おさかな’sぶろぐ

日々感じたことを徒然なるままに。。。

事務所の新しい住人か?9

2005年05月31日 17時09分23秒 | 日記・雑談
ヒナはスクスクと育ってる模様。もうなんとなく鳩の模様も出来てるようです。
昨日は、初めてのうんこ爆弾も落ちてきました。
くれぐれも来客の方はご注意を!といってもこのblogを見てる方はあまりいないとは思いますが(^^;;
いつごろ巣立つのかな~?

「わからない」という方法7

2005年05月28日 09時52分15秒 | 日記・雑談
第二章 「わからない」という方法 より抜粋
1 私はなぜ「セーターの本」を書いたのか
◆なぜまたそんな不届きを
 「セーターの本」を書こうと思ったことの根本にあるのは、挫折である。「活字離れ」という、自分一人ではどうにもならない恐ろしい状況の中でいたのである。
◆「活字離れ」という状況の中で
 「活字離れ」とは読者が本を必要としなくなるという、とんでもない危機である。いくら本を書いても、そこに読者はいないというとんでもない状況が進行し続けている以上、すべては空回りするしかないのである。
◆状況が空回りしてしまったら
 状況というものは大きな力を持つ。状況が健全なときには、力のない人間でもひょいと救い上げてくれる。しかし状況が傾くと、人を見捨てるつもりがなくても、平気で見捨てていく。「活字離れ」は、出版という業界を襲った構造的な大不況なのである。その中で作家としてやるべきことは「いい作品を書いて、その状況を撥ね飛ばす」である。だが自分には、そんな力はない。「ない」と、さっさと認めてしまう。そんな時には、「とりあえず〝わかりうるもの〟を探す」である。「わかりきっている」と思えるような「くだらないもの」の中に、「〝わかる〟へのヒントは隠されている」のである。
◆「構造不況」の中で考えなければならないこと
 先のない業界の中で、人の考えるべきことは「この業界に留まるか、この業界から抜け出るか」である。傾いた業界に留まった人間は、その業界の立て直しを考えなければならない。
◆構造不況への錯覚
 人は「構造不況」という言葉を誤解し、「この業界はだめだ」と短絡する。しかし、構造不況とはその業界がパッとしない状態に陥るような構造を持ってしまったことであって、不要になったということではない。例えば、新しい町が出来上がっていく過程では、多くの建設業者が必要となる。だが出来上がればそんなに必要ではなくなる。だが町を維持メンテナンスするための建設業者は必要である。多くの業者は、営業形態の変更を迫られると同時に、多くの業者が業界からの撤退を余儀なくされる。こういう状態が「構造不況」である。
◆「活字離れ」の告げるもの
 二十世紀は「わかる」が当然の時代だった。その「正解」と思われるものを本は大量に供給し続けていた。だが、その供給がある程度以上のレベルに達した時、「〝正解〟があるというのは幻想ではないか?」という事態が訪れた。それが「活字離れ」である。だとしたら「わからない時代」の「わからない」という需要があれば、「それに対して答えを供給する」という業種の存在理由はある。
◆オバサンの論理、オジサンの論理
 二十世紀に「知識人」をやっている人達にとって、「わかっている」は当然のことで、それに対して「わからない」という人間は、バカなのである。「わからない」と思って、自分独自の思考法でものを考えると、神聖なる「正解」の有効性を信じる人達にとって、不真面目で不愉快で許しがたい行為なのである。

陶芸教室

2005年05月28日 08時14分12秒 | 日記・雑談
金曜日の夜から、あまごにあさんからお誘いがあり陶芸教室へ参加することになりました。毎週金曜日の夜、開講されます。っで、今日はぐい飲みを作ったのでした。初めての陶芸でちょっと難しかったですが、なんとかなりました。かなり面白いかも。次回から楽しみです。

「わからない」という方法6

2005年05月26日 21時11分24秒 | 日記・雑談
第一章 「わからない」は根性である より抜粋
4 「へん」の使い方
◆挫折の克服は状況把握から
 挫折というものは、自分がふるおうとする力と、その自分を取り巻く現実との空回りによって生まれるものである。自分の力は力として、その自分を取り巻く状況が検討されなければ、いかなる力もふるいようがない。
◆私は「へんな人間」である
 多くの人は、「へん」という言葉に尻込みをする。それに怯えて、自分の持っている特性を手放してしまう。しかし、「へん」というものは、持ちこたえれば、十分な美点に変わるものであり、「わからない」を方法にするために最も必要なのも、「へん」なのである。
◆「へん」は中立の指標である
 「へん」というのは、ニュートラルな指標であり、「へん」が話題性につながると、たやすく「へんじゃないもの」へと成り変わる。
◆「へん」と「へんじゃない」はイーヴンである
 「へん」があれば、もう一方には「へんじゃない」が存在する。
◆「へんじゃない」は硬直する
 「へんじゃない」は、「自分はへんじゃない」という理由だけで、「へん」という「もう一つの別の立場」を公然と排除してしまう。その結果、「へんじゃない」の視点は、「へんじゃない=自分=正しい」の一つだけになって、自分を検討するために存在するはずの批判的な視点をなくしてしまう。
◆批判を拒否した「へんじゃない」は無責任になる
 「へんじゃない」は批判の拒否で、「へん」とは、これに対する批判票である。「へんじゃない」が増えることは、批評されることを拒否する人間達が増えたと言うことである。自己中心的な無責任人間がやたらと増えることになる。「へん」という正当なる批判票は、常になければならない。
◆「へん」と「へんじゃない」は人の必然
 「へん」と「へんじゃない」とは、たやすく入れ替わる。人間は、常に自分のことを「へんじゃない」と思うし、思いたがる。ただ世の中「自分」ばかりじゃなく「他人」という人間も存在し、「へん」と「へんじゃない」の発生は、この「自分の目」と「他人の目」によって存在する結果である。ただ、誰も「へん」はいやだから「へんじゃない」という多数派グループに属したがる。
◆なぜ特性を捨てるのか
 「へん」という特性を持ってしまった人間ほどいじめにあう。特性とは、「へん」を発生させる元となる「違い」である。いじめはいやだからこれを隠そうとする。結果、似たような「個性」ばかり氾濫し、特性を持った人間を消滅させてしまう。
◆「へん」の力
 「へん」と「へんじゃない」とは、一人の人間の中に同時に存在するものである。どちらが「正しい」ということはない。ただ、「へんじゃない」には「へん」を排除する力があり、「へん」にはその力がない。
◆「わからない」もまた「へん」である
 二十世紀は「わかる」を当然とした時代であり、すべてに関して「正解」と思えるようなものが存在していると信じられていた。「わかる」を当然としたなかでは、「わからない」は「へん」であった。時代は「わかる」と当然とするものから、「わからない」を当然とするものへと転換した。「へんじゃない」に慣れてしまった人は、「へん」を排除することに慣れて、「へん」の存在を発見することができない。
◆「へん」のメリット
 「へんじゃない」という立場に立って、「へん」を見ることはできない。「へん」という立場に拠れば、「へんじゃない」を批評的に見ることができる。であればこそ、「へん」の立場には、「へんじゃない」をひっくり返す力が宿る。 
◆「へん」と「信念」が作るテコの原理
 「へんじゃない」の持つ力は、「排除する」である。「へん」の力は、「ひっくり返す」である。自分の特性を手放さずにいれば「へん」になり、逆境の中「へんと言われても揺るがない信念」をもっていればゆっくりと熟成される。その力は「硬直して古くなった多数派の常識=へんじゃない」をひっくり返す「へん」という支点を持ったテコとなる。

どっひゃ~

2005年05月24日 19時35分15秒 | 日記・雑談
GWも休まず、一生懸命図面書いたのに、今日施主の一言で振り出しに戻りました。構造計算も構造図も終了、意匠は展開図を最終的に仕上げるだけだったのに。。。なんだかな~
車のディーラーショールームで久し振りの鉄骨造だったのに。。。また描くのかと思うと気が重い!なんとか気合いをいれなきゃ。誰か飲みに誘って!

「わからない」という方法5

2005年05月24日 19時29分47秒 | 日記・雑談
第一章 「わからない」は根性である より抜粋
3 企画書社会のウソと本当
◆一兎を追う者は十兎くらい一度に追え
 「わからない」とは、思考の途中で「わからない」という表示がさまざまに登場し、「どっちへ行ったらいいかわからない」という混乱に襲われてる状態である。「二兎を追う者は一兎も得ず」と言うが、「明確な目標」を持つ人間は、はじめから二兎は追わない。「明確な目標」のない者は十兎くらい追うしかない。そのどれかでも捕まえればめっけものと思うのが初心者の心得であり、大学受験の「すべり止め」と同じ感覚である。結局は失敗しても「経験だけはしたから、今度の機会にはー」ということにすればよい。
◆しかし現実は甘くない
 もっとも「一兎を追う者は十兎くらい一度に追え」などという言葉を実践すると、社会人失格になってしまい、企画書にもならない。
◆なぜ企画書はウソだらけなのか
 企画書には、明快なる方向性が求められる。それは「上司の読むもの」だからである。上司とは管理職である。管理職は現場からはなれ上にいけば行くほど現場からは遠くなる。しかも「自分のわかることしかわからない」という人間が増えていく。だから企画書は、ものわかりの悪い上司にもわかるように「明快なる方向性を持つ」ものになる。
◆企画書の根本は意外性と確実性
 企画書は、「現場の発想を生かすもの」ではなく、「上司の理解力に届くもの」である。現実には「テキトーなウソを書いておいて上のOKだけを取っておき、その後でやるべきことをやる」という日本的な「根回し」の作業が必要である。企画書には、上司を驚かせる意外性と、上司を納得させる確実性という矛盾したものを必要とする。
◆確実性とは「もっともらしさ」である
 企画書を没にしないためには、どこかでウソが必要になる。要はない確実性を「ある」と言い、ない意外性を「ある」と言うのが「よい企画書」になる。
◆企画書社会の根源
 企画書社会の根源が「文章第一」の官僚社会にあることは間違いない。しかし、企画書が要求する意外性と確実性は、理屈を求めて本を読む日本人全般にわたって潜在的に存在する、「納得の二大要素」でもある。

受賞

2005年05月23日 15時56分52秒 | 日記・雑談
先週の金曜日、高松の全日空ホテルクレメントにて開催された香川県建築士会通常総会に出席してきました。毎年総会終了後には、懇親会が開催され、優秀作品の表彰式も行われます。今年も昨年に引き続いて賞をいただきました。支部表彰だったのですが、昨年一年間の頑張りを誉めてくれてるようでうれしかったです。今年もまた頑張らなければと実感しました。

事務所の新しい住人か?6

2005年05月23日 11時05分30秒 | 日記・雑談
3月末に巣より卵が落下して、鳩はいなくなっていたのですが、GW頃再び住み始めました。前の鳩とは違うような気がするのですが、よくわかりません。それからずーっと住みついているようです。鳩の画像の左の方に卵の殻らしきものがあるのですが、ジュニアが誕生しているのだろうか?鳴き声も姿も確認は出来てないですが、気になるところです。

「わからない」という方法4

2005年05月23日 10時21分32秒 | 日記・雑談
第一章 「わからない」は根性である より抜粋
2 「わからない」を「方法」にする方法
◆「わからないけどやる」は度胸である
 失敗の可能性が高い「わからないけどやる」は、度胸のいることである。「バカと言われることを顧みない度胸」が二十世紀病を打破する力となる。
◆なぜいろんなことをやるのか
 「わからない」を「方法」にするために必要なものは、覚悟である。著者はいろんなことにチャレンジしているが、それは「わからない」という壁にぶつかってばかりだからである。
◆人は常に壁にぶつかり続けている
 作家というものは、作品を書き上げて「作家」になり、作品を書き終えた後は、「あの作品の作家」という形で「過去の人」となる。つまり「定年」と「再就職」を頻繁に繰り返してることになる。作品を書き終えた作家は、「次の作品」という再就職先を見つけるまで、印税とか原稿料という退職金で暮らす。「次の作品」を見つけられたら、「作家」として復職できるのである。復職するためにはその度に壁を乗り越えなければならない。
◆どうせ来る衝撃はゆっくり受け止める
 最初の作品を書き終えたとき「もう書くことはない」という状態であった。それを公言してしまうと「才能のない人間」となってしまう。次回作の依頼を「テキトーにかわす」という方策も必要である。物事をきちんと終わらせるためには、「やるべきことをやりつくす」が当然なのだから、その後に「ストック=ゼロ」になっても不思議はない。恥ではない。恥ずべきは、中途半端なまま「終わり」ということにしてしまうことである。
◆ヴァリエーションの数は挫折の数に等しい
 一つのことしかやらないですんでいる人は、「他に能がないから」などと謙遜するが、それは「能がない」ではない。挫折を知らないですんでいるだけなのである。挫折に免疫のない人は、一つの挫折で簡単にまいってしまう。人生に挫折はつきものである。「挫折」に見せないための工夫、覚悟を持たなければならない。
◆自分はなにものでもない
 「今までとは違う新しいことをしたい」と思うのなら、その時、「今まで」は壁にぶつかっているのである。つまり挫折している。そこから脱出する方法は一つしかない。「挫折している自分自身」を素直に認めることである。挫折に苦しんでいる人の多くは、「自分はなにものかであった、まだなにものかである」という虚栄心によって苦しめられているのであって、自分が経験したはずのことを、「経験=キャリア」として自覚できない。自分を「ナニサマ」かと勘違いして、挫折を挫折として認められなくなる。挫折は挫折であって、もう「ナニサマ」でも「なにもの」でもない。
◆「わからない」は孤立無援の自覚である
 「わからないけどやる」や「わからないからやる」は、孤立無援の状態におかれている。孤立無援の中にある時、既に人は「なにもの」でもない。「わからない」を「方法」にするということは、他になんにも有効な方法がないからの「仕方なし」であって、それは「覚悟する」の別名である。

歴史からみる日本人

2005年05月22日 16時37分16秒 | 日記・雑談
歴史が好きで、歴史物の本とか小説を読んでいる。
司馬遼太郎の歴史観が好きでよく読みました。最近は井沢元彦が執筆している『逆説の日本史』をよく読んでいます。彼らは独自(あたりまえな)な思考法で歴史をとらえている。司馬遼太郎も井沢元彦もジャーナリストからの執筆の世界に入ってこられたようですね。そのあたりが学者とは違う独自の歴史観をもたれている部分かもしれません。日本人の思考法・行動を考えていく上で歴史から学ぶものは多くあります。それらを踏まえて日本人について考えてみたいと思います。

「わからない」という方法3

2005年05月22日 10時24分50秒 | 日記・雑談
第1章 「わからない」は根性である より抜粋
1 「わからない」という恥
◆「わからない」は恥ずかしい
 著者は、「わからないからやる」を信条としている。「わからない」と「やる」は順接ではない。普通は「わからないけどやる」→「やりたくないけどやる」→「やりたくないけどやらされた」へと思考していく。「わからない」は、普通「やらない」に続く。「わからないからやらない」である。「考えるだけでぐずぐずしている」状態、つまりは「恥ずかしがっている」状態である。
◆「自信」と「恥知らず」は表裏一体
 「わからない」という恥ずかしい状態であるにもかかわらず「やる」→「他人に命令されてしかたなく」へと日本人は思考をシフトしていく。「わからないからやる」が自信のある人間の発言だとしても「恥知らず」のハードルを跳びそこねると「自信ある人」のゴールへたどり着けない。そこで挫折が発生する。
◆二十世紀は「わかる」を当然とした
 二十世紀は、「わかる」が当然の時代であった。自分はわからなくても、どこかに「正解」はあると誰もが思っていた。その「正解」を知らないことは恥であった。だから、競って大学に行き、ビジネスの理論書を読み漁り、誰よりも早く「先端の理論」を知りたがった。
◆「正解がある」は二十世紀病
 二十世紀は理論の時代で、「自分の知らない正解がどこかにあるはず」と多くの人は思い込んだ。既に明らかになっているはずの「正解」の存在を信じ、それをマスターしていく。まずはその「正解」に対する疑問はタブーとし熱心に学習する。やがて疑問が生じれば、「新しい正解を内含している(はずの)新理論」へと走る。つまりは、新しい理論を含んだ情報を追い求める情報社会が訪れるのである。
◆二十一世紀は「わからない」の時代
 「なんでもかんでも一挙に解決してくれる便利な〝正解〟」など、幻想の中の存在である。人は挫折を繰り返す。その度に「わからない」に直面し、その疑問を自分の頭で解いていくしかない。「どこにも正解はない」という混迷の中で二十一世紀は「わからない」からスタートするあたりまえの時代がやってきたのである。

「わからない」という方法2

2005年05月21日 08時08分43秒 | 日記・雑談
○まえがきより抜粋
 「わからない」とは全体像が「わからない」状態である。「わからない全体像」はまとめようがない。だが「わからない」の全体像をまとめる方法が一つだけある。それは、「自分がどうわからないのだろうか?」と考えることである。
 「くだらない」ーだから「どうでもいい」と思って放り投げてしまうのは、それを「わかりきっている」と思うからである。つまりそれは、「わかる」のである。「わかる」は「わからない」を解明するためのヒントである。
 「わからない」をスタート地点とすれば、「わかった」はゴールである。スタート地点とゴール地点を結ぶと、「道筋」が見える。「わかる」とは、この道筋を地図に書くことである。「わかる」ばかりを性急に求める人は、地図を見ない人である。常にガイドを求めて、ただゴールにたどり着くばかりだから、途中の道筋がわからない。だから人に道筋を教えることが出来ない。「わかった」の数ばかり集めて、その実「なにもわからない」のままになってしまう。

「わからない」という方法

2005年05月20日 08時58分25秒 | 日記・雑談
「わからない」という方法  橋本治  集英社新書
いまこの本を読んでいます。
本のレビューには、下記のように記載しています。
『「わからない」ことが「恥」だった二十世紀は過ぎ去った!小説から編み物の本。古典の現代語訳から劇作・演出まで、ありとあらゆるジャンルで活躍する著者が、「なぜあなたはそんなにもいろんなことに手を出すのか?」という問いに対し、ついに答えた、「だってわからないから」。ーかくして思考のダイナモは超高速で回転を始める。「自分は、どう、わからないのか」「わかる、とは、どういうことなのか」・・・。そしてここに、「わからない」をあえて方法にする、目のくらむような知的冒険クルーズの本が成立したのである!』

構成は以下のようになっています。
まえがき
第一章 「わからない」は根性である
 1 「わからない」という恥
 2 「わからない」を「方法」にする方法
 3 企画書社会のウソと本当
 4「へん」の使い方
第二章 「わからい」という方法
 1 私はなぜ「セーターの本」を書いたのか
 2 「わかる」とはいかなることか
 3 ハイテクとは錯覚である
 4 「わかる」と「生きる」
第三章 なんにも知らないバカはこんなことをする
 1 基本を知らない困った作家
 2 天を行く方法ー「エコール・ド・パリ」をドラマにする
 3 地を這う方法ー桃尻語訳枕草子
第四章 知性する身体
 1 この役にたたない本のあとがき
 2 知性する身体

読んでみたまとめを順次していきたいと思います。