おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

紅葉を見に

2023-11-05 15:48:51 | Weblog

 十一月一日娘が私と孫と曾孫を名古屋市と東部広陵地帯を結ぶ猿投グリン道路を走り「稲武」へ紅葉を見に連れていってくれた。
夫の生存中は、きんせん閣、藤岡温泉、猿投温泉、香嵐渓、などとよく出かけた道で、その頃は「又こちら方面?」などと苦情を言ったりしていたが、亡くなって二十年もたつと道の両側の木など随分丈が高くなっている。
 私の記憶にある稲武の「どんぐり温泉」は田んぼの中にポツンとあって、一泊したその頃同行した四人で翌朝、羊の毛狩りを見て周ったり山椒の実を取ったりして散策したものだが、今回の稲武の大平高原は「風のつり橋」など名倉川一帯を占める紅葉の名所である。
 つくやら先ず駐車場のある名倉川沿いの何本もの赤く染まった紅葉を眺めてその先のつり橋を一周し、川の水の峻烈なのをのぞいたりした。二つの大きな芝生では弁当を開いたり、夫婦もたれかかったていたりする人達もいた。曾孫はこの芝生を這ったりベンチにつかまり立ちをしたりしてご満悦である。芝生を取り巻く「どうだんつつじ」は深紅のじゅうたんのように圧巻である。そこから見る「大井平公園」の山は、寒暖の差があるせいであろう、色つき始めた紅葉は赤はもみじ、黄色は、いちょう、緑なすこれからの葉とグラデーションが見とれるような近景で三人とも、携帯電話を出してじゃんじゃん写真を撮った。十一月中の土日は「どんぐり広場」から「大平公園」までシャトルバスが出るとのことであった。
 どんぐりの湯を下に臨む道の駅の食事処に移り鮎の塩焼きや、栗ご飯、焼き肉、ラーメンなど、思い思いの昼食を楽しんだ。十二月に一歳の誕生日を迎える曾孫も弁当箱のものをスプーンでおいしそうに食べさせて貰っていた。隣接する道の駅で土地の物を土産に買い、ほうらいせん吟醸酒工房に寄った。私は仏前にと上撰のちいさなお酒を、二人はそれぞれの旦那の好みの物を、相談しながら丁寧に買っていた。
 紅葉に心を残しながら車に乗り込み一路日進に帰って来た。私は曾孫のベビーカーと並んで初めて車椅子なるものに乗せてもらった。そのせいか、ちっとも疲れず、雲一つない好天の秋空の輝くような「ももじ狩り」を堪能した。今年も早々に有難う。

           独り居の一汁三菜鰯焼く
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くるりんバス

2023-10-07 07:31:14 | Weblog

日進市内巡回バス、いわゆる「くるりんバス」は、私の住む竹の山一丁目は走っていない。
高齢者になって、配布される無料パスは有り難い事であるが、岩崎線は、六百メートル先の「ブロンコビリー」の前にある「竹の山中」のバス停まで歩かなければならない。週一で、デイケアへ送り迎えの車で通う私が、杖をついてえっちらおっちら歩いて着くと、日中九便の内四便は黒い線が引いてあって、尚次のバス停まで行かないと乗れない。
 今迄何度も役所へ陳情したが「だから名鉄バス停を学院前に設置してあげたでしょう」と言われる。
こちらは二百メートル歩けば、「赤池、長久手」間に乗れるが有料であある。このバスは瀬戸大府街道を真ん中にして西方面を廻って岩崎で元に戻つて市役所方面を通る。乗車時間はどちらも三十分足らずである。
 西方面を廻って来たくるりんバスは折角乗ると高速道路の下まで進んで東のグリーンハイツへ廻って岩崎の辻迄出たかと思うと「御岳」や「小林」「岩崎橋」を,通り「藤島」へ廻ってその公会堂をすぎて、「本郷」からやっと始発の日進市役所へ着く。
 私は月に三回以上句会やエッセー教室へと、この近くの交流館やインド館まで出かける用事がある。
 タクシー会社にお金を供託してあるので、呼んだりもするが、五、六分で行ける距離なので、遠慮もする。昔のように走っているタクシーに手を上げて留めていた時が懐かしい。
 今のところ定年した娘が折戸藤塚から私の為に足をしてくれているが南と北の往復では、(スーパーへも)気の毒である。
 この間ホットカフエに顔を出した市の副議長の話では「来年は道の駅とシルバーカーの設置を考えています」との事であった。この集会場も今のような立派な福祉会館がなかった頃、古参者の我々が二万円ずつだし合って建てたところである。ここへも、二分間で着くが帰りは通らない。
 くるりんバスは反対車線を走らないので次のバスが来る迄、一時間以上待つことになる。
この先免許証を返納する人が増えると足に困る人が多くなるであろう。
 この4年間の時刻表には難儀をさせられた。
 
 
       俳句   ガラス戸の蛾に覗かれし隠し事




 
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想い出

2023-09-09 15:48:49 | Weblog
  俳句の"先生がブログに、先日Ñℍkの風の盆の中継を見て三十年余り前に仲間と連れ立って「おわら風の盆」を見に行ったことを懐かしく思い出したと書いていた。その時会場を走り回って撮ったと言う写真がブログに掲載されていた。その写真は美術展でも入賞した。私はブログの文章にも写真にも感銘を受けた。
 ならば私もと(2011年)にブログに載せた事があるので、同じように探したら文章があった。旅行社のツアーに一人で出かけた時のものである。
 向こうについて、先ず初めに八尾八幡社では、丁度胡弓の音につれて踊りが始まったところで哀調を帯びた音色が、夜空に消えていき編み笠を被った若い女性が手を差し伸べ腰を振り叙情豊かに気品高く唄に合わせておどり、法被姿の男性や童もついて廻っていくのが見れた。
 何箇所もの踊り会場を見て廻るつもりが次の十三石橋でおねりの行列が来るのを待っていると雨が降り出した。二百十日の初日で踊りは中止になってしまった。
 車中泊のバスは下呂方面から翌朝六時前に名駅に着いたと言う何とも悔しい一人旅であった。
 夫の姉が主人が富山の人なのに行った事が無いというので次回は泊りがけでと約束していたが、亡くなってしまった。
 歳をとって足が利かなくなると、氏と言い私もこうして前に行った所を思い出して懐かしむものらしい。
      
    俳句   せつせつと泣くが如くに風の盆
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  イベントめいて

2023-08-16 07:30:28 | Weblog

 夏真っ盛りイベント並の忙しさ。
 毎年この頃には原爆の日(八月六日、広島、長崎忌、九日)が、めぐってくる。今年は投下から七十八年目とあって、新聞もテレビも、にぎにぎしい。
 十三日からは、お盆である。
誕生日に当家で「卒寿の祝い」をしてもらったのに、嫁いだ娘から十一日に、墓参りと「卒寿祝い」をさせてといってきた。
 当日真夏日の中、娘一家は夫の実家の墓参りを済ませポルトガルから里帰り中の、ひ孫二人とと共に車二台で我が家に来てくれた。
はやばやと盆提灯が両脇にならんでいる仏壇に、お供えをして線香をあげて手を合わせた。このあと、私を乗せてここの家の墓参りに行った。ひ孫二人も甲斐甲斐しく桶に水を汲んできて墓を洗ったり立派な鬼灯の入った花をいけたり、すっかりお盆らしくなった、
 十三時半に「木曾路」が予約してあるからそこにとそこに着くと、ひ孫の小さい一家が、待っていて九人になった。
 「卒寿祝い」の始まりである。
ここでも紫色の羽織を着せられて皆で写真を撮った。乾杯をして「祝いの言葉」を戴いた。つと前に目をやると、ひ孫二人が大人しく掛けている。とっさに、
 「大ばあばあが、あなた達と同じ年頃、小学校三年生の時に戦争が始まってねー。激しくなって来ると川原の開墾や校庭の開墾をして、食べるためのサツマイモを植えたりしたわ。体操の時間は竹槍の練習ばかりだったの。新校舎には、兵隊さん達が住んでいて、張り倒されたりバケツに水を入れたのを提げて立たされたりしていたわ。大じいちゃんも昭和三年一月生れだから免れたけど同じ学年の昭和二年四月生まれの人は、兵隊検査を受けたり、予科練に志願したのらしいよ。それでも戦争に負けたの。今はそんなことのない良い時代ね。」と言ったらだまって頷いた。「こんな良い時代が續くようにと祈ってます」と言って結びの言葉とした。「おばあちゃん元気で長生きしてね」と孫二人が声をあわせて言った。  ありがとう。

      日盛りや高齢なれど足強し
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 ふわーと転ぶ

2023-07-13 16:07:28 | Weblog

 パソコンの「八月度の句会」の一斉メールの欠席届を言ってきた人に返事を流し、窓の外を見ると昨日の夕方から降ったりやんだりしていた天気が、どうも雨間のようである。ならば明日はゴミの日だから早急に大袋に入れましょうと、日課にしている一メートルずつの草かきをしながら進んでいくと黄色の花がある。
 何と、何と麗しい黄色の花が草搔きに、ついてくる。その先を見ると、これまた立派な茗荷があちこちに芽を出している。喜んで右の手で掴んで採り左手で受ける。その先の一つに思いきり手を延ばした途端にずっこけた。うつ伏せで、左のこめかみをしたたか打って音までした。起き上がれない。このままなのかと一呼吸おいて、ひっくり返って起ちあがった。
 今朝、雑誌で、世の老後不安に応えベストセラーを連発している樋口恵子の「老いの大冒険に挑む日本の高齢者よ胸を張れ」というコラムを読んだばかりである、
    「長寿は平和の賜物」
    「本物の老いはふわーと転ぶ」
高齢者が要介護になる要因は原則別でみると、男性は脳出血、脳梗塞、心臓病、などの循環器系が多く要介護の原因の三割、女性は手足の骨折、転倒、骨粗しょうという運動器の障害によるものが三割と、男女別ではっきりしている。
 茗荷大好き人間の私も、手や足が震えて来てその先を続けるわけにはいかなかった。ラーメンに八個の内の大きい一個を入れ、夕べの残りの握り寿司の三個とその他のおかずで昼食をした。三時からはテレビで相撲、七時からは夏木いつきの番組を見なければならないので、続きの作業は夕方にすることにした。
 髪の左の生え際にサロンパスを貼って、家の中でも帽子を被っていた。腕も膝も打ったところが少々黒死になっている。
 今日採らなければならない茗荷は後何個くらいであろうか。十個ばかりではない気がする。とんでもない「ヘロヘロ」の顛末であった。

          嫁がぬを語らぬ親子原爆忌   淑子



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からおけ

2023-06-09 17:27:53 | Weblog
デイケアも二年半ともなると少々飽きてきた。
そんなある日、責任者のTさんが、午後のリクレーションの時間に私に「からおけ」を、指名して来た。「えっ、歌のうまい夫が、糠味噌が腐るからやめとけ」と言って歌わせてくれなかったから、歌えないんですよ」と言っても内心では二十年ぶりに歌ってみたかった。とっさに
高校生時代混声合唱ではメゾソプラノだったからと、思い「氷雨」を一緒に歌ってくれるならと言うと「その歌ならいつも親に歌わされていたから」と快く承知してくれた。孫のような彼と歌ってみると、心が高揚した。週一のデイケアも悪くはない。
 地区の介護士さんから、「更新の書類に署名を貰いに老健へ行くから」と電話があり「担当の方などに、約束が出来て四、五人で二、三十分会合になるよ」との事、ならばと私も考えた。泊まり込みの人の、二階を見たいから、介護士さんに頼んでくれるように言って見ようと。独り住居の私、重い人の居る二階を見て置いても悪くはないと思ったのである。現にエッセー教室で一緒のТ氏の母様もここにいて、亡くなられたと聞いた事がある。
 今私は毎週一回月曜日に朝刊を鞄に入れて杖をついて子供が学校に行くように通っている、自転車漕ぎから始まって、関節可動域運動、全身調整運動、歩行練習など器械体操、その他をして一人一槽のきれいなお風呂に入れてもらって昼食になる。
 午後は頭の体操のパンフレットが配られたり生け花をしたりその日のスケジュールで「からおけ」も二、三十分入ることがある。
 連れ合いを亡くすと近所にも遠慮をして歌を唄うような大きい声を出すようなことをシャットアウトしていた。音域が低くなりバスかアルトのような九十歳、携帯電話で練習出来ることを知った。亡くなった母の「長良川艶歌」の調子外れを笑っていた私が「奥飛騨慕情」とか「旅の終わり」がカラオケできるようになるであろうか。ちょっと楽しみになって来た。

      俳句  梅雨入りして午後のデイケア歌唄う


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 少 子 化

2023-05-23 21:02:13 | Weblog

 最近、少子化が進んできたので、政治も対策にのりだして、取り上げるようになってきた。
特に保育関係では保育士のなりてが不足しているらしく、それに伴って不適切な保育が、ニュースになり、その現実や、調査結果が新聞に載ったりテレビで放送されたりすると、保育園が安全地帯だと思っていた子育て中の親は悩んだりする。
 送迎バスに置き去りにされて亡くなった例もあった。
親自体が過保護に育った年代なので、心配すること大である。
 ちなみに八十年以上も前の私の幼稚園の時はと思いだしてみると、弁当の時間他の子のように、さっさと食べきれず昼休み中食べさせられていた。𠮟られないので、こちらは弁当箱の御飯を、一粒一粒、要らないものは要らないと」言わんばかりに口に運んでいて先生に「ほらご覧一時間も経っていて次のお稽古の時間になってしまったじゃないの、もうやめて鞄に入れなさい」と言われたものである。
 こちらはSちゃんとブランコに乗れなかったなあと思うだけで恥ずかしいとも思はずに家に帰って親に言うと、次の日は好きなパンを持たせて貰って意気ようようとしていた。
 それにしても先生が脅迫的な言葉をかけたりしなかったので今取り上げられるような不適切保育とは、ならなかった。
 やがて戦争が始まると小学生の弁当を持って来れない子に先生が自分の持って来た弁当を陰で与えていたりした。
 今私の孫の一人が保育士である。自分の子育てに三年も休めるそうな。イクメンパパもありの時代である。
 大切に育てた子が戦争で消耗品のように命をとられることのないようにみんなで守って行きたいものである。
                                            
俳句  戻り寒テレビニュースに腹たてて
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花 行 脚

2023-04-16 18:08:17 | Weblog

 今年の花見は娘の車で行けた。
今日が満開と言う日、古戦場、五色園、岩崎川、御岳山、と廻ってくれた。いずれも前に行った処ばかりなので、思い出と共に、余計関心が湧く。
 古戦場は裏から廻るとちょっとした野球場の先に大きく枝を広げて花時の木がまばらに四五本ある。「降りる」と言われて車を出ると子供達の先客が何組か遊んでいた。ひとひらも散りはしない初々しい色合いの可憐な桜の木をカメラに収めた。
 次は五色園コロナの前に俳句の吟行をした、宗教法人の山々である。従って何体もの仏像が、そこここにある。今はあのような花見をしなくなったが三十年程前には人でいっぱいの広場があった。
一緒に連れていった男の孫が何処ではぐれたのか、上の広場の人混みの中を、「しゅん君のおばあちゃん、しゅん君のおばあちゃん」とわめいて探していたのを思い出す。娘の家の女の孫二人もビニールシートで、お団子を食べたりしていたが、うち孫がこんなにしっかり、はっきりしているとは、初めての発見でびっくりした。今大人になって、今そこへ自分の子供二人を連れていっているだろうか。自宅はござらっせの近くだから遠くはない。岩崎川の桜並木を通ってその西の山の日進の御嶽山へ行くと不思議な事に何処もちらりともしなかった桜が風のせいか弱い花吹雪である。娘が「うわー」といいながら
降りるかと聞いたが「ううん」と車の中から眺めた。去年は降りて枝を手に携えたのであった。
 年々歳々自分の体に自信がなくなって行くが娘のお陰で今年も花見を堪能出来た。
満足、満足、あと四五日で花の雫と共に消えていくのであろう。雨が近いとの天気予報であった。
        マスク無くカラオケに酔ふ花の茣蓙

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卒 寿 祝 い

2023-03-19 18:08:15 | Weblog

 三月一日、私の九十歳の誕生日を祝って土曜日に息子一家が長久手の「梅の花」で、卒寿の祝いをしてくれた。息子の車に同乗した私達女性陣が先につき、やがて男の孫一家四人が来て着席すると、息子から祝言の一言があって、私が、答辞を立派に言えば良かったのに、「年は待ってくれませんので九十歳にもなりました」と言っただけで、黙っていた。「一生よく働いてもらった」と言うフォローがあって、ひ孫に至っては二人ともハガキを書いてくれていたのに、読み上げず、私に渡した。座ったまま何か背中がごそごそすると思ったら、紫色のちゃんちゃんこを着せられ頭に帽子まで乗せられた。家族九人健康である。早くに逝ってしまった夫と比べると私は幸せ者である。写真を撮ってもらい懐かしい顔ぶれで豆腐懐石が始まった。
 ゆばは、鍋,肉は石で焼き、魚は極上の鯛、等次々と運ばれてくる。
 女性の孫二人の主人は民間の会社なので土曜日でも仕事らしく来られなかった。息子も孫も三月で人事異動が、あるらしく、それなりに話もはずんで、出てくる料理はどれも美味しかった。
 本人の私が忘れ勝ちだが、還暦には私が句集を出し、古希と、喜寿の祝いは赤池の「あさくま」でしてくれ立派な花瓶をもらった。傘寿は名古屋の「ホテルオークラ」で娘一家がしてくれ、米寿はポルトガルへ転勤する孫の送別を兼ねて長久手市の「喜多のや」で娘の家族が、おこなってくれた。そして今ここの「梅の花」の卒寿である。
 孫一同で高級パジャマやら花籠、この店の「豆腐セット」(これはそれぞれの家族に)を持たせてくれて、そつがない。
 写真と一緒に持ち帰った、ひ孫二人のハガキは、「おたんじょうびおめでとう。もう九十歳だね。いつもおおばあばの家にいったら、いっしょに遊んでくれてありがとう。すっごくうれしいです。すっごく元気がでて、すっごく楽しいよ。これからも元気でながいきしてね。おうえんしてるよ。大、大、大、大、大、大、大、すき、あおい、しおり。」
 と書いてあった。私がそれ相応のお礼の挨拶をしていたら、ひ孫らはその場で読みたかったろうにと反省している。

    紅梅の卒寿祝いて咲きくれし    淑子

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  終   活

2023-02-21 12:26:19 | Weblog
       
 期せずしてこの冬に妹夫婦が亡くなった。
妹は一番上の私を筆頭に六人兄妹の上から三番目で「お姉ちゃん、お姉ちゃん」とよく慕ってくれていた。
 妹とその夫は別々の病院に入っていた。そのうちに見舞いに行こうと思っていたのに、夫は十二月に妹は、この一月に亡くなって弔いも終わっているとの事。最近は家族葬が流行っていて私には、連絡がなかった。
 私は岐阜県関市が故郷で、彼らの家も又、市の本町で、「電器店」であった。最近はシャッター通りになっていたが行く度に向かいのうなぎや「辻屋」」へはしょっちゅう誘っていた。
 幼い頃から兄弟姉妹の中でも一番の資格マニアで私達が遊んでいる間でもせつせと、いろんな塾へ通っていた。結婚前に実家で編み物教室をしていた頃は、名古屋へ嫁いだ私の家族の面々は何枚ものセーターを編んでもらっていた。
 私の子供二人が結婚する時の電器製品は全部この夫婦が運んで設置してくれた。
 私の家へ来れば河和へ、関市の実家へ行った時は母や兄妹を誘い併せて、白川郷や高山へ連れていってくれたりと楽しい想い出がいっぱいある。
 この一か月重い石が胸にどかんと居座ったようで暗い気持ちでいたが、こうして少しでも書いてみると私の兄妹にまつわる人生は終わったと思えてきた。六人兄妹下から順番にあの世入りして、もう後は尾張旭市の老人施設へ入居しているすぐ下の妹と私の二人だけである。春になったら亡くなった兄妹の墓参りをして歩こう。
 私の終活はこのあたりから本当に始まると思えてきた。

    俳句   週一で通ふ老健春隣り
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