」なら、これはもっと重要である。
◆「基本」は死なない
 作家になった1970年代の後半、既に「写生文の必要」とか「重要性」は、もう古いものになっていた。重要なのは「新しい感性」で、それは「写生文に頼らない感性」だとういことになっていた。しかし「写生文」とは、「書かれて必要な対象をきちんと書く文章」なのである。「比喩」とか「表現」とか言われるものは、「なにかに仮託して別のなにかを語ること」なのであって、「対象」をきちんと書けなかったら、成り立たない。文章において写生文が重要であることは、一向に変わりがない。
◆「基本」に気がつく
 「説明する」は、作家であることの基本である。「編み方のプロセスを教える絵」は、「城崎温泉の旅館の陰にある蜂の巣」であり「そこをブンブン飛び回る蜂の姿」なのである。これを理解したとき、「単純な説明」を単純なまま書くことが出来た。これが私の捕まえた「二羽目のウサギ」である。
◆困った人と困った時代
 「就職するまで〝働く〟ということを考えたことのない人間」はいくらでもいる。目標は「大学に行く」で、「大学に行けたら就職はできるはず」と考えていた若者達は、バブル以後の不況前まで、いくらでもいた。目的は「就職」であって、その先にある「働く」がまったく見えていない。「就職した以上は仕事もできる」という錯覚に陥る。「できるはず」と思い込んでる人間が壁にぶつかると「自分の無能」を理解せず、「自分を不適合にする状況が悪い」という、とんでもない判断をしてしまう。仕事が「自分のもの」にならないのは、その仕事の中に隠されている「基本」が見えず、マスターできなくなっているからである。教えられた通りのことを教えられた通りにやっていたって、その先はない。薄っぺらな自分が薄っぺらに見た程度のことだけを「仕事」と勘違いしていたら、すぐに壁にぶつかってしまう。ただそればかりのことである。

Miles Davis / Kind Of Blue

2005年06月18日 19時17分14秒 | 音楽
Kind of Blue
Miles Davis
Sony International

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◆マイルス・デイヴィス / カインド・オブ・ブルー

◆曲目
(01) So What (9:22)  (Miles Davis)
(02) Freddie Freeloader (9:46)  (Miles Davis)
(03) Blue In Green (5:37)  (Miles Davis)
(04) All Blues (11:33)  (Miles Davis)
(05) Flamenco Sketches (9:26)  (Miles Davis)
(06) Flamenco Sketches (Alternate Take) (9:32)  (Miles Davis)

◆マイルス・デイヴィス   Miles Davis(Trumpet)
 キャノンボール・アダレイ Julian “Cannonball” Adderley(alto saxophone[except#3])
 ジョン・コルトレーン   John Coltrane(tenor saxophone)
 ウィントン・ケリー    Wynton Kelly(piano[#2])
 ビル・エバンス      Bill Evans(piano[all other])
 ポール・チェンバース   Paul Chambers(bass)
 ジミー・コブ       Jimmy Cobb(drums)

◆録音  01~03:1959年3月2日、 04~06:1959年4月22日
     Columbia 30th Street Studio,New York City

◆50年代末、ジャズの中心的なスタイルであったハード・バップが、一部の先駆的なミュージシャンには、発展性に限界を感じ始めていたようです。マイルス・デイヴィスは、「モード」と呼ばれる新しい音楽理念を導入した。「モード」はこれまでのコード(和音)に基づく即興演奏ではなく、スケール(音階)に基づく即興演奏を特徴とします。この「モード奏法」を取り入れることで、アドリブの発展性は無限に広がって行きました。
 また、このアルバムに参加しているメンバーも凄いですね。キャノンボール・アダレイ、ジョン・コルトレーン、ビル・エバンス等が参加しています。
 ハード・バップとは、表現方法が両極端に違う「モード」は当時はかなりの衝撃があったのではないだろうか。

「わからない」という方法10

2005年06月18日 07時31分14秒 | 日記・雑談
第二章 「わからない」という方法 より抜粋
4 「わかる」と「生きる」
◆「学ぶ」とは「真似る」である
 「習う」は「倣う」であって、その根本は「真似る」である。「学ぶ」も、その元は「まねぶ」で、「真似る」である。学習の根本にあるものは、「教師となる人のあり方を真似すること」である。教える側の教師には、その教師個人のクセがある。教師の体質が、教えられる生徒の体質と合致するかどうかはわからない。しかし、学ぶ側の生徒は、その初めにおいて、自分とは関係のない「教師のクセ」を、なんらかの形で共有しなければならない。それが「真似る=学ぶ」である。初めにマスターするのは教師である「他人のやり方」である。その後学ぶ側の人間は、自分の特性に見合ったものとしてかえていかなければならない。すなわち、「学ぶ」とは、「師」となった他人の人生と、自分の生き方を一致させることであり、「わかる」とは、その一致からはずれるような形で存在している「自分自身のあり方」を理解することなのである。「学ぶことのうっとうしさ」も、そこから生まれる。
◆「教育の崩壊」はなぜ起こるのか
「学ぶ」とは、教える側の持つ「生き方」の強制なのである。「その生き方がいやだ」と思われてしまったら、その教育は崩壊する。学ぶ側は、手っ取り早くノウハウだけを学びたい。抽出されたノウハウは、既にはっきりしているー「いい加減でいい」である。「初めはいい加減でもいい。慣れればなんとかなる。まず慣れることである。」ということは、すべてにわたっての根本原則のようなものである。ただゴールを明確に規定していないと「いい加減」は野放しになってしまう。