おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

戦争末期

2007-08-15 20:44:34 | Weblog

 8月15日,今日は第二次大戦の終戦記念日である。

 62年前のその日、私は、ラジオで重大放送があるからと畑にいる父母に知らせに走った。桐の木の木陰で夏葱の苗を整えていた父は一言「負けたか」と言った。

 名古屋の空襲で、姉と姪を亡くして、死骸を、裏返して探して歩いたが見つからなかったという壮絶な経験をした夫に比べて,田舎では本当に怖いめをしたのは、次に述べる日のことである.

 B29が頻繁に上空を飛ぶようになって、空襲警報も度々発令されるようになると、街中の電灯を消してひっそりしているだけでは、怖いばかりか、危ないと防空壕に再三逃げ込むようになり、名古屋が夜空を焦がして焼け、岐阜もえも言われぬ近さで紅蓮の炎をあげた。その次、各務原の川崎航空が、爆撃される時のことである。

「東海軍管区情報、敵機来襲、敵機来襲」のアナウンスに、居ても立っても居られぬ怖さに街中の人が少しでも、人家の無い所へと逃げ始めた。私の家でも乳母車に1歳の弟と4歳の妹を乗せ,その両側に6歳と8歳の妹が、つかまって歩き銘仙の標準服を着た母と私が、並んで押して林の近くまで来た時、5人の防空頭巾の結び目を確かめた母は、突然「お父さんは消防団長で、町内を守らんならんで、母さんは家をみに帰るわ。お姉ちゃんは皆をはぐらかさないように大人が行かれる方に行くんやよ」と言った。「お母さん爆弾に当たらんように行きゃあね」気丈な私は11歳であった。一瞬のできごとである。本当は、そんなのありいの心細さであった。

 B29の轟音は耳をつんざき生きた心地もしない。高射砲の照明が低空飛行を何機も浮かび上がらせ、異常な明るさに乳母車の二人は、わけも判らぬまま、興奮して、きゃっきゃっと、飛び上がって喜んだ。私の記憶はそこまでで、帰ったときの様子が、どうしても思い出せない。

 明けて次の日、町には焼夷弾ひとつ落とされていなかった。

 俳句 * 読経の音に負けまじと蝉しぐれ

    * 何事の不思議なけれどちちろ鳴く

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