おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

  終   活

2023-02-21 12:26:19 | Weblog
       
 期せずしてこの冬に妹夫婦が亡くなった。
妹は一番上の私を筆頭に六人兄妹の上から三番目で「お姉ちゃん、お姉ちゃん」とよく慕ってくれていた。
 妹とその夫は別々の病院に入っていた。そのうちに見舞いに行こうと思っていたのに、夫は十二月に妹は、この一月に亡くなって弔いも終わっているとの事。最近は家族葬が流行っていて私には、連絡がなかった。
 私は岐阜県関市が故郷で、彼らの家も又、市の本町で、「電器店」であった。最近はシャッター通りになっていたが行く度に向かいのうなぎや「辻屋」」へはしょっちゅう誘っていた。
 幼い頃から兄弟姉妹の中でも一番の資格マニアで私達が遊んでいる間でもせつせと、いろんな塾へ通っていた。結婚前に実家で編み物教室をしていた頃は、名古屋へ嫁いだ私の家族の面々は何枚ものセーターを編んでもらっていた。
 私の子供二人が結婚する時の電器製品は全部この夫婦が運んで設置してくれた。
 私の家へ来れば河和へ、関市の実家へ行った時は母や兄妹を誘い併せて、白川郷や高山へ連れていってくれたりと楽しい想い出がいっぱいある。
 この一か月重い石が胸にどかんと居座ったようで暗い気持ちでいたが、こうして少しでも書いてみると私の兄妹にまつわる人生は終わったと思えてきた。六人兄妹下から順番にあの世入りして、もう後は尾張旭市の老人施設へ入居しているすぐ下の妹と私の二人だけである。春になったら亡くなった兄妹の墓参りをして歩こう。
 私の終活はこのあたりから本当に始まると思えてきた。

    俳句   週一で通ふ老健春隣り
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令和5年の正月

2023-01-24 15:38:51 | Weblog

 暮れに玄関のしめ縄をつけに来てくれた息子が「正月に子供達が来て賑やかだから来るように」と言ってくれたが既に娘と約束していたので、娘の家で元旦をむかえた。年越しそばから始まって雑煮や三段重のお節料理や、すき焼をしたりして.からおけもたのしんだ。
 近くの家のひ孫を見に行ってここでも、お呼ばれをした。二千八百gの体重が一週間でずいぶん増えて名前は海惺(かいせい)であった。
 二日には箱根駅伝をみた。携帯電話に、直系の男の孫から「三日に家族でばあちゃん家へ行くよ」とメールが入った。
 三日、「お節料理にはもう飽きた」と言うこの家族と「はま寿司」へ行った。ママは愛知医大の保険師で夜勤なので、小学生二人のひ孫とオセロゲームをして遊んだが二人ともなかなかだ。
 七日は姉妹の孫が稲沢と上社からそれぞれの夫を連れて年始の挨拶に来た。パソコンでゲームをするようなこの人たちと百人一首をした。「積年の恨みを晴らさなくちゃ」と言いながら私の場合読み人を兼ねてとるので今年も又負けた。
 十日お決まりの「にぎわい句座」を新年会兼ねて「やじろべえ」で行った。当月句を三句と席題一句である。席題は「箸」で先生の達筆が張り出された。これは全員が投句して全員が一句を選出するのだが入選したので当月句が振るわなかった私は面目が保てた。
 今年の一月は夫の十七回忌に当たるので、息子と娘と私の三人だけが、日曜日の十時に我が家の仏間で私が導師をつとめてねんごろにお経をあげた。その足でお墓へ行って花を供えた。「精進落とし」は娘が「にぎり長二郎」を予約して置いてくれたので、三人で夫の在りし日の事など話し合いながら回忌法要を終えた。
 今年一年予期せぬ事が起きないよう、そこそこ丈夫で過ごせますようにと願わずにはおられない。  
      大旦や箸新しく揃ふ顔    淑子





















  
      
     


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  年 賀 状

2023-01-05 07:55:23 | Weblog
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 ひ 孫

2022-12-30 06:54:42 | Weblog

  保育士をしている 三十代の孫に子供が生まれた。この孫にとっては待ち望んだ最初の男児である。
 私にとつては、あちこちで五人目のひ孫である。
 退院してきたので、お祝いに行くからと車で二分先の孫娘の家へ娘夫婦が誘ってくれた。今迄コロナ禍で見舞いが駄目だったのらしい。大変な難産だったとの事。
 何とまあ可愛い2850gの宝物を、いつしょに行ったおじいちゃんが、さっそく抱いてゆすっている。もうおしゃぶりのように袖口をなめる。
 私は落すといけないから遠慮をした。
その内に泣寝入りをしたので、赤ちゃん用のベットに、そっと横にして、大人五人で仕出し弁当にノンアルコールの祝い膳となる。
 孫は無痛分娩で申し込んであったのに、帝王切開寸前迄行く大変さだったとまくし立てる。私は
此の孫の母のことを、予定日過ぎて十日にもなるのに、生まれないので私の実家から私の母が、
付き添いに来ていた途中で一度岐阜の家に帰ったこと等を、男性が二人いるにも関わらず話して
飽きない。母は私を十八歳で生んでいる。わたしは二十四歳で生み、娘は二十八歳でこの孫娘を生んでいる。
 母胎の若い時ほど安産のような気がする。
 孫の婿殿が丸いケーキにナイフを入れ出したので、その日がクリスマスだと気が付いた。ダージリンやら、コーヒーやら銘々好きな飲み物で赤ちゃんを寿いだ。
二時間後の四時頃迄眠るのであろうか、まだ泣き声は立てない。
 この孫娘の姉に写メールをしても返事が来ないと思ったら、ポルトガルにいるこの一家は一年生の子供(曾孫)とその下の子どもを連れて旅行中であった。
 この姉さんの子供のようにすくすくと育って欲しい。


     俳句   曾孫生る十六年振り今朝の雪
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新川・清須

2022-12-03 13:13:23 | Weblog


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 「行きたい所があったら乗せて行くよ」と娘、
 「方々へ行ったから、もう行くところが無いわ」と私
 「あった、あった、清須城を見に行きたい」と言うと今日の運びとなった。
六十年程前に、営業していた家は、新幹線が通るので、駅西を再開発しようとの市の計画で立ち退きに
あった。引っ越しの手伝いに来た岐阜県に住む父が夕飯の時、
 「家を建てて越すくらいでないとね」と私に言った。
町で何番目と言う程の素封家の父からしたら考えられない事であったのであろう。
それから住んだ清須の三年間は今から思えば大変な時であった。
 新学期まではと今迄住んでいた中村の小学校へ行く子供をバス停に送ったある日、その前の「キリンビール」
のパート募集の張り紙に、ふいと寄ってみると採用になった。椅子に掛けて前をコンベアーで
流れて来るビール瓶の選択をして悪いのを取り出す選瓶の仕事であった。休憩時間は正社員の
方と卓球をしたりして楽しい職場であったのに、半年交代で会社は二度目は使はなかった。
 その折の同僚の紹介で愛知時計や金門の部品を造る製作会社の事務員として三年ばかり働いた。
ここから万博に行った覚えである。お城はまだ建っていなかった。
 思えば、日進市に定住するようになって半世紀あまり一度も訪れた事がない。
当日心躍らせて、娘夫婦と妊娠十ケ月目の孫との四人で同乗して行った。高速道路を走れば早い
もので、一時間程で着いてしまった。ここがよく使ったうどんや、医者、橋などと説明してくれる
が、今浦島もいいところで私の頭に描かれている田舎町とは全く違ってごたごたした大きな町である。
 キリンビールの見学もセットしておいてくれたらしく、当日八人の若いグループと私達四人の観客
の十二人をマニュアル通り丁寧に案内してくれた。終わりはビールの試飲で、柿の種のおつまみも
出た。その二階から西北を眺めると、門のあたりに僅か昔日の名残が、あった。それにしても広い場所
を獲得して大きくなったものよ。西の塀を南へ回ると小川に添って我が家があつたのに、今は会社の敷
地内である。「さがみ」で昼食をしてさあこれからが斜めの草の囲いを子供達が滑って喜んでいた本番の清須城である。
先年彼らと犬山城へ行った時には急な階段でも上まで登れたが、今回は駄目。
下で待っていると言ったら取りやめになってしまった。
 私1人が内心濃尾平野を俯瞰してみたいと思っていたのらしい。
それでも正面には朱塗りの橋が掛かっていたり、空に天守閣を見たり、紅葉を背に並んで写真を撮った
り、もともとは徳川家康が清須越しをしたと言う史実の街で、満足、満足の一日であった。

     俳句  冬カメラまだかとブルーインパレス
   
 
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日進市医療健診

2022-11-10 13:25:45 | Weblog
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/44/c61890575206865063c7839f66012e9d.jpg" border="0"><strong><span style="color:black;"><span style="font-size:24px;"></span></span></strong
  75歳以上の方、年に一度必ず受信してください。「病気の重症化を防いで、健康長寿」
 の封書が3冊にもなったので、」集団検診を受けることにした。
  老齢症候群の例、体重減少、筋肉量低下、摂食障害、嚥下障害、視力障害、難聴、うつ、
 貧血などとある。
 申し込んで日時の決まってからが大変、便を二日にわたって小さな容器に収め、尿は当日
 とった。問診票には、おびただしいチエック項目が、〇囲、〇☓、☑☒ などとA4用紙、
 見開き満杯裏表。
 当日娘が病院へ乗せて行ってくれた。受付から始まってスタッフが大勢、来客も大勢、流れ
 作業よろしく順調に事が運ぶ。検診用の衣服に変えて熱を計り血圧も計って番号札をもらっ
 て待つ。番号を呼ばれて診察室に入り問診を受けて女性にエレベーターへ案内されて二階に
 上がる。バリュウムを飲み検査台に横になりぐるぐると体を回らされて写真を撮られる。
 結果は20日くらい後に郵送されてくるとのこと。10時半には終わってしまった。
  結局市外の主治医で毎年行っていることと何ら変わらないことを診察室を変えながら行った
 にすぎない。けれどまあ医療費2倍になるところを市内で済ませて無料だったので良しとするか。
  今私の一番やってほしいことは、物の名前を幾つか上げて、何分間か後に何個覚えていたか
 というこれもフレイルに入る検査である。娘に電話をして待合室にいると「あれ水谷さん」
 ととびきりの笑顔で挨拶をしてくれた夫婦が、誰だったかさっぱり思い出せない。
  11時半、開店の「八兵衛」で二人で昼食をとろうとしたら、また友達大勢と一緒の方に挨拶
 をされるので、今度は「どなただったかしら」と言うと笑ってマスクを外されたら老人クラブ
 のKさんだった。今年の老人医療健診は終わった、
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慟哭

2022-10-26 13:45:12 | Weblog

  もう一人の自分が、人知れず心の中で慟哭している。
私とは、ひと廻り年の離れた弟が七十七歳で亡くなった。当節流行りの家族葬の連絡が私にあった。姉妹は六人兄妹であったが今はもう三人で姉妹の一人は養護施設に、もう一人は病気入院をしている。
人ずてに家族葬というものを聞いてはいたので、その覚悟はできていたが、私が悲しむのは、その葬式から三か月足らずの内に、母屋、蔵二つ納屋、離れ、車庫、道具部屋、など、六百坪位にあたるもの殆どを壊したことである。
 我々の、実家は幕末から続く旧家で、当主の弟は十六代目くらいで、家は百二、三十年経っていた。死んだら家を壊すと言っていた事を何で弟にしつかり聞いておかなかったのであろう。嘉永からの菩提寺のお墓もまとめてもらったそうである。
 いまさら「そうか、そういう事なんだ。実家は、建て替えたり、移転したり、壊すこともあるんだ。」と認識したような訳で、名古屋の
伯母の息子(九十一歳)からは、どこで聞いたのか、私を労わる手紙が届いた。お互い所帯を持ってからは、それぞれが、
自分たちの生活に一生懸命であったと言える。私も夫と共に懸命に生きてきた。
 夫の六人兄妹もついこの一年で全員が亡くなったところである。実家は[車道]であったが、今は刈谷市に雑貨問屋をゆるぎなく「豊栄商事」と言う看板で姪やその子供が営業している。
 母の実家も「昭和村」が出来る時、土地を提供するのが筆頭だったのか、私達が子供の頃盆、正月に行っては慣れ親しんだ家が
蔵を残してスーパー銭湯みたいな平屋に建て替わっている。
 弟は一人息子に歯医者を立上げさせて小学生の孫が二人いるが四、五百メートル先なので、母屋のすべてを壊すのに
母と子で何の支障もなかったであろう。
 年甲斐もなく懐かしさと残念さで号泣せずに「ご苦労様」とねぎらうべきであろうと心の整理をしながら、来年三月私と母の誕生月頃に見に行こう。我が家もほどほどに整理をしなければ・・・こちらは夫が初代だから簡単である。
 笑って済ませられる。
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敬老の日

2022-09-23 10:27:09 | Weblog

 今年の夏は殊の外暑く、日本中の各地が、台風やら大雨で、コロナも引かず、大変であった。
ここ二、三日やっと涼しくなり、秋の気配が感じられるようになった。
 娘夫婦は兼ねてからの念願であったイギリス旅行の切符が取れたらしく二週間余の旅に経った。
運が良いのか悪いのかエリザベス女王が逝去されて国中が大変な時であった。
 予定では、イギリスをあちこち廻って、帰り際に、この二か月里帰りしてきていた孫
と曾孫のポルトガルの家で二三泊してくると言っていた。甘えてくれて情が移ったのであろう。「私も行きたい」と言ったら「三十五時間も飛行機に乗っていくのだからお母さんの身体では、駄目]]と言われてしまった。
 十九日敬老の日、直系の男の孫が、女児二人を連れて遊びにきてくれた。お持たせのマクドナルドのハンバーグで昼食をしてから、イクメンパパは昼寝を、曾孫達と私はトランプで遊んだ。
 帰りには台風よけにとゴーヤのネットを外して行ってくれた。その間に娘からエリザベス女王の
葬儀の写メールが、携帯に入った。
 私としてはあちらの曾孫こちらの曾孫と元気でいてくれるのが嬉しい。
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デイケアーの一日

2022-08-12 12:18:24 | Weblog

  独り住まいで、毎週月曜日に一回デイケアーへ行く。その日は四時起きである。
朝食、洗濯、掃除、着替え、化粧、等、現役時代そのものを、出発の九時までに老齢のペースでこなすのである。
 着替えた物を洗濯機にかけて,干そうと庭へ降りると、普段構わずにいる草木が気になって
鎌を持ち出し刈ったり剪ったり、花や野菜に水をやる。ポストへ新聞をとりにいって綴じて鞄に入れる。読んでいる暇はない。パンや牛乳などの朝食をすまし、洗い物をするとき今晩の米をといで夕方帰ったらスイッチを入れるようにして置く。掃除も白い床には苛性ソーダの粉をいれた水で、モップをかけ、廊下とキッチンは息子が学校の休みにバイトをしていたダスキンのモップをあれ以来四十年も辞めずに持って来てもらって、かけて居る、仏間と居間は掃除機をかける。もうすぐお盆なので盆提灯を息子がしつらえて行ってくれた。あちこちの曾孫が来るのが楽しみである。
 デイケアーのありがたいのは、必ず九時すぎには迎えの車が来てくれることで、それからも一人二人と拾いながら老健に着く。日課の自転車漕ぎやそれぞれの人の弱いところに、電気治療を始める。マッサージ機は体の部位により三台くらいにはかかるから、家でこれをやろうとすると相応のスペースが要ることになる。
 次は入浴。スタッフに感心するのは大半は車椅子の人を、入浴専用の車いすに移らせて優しい言葉をかけながらそれぞれ身体を洗って、私のように自分で浴槽に入る者も含めて四五十人を、しゅくしゅくとこなして行く事である。もちろん髪を洗うのも背中をあらうのも、着替えもやってあげている。パンティ姿で男性スタッフに足の爪まで切って貰っている異様な光景もある。私の場合元々温泉好きで家を中心にあちこちの回数券を持って息抜きに行っていたのが、コロナ禍になってから自重して行けなくなっていたので、相手のペースなのを我慢すれば有り難いことである。これらを午前中に済ますと昼食である。家にいても一汁三菜に気を付けているので比較をする。季節ごとのものは一緒である。午後からは一時間に一回くらいの体操があり、三時のお茶の頃には何らかのリクレーションが組んであって、この間は輪投げで300点の私が最高点だったら、賞品にソックスをくれた。月曜日は家に持って帰る生け花をする時が多い。
 四時に,帰り支度が始まって,朝来たように家迄送ってくれる。最初転んで骨髄をやられた時、娘が申し込んでくれたデイケアーを何で私がと思ったが一年経って更新時になると一周間に一度くらいはこうした休息も良からずやと思うようになった。
         
      俳句   反比例我の背丈と青田波
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身内の葬儀

2022-07-14 13:00:57 | Weblog

  七十八歳で、実家の弟が亡くなった。嫁いで来ているのに、今更ながら心の拠り所であったことに
 きずいた。
  その昔、父が死んで病院から自宅まで、搬送したのが今日(昼過ぎ安倍首相が撃たれた)亡くなった弟で
 免許を取って最初の運転であった。大学生であったようにおもう。
  まだ母が五十歳で、六人の子供達はやりたいことをやっていた。
 上の三人は結婚していたが、下の三人はそののち一家を築いた。
 五人目のこの弟が蔵や、納戸、離れ、等はそのままにして、120坪の母屋で地場産業の刃物「○○ 利器」を立ち上げて自営して来て爾来七十八歳まで
 五十年程もひたすら真面目にやってきた。途中一人息子に歯医者を開業させ男の孫も二人いて、
 やれやれと言う処であった。
  私が思い出すのは戦争末期に生まれた子を、主を兵隊に取られている町内の何軒かに遠慮して宮参りに
 十一歳の私に羽二重の着物を着た赤ちゃんを抱かせて首に被いの紐を結んで一人で行かせた事。鯉のぼりを
 毎年上げていたことや、自転車の前に乗せて遊んでいたこと、幼稚園の入園式で「お名前は」と
 聞かれると「ぼっちゃん」と言ったと家中で大笑いしたことである。
  私が名古屋に嫁いでからは下の弟と二人よく出かけて来て夫に中日球場や動物園へ連れて行って
 もらったりしていたことなどである。
  当時、雑貨問屋をしていた私に「俺は国内販売はやらん」と言っていたのに、時よ時節で貿易が
 出来なくなったら無念さもあったであろうが、終生商売にたずさわった。
  訃報に接し、息子と二人駆けつけて葬儀に参列してきたが、16代目当主をやりあげた顔は立派できれいであった。
  生あるものは必ず滅ぶと言えども、とても悲しいことである。
 コロナ禍なので家族葬であった。がっかりと気落ちしてしまった。
  この上は冥福を祈って線香を捧げるのみである。          合掌

俳句   坦々と済ます湯灌や夏衣
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