おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

インタビューに備えて

2024-07-09 14:55:27 | Weblog

  市の交流施設「にぎわい交流館」でだしているニュースの編集者から「集まれ九十代、シニアライフをアクティブに」というテーマで九十歳代の四人に思い出話を書くよう依頼して来ている。
 え!何で私が、と断っているのだが、十個の質問事項の内一つ二つ答えて,役逃れをすれば良いのかとこんな記事を書いてみた。 
  一週間程前に朝ドラの「虎に翼」を見て居たら、終戦直後戦後の街の場面で、傷痍軍人が地べたにお金をいれて貰う器を置き、ペタンと座り込んで居た。そこへ、「伊藤久雄」の
      「あああーあの顔であの声で
      てがら立てよと妻や子が
      千切れる程に振った旗
      遠い雲間に未だ浮ぶ」
  の曲が流れ、思わず涙ぐんでしまった。
 私が、小学三年生の十二月太平洋戦争が始まった。若い人達は次々と出征して行ったが、戦線は後退するばかり、小学生と言えども安閑と勉強していられなくなり、校庭を開墾して甘藷を植えたり、川原に稲を植えたりした。薪は背板に背負って何度も山から下した。
  終戦になったのは女学校一年生の時で、その時に今言う新制高校になった。
 マッカーサーの指令とかで、習字の教科書が黒塗りになつた。新憲法が発布されたが大人のようにすぐには、切り替えができなくて悩んだものである。 卒業して、台頭して来た繊維の会社「片倉」に入社して五年五か月勤務した。
  地主だったり庄屋であった実家とは正反対の商売やの雑貨問屋の次男に嫁いだ。
 支店から独立するのと新幹線が出来るので立ち退きを迫られるのとが、同時にになり商売を閉店してしまった。
 日進町の「稲穂」と言う喫茶店の主が我が家に居た人で主人に営業職の話を持って迎えに来てくれたので何も知らない「日進町」に引っ越しをしてきた。
 営業と言えども夫の苦手な工事の仕事で不向きであった。子供は、五、六年の小学生二人さあそれからが大変。私は「生命保険のセールスウーマン」となって働いた。
  夫婦懸命に働いて、二人の子供と孫が五人、曾孫も五人と言う今がある。
  廃業したころであったか名古屋市東区の日蓮正宗の「妙同寺」へ家族四人で入信しに行  
 った。今までに主人を送り、墓開きもして行く行くはわたしもそこに入る。
藤枝に創価学会文化会館が建つまでは、他町村まで試験に行ったりして助教授補の資格も持っている。
  九十一歳の今、俳句はにぎわい句座の主宰をし、綺羅句会にも所属している。インド館のエッセー教室は二十年にもなり、ブログは、「おにゆりの苑」のタイトルで、二千七年から気が向く程度に書いている。毎月曜日にはデイケアへ通つている。1日1日せいいっぱいはつらつと人生を終えて行くつもりである。 
  自宅のある竹の山一丁目には、くるりんバスやシルバーカーが通らないので、市内に住む娘が、買い物と医者巡りの手助けをしてくれている。 

                     (二千二十四年七月十日)                           
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