歌手の尾崎紀世彦さんが5月31日にがんで亡くなった。
69歳だった。
「また逢う日まで」が大ヒットしたのは昭和46年(1971年)だった。
繁華街を歩いていると、必ずこの歌が耳に入ってきたものだ。
その昭和46年という年は、僕にとって特に思い出深い年だった。
大学卒業間際に結婚式を挙げ、新婚旅行から帰ると、
数日後に卒業式に出席したことを思い出す。
4月、新社会人になった僕は、ある楽器店に就職したのだが、、
大阪阿部野橋の近鉄百貨店へ出向を命じられた。
つまり僕は近鉄百貨店の楽器売り場の出向店員になったのだ。
そして、楽器売り場の隣が、レコード売り場だった。
その売り場で、開店時間中、連日流れていた曲が、
その年に出た尾崎紀世彦の「また逢う日まで」だった。
すでに大ヒットのきざしを見せていた。
ほかのキャンペーン曲も流れるのだけれど、
ほぼ2、3曲に一度は必ずこの曲が流れた。
それだけ、他をぶっちぎっての大キャンペーンだった。
開店と同時に隣のレコード売り場からそれが聴こえてくる。
来る日も来る日も、ず~っとこの曲を、
全身に浴びるようにして僕は過ごしていた。
♪ タッタン タタンタタン
タッタン タタンタタン
チャッチャ~ン チャンチャンチャ~ン
チャ~ン タタンタタン
また逢う 日まで~ 逢えるときまで~ 別れのそのわけは~
話し~たくな~い なぜかさみしいだけ~ なぜかむなしいだけ~
イントロ部分から終わりまで、イヤでも歌の隅々まで覚えてしまう。
おそらくこれまでの人生の中で、最も多く聴いた歌は、この歌だろう。
今もその歌が記憶の中に鮮明に刻み込まれているし、
日常でも不意に歌詞が浮かんで、つい口ずさんだりする。
その「また逢う日まで」を毎日聴かせられながら、
比較的ヒマだった楽器売り場に立ち、自分の将来について考えていた。
百貨店業務は社会人1年生の僕には厳しいものだった。
まず、じっと立ったままでいなければならないのが苦痛だった。
日・祝日は休めないので、勤めていた妻ともすれ違いだ。
新婚なのに…休みの日が合わないのは寂しいものです。
また、出向社員なので、百貨店の正社員とは一線を画されていた。
時には正社員でない故に、みじめな思いをさせられることもあった。
学生時代、夢に描いていた社会人生活とはおよそかけ離れていた。
そして、妻とも相談して、この会社を6月末で辞めることにした。
妻の勧めで、どこかの市役所の試験を受けて就職しようと考えた。
その時はまだ妻が兄さんの経営する病院で働いてくれていたし、
近くに自分の両親もいたので、生活は困らないだろうと思った。
近鉄百貨店に最後に出勤した6月末日も、相変わらず、
一日中、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が流れていた。
そして、僕はその歌に見送られるように、最後の仕事を終えた。
その後、夏に松原市役所の職員募集の新聞記事を見て応募し、
運良く合格して、その年の8月から地方公務員になった。
その年の暮れ、「また逢う日」は日本レコード大賞を獲得した。
と同時に、前年創設された日本歌謡大賞も同時受賞したのだ。
今年はこの歌しかない…と各界から絶賛されたものだった。
当時は大晦日に放送されていたレコード大賞のテレビ番組で、
最後に発表された大賞曲「また逢う日まで」を尾崎が絶唱した。
それを聴きながら、僕はこの1年を回想した。
昭和46年は大学4年生から始まり、3月に結婚・卒業し、
6月までをこの歌を毎日聴きながら、百貨店の楽器売り場で働き、
夏に転職し、大晦日は、今度は公務員として尾崎紀世彦を聴いている…
そんな自分の、昭和46年の変化に富んだ1年を思い出す。
尾崎紀世彦さんの訃報に接し、さまざまな感慨が胸をよぎった。
「また逢う日まで」をカラオケで熱唱する人は多い。
僕もそのうちの一人であることは言うまでもありません。
心よりご冥福をお祈り致します。
次にカラオケに行った時は、一番先に、この歌いますからね。
http://www.youtube.com/watch?v=pSQ7HpOkqhg&feature=related