高校3回生の、親しい者達で、その仲間の内の一人の軽井沢の会社の保養所で、久しぶりにゆっくりしようと言うことになり、つくつくぼうしが、鳴きたてる暑い日にこちらを発つた。
岐阜迄バスが、迎えにきてくれて母校のある故里で二十余名になり、出発した。
運転手さんが二十年前の人というのも、笑える。え、何でこの歳で小学生唱歌を、と思うのだが、幼稚園から一緒の方も居るのだから、仕方ないか。配られた譜面を見ながら「我は海の子」等何曲も歌ったり諏訪大社に寄って、茶店でところてんを啜ったりして、のんびり宿に着くと待ち兼ねた東京勢に将棋で捕まる男性が居たりした。
宴会の初めに今年亡くなった二人にしばし黙祷を捧げた。企業戦士であった彼らに、私は心の中で「ああ玉盃に花受けて」と一高の寮歌を歌った。
このごろでは、お酒の種類も選り取り見取りで、マイお酒に、わいわいがやがや、と、小泉さんを語ろうと誰かが言い、いやもう余生、ヨセーイと誰かが言った。何と百三十名の一割五分もが他界した。
おむすび持って応援に行った野球の県大会のエースであったMさんが、Yさんに手を引かれている。脳梗塞で倒れたのらしい。この人と実に良く幹事役を勤めてくれていたKさんも昨日まで、腰痛でうなって寝ていたのだそうな。メンバーの手前それを隠して、バスから棒を出して垂れ下がっている木の枝を持ち上げて通路の確保をされている。もうぼちぼち同窓会も締めかなあ。
白糸の滝や鬼押し出しで写真をとったりしたが、今回は白根山へは行かなかった。楽しかったのは、高原文庫へ行ったことである。立原道造の碑の後ろには、あざやかな緋の水引草が、堀辰雄の家は、暖炉が目立ち、野上弥生子のそれは瀟洒な外観であった。遠藤周作は、この中では亡くなったのが、近いせいか、とても書籍が多く有島武郎の自殺した部屋は、今は公開されてなくて、ロッジがカフエになっていた。ここで、お茶を頂いてしばらく寛いだ。
三日間はあっけなく過ぎて、軽井沢銀座や、アウトレットでお買い物をして、故郷へ帰り、虫がすだく実家へ寄り一晩泊まって、次の日、日進へ帰って来た。
二00八年八月
俳句* はらからと泳ぐ大川雲の峰
* 夕焼けの色尽くるまで立ち尽くす