めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

一生楽しく幸せに生きる為に

2018-11-21 18:01:29 | 高齢化社会

出来る事なら、一生、苦労せず、無事に楽しく生きたいものですが、
思いと裏腹に、人生は、波乱万丈と成る事が多いです。
まだ、小学生と成って間もない頃、超大型の伊勢湾台風が故郷を直撃、
昨日まで寺の境内で遊んでいた友を失い、町内では、3人に1人が亡くなりました。
想像を絶する高潮は、故郷を壊滅し、一か月に渡る冠水により、街も田畑も
全てが、まるで津波に襲われたかのような惨状でした。

幼い心には、大海原に浮かんでは流れ着く多くの人や動物の死体が目に焼き付き
何年にも渡り夢に出て来ました。
高台にあって難を逃れた小学校のグラウンドには、連日沢山の死体が並べられ
身元が分かった人から穴の中に投げ込まれ、ガソリンが掛けられました。
火葬場も水の下の為、簡易的に掘られた三つの穴に、次々に死体が投げ込まれ
毎日黒い煙が空高く上がっていました。

故郷が破壊された事は大きなショックと成りましたが、それ以上に幼心に強烈な
インパクトを与えたのが、人の命の儚さでした。
日頃から沢山の動物を飼っていた事も有って、生き物の死は目の当たりにして
来ましたが、一夜にして、町内の慣れ親しんだ人達や学校の友人がいなくなる
と言う事実は、如何に理解していいのか、いつまでも心に穴が開いた様でした。

この経験は、確実にその後の人生に於いて、自分自身の大きな心の重みと成って
人を見る目が変わって行きました。
自分の周囲にいる人から、同じ時代に生きる人達全てが、いずれ、この世を去る事を、
どんなに元気で有っても、必ず同じ道を辿ると言う運命を感じる様に成りました。
生きると言う事は、生かされている意味が其々に在り、この世に存在するのは
その意味を果たしていると言えるのです。

与えられた異なった人生が、この世にいる証であり、この世にいる限り、誰もが
価値のある人生を送っていると言う事です。
人によって生き方は様々であっても、其々の生き方に価値が有り、尊いと言えます。
老衰でこの世を去るも、アクシデントで短い人生を終えようも、生きていたと言う事は
自分がこの世での価値を認められていたと言う事です。

しかしながら、私達人間は、人の価値を、外見で決めたり、経済性で決めたがります。
比較する事で、人の生き方の良し悪しを決めてしまう傾向が有ります。
より豊かな生活を送る事で、自分の価値が上がると思い、自分が憧れる人生に憧れ
自分よりレベルが低いとする人生をけなします。

特に経済的に豊かな暮らしを行っている人を人生の勝者とし、人の生き方としてしまいます。
多くの人々が、少しでも外見的豊かさを身に付ければ、自分の価値が上がると信じています。
確かに、経済が発展して、より豊かな暮らしが出来れば、幸せな人生が送れると思いますが
その事で、自分自身の人間的価値が上がったとするのは早計です。

ならば、以前の豊かでない暮らしをしていた時の自分は、人間として価値が無かったのでしょうか。
何も持たずこの世に生まれてきた時は、人間として最も価値の無い存在だったのでしょうか。
幼い頃は、誰もが、社会の歯車にも支えにもなる事が出来ず、常に両親の保護の元でしか
この世に生きている事が出来なかったはずです。
そんな幼少の時を、人として最も価値の無い時期と言えるのでしょうか。
それとも、将来の立派な社会人への成長の過程とでも言うのでしょうか。

人は、子供であろうが大人であろうが、其々の世界で生きている時、常に人として価値が有るのです。
多くの人が、自分に対する利益を感じる時、価値として見出している為、自分に対して何の利益も
齎さない場合は、価値の無い人間として判断しているのです。
つまり、自分の欲望を満たしてくれる可能性が高い程、人としての価値を見出していると言えるのです。

誰かから自分の生活や気持ちを豊かにしてくれる事を常に望んでいるから、自分の欲求をより満たして
幸せを感じさせてくれる人を価値のある人と思い、その可能性を満たしてくれると思われる人達を
自分の憧れの人達とし、奉ったりするのです。
しかし、その喜びは、常に経済的豊かさである事が多く、持ち主がどんな考えでどんな人格であるかは
何の興味も有りません。その為、もし、利益が得られなく成ればすぐに、別の人に興味の対象が
移ってしまうのです。

まるで、テレビ番組を見ていて、面白く無くなれば簡単にチャンネルを替えてしまうのと同じです。
この、興味の対象でしか人を見なくなっているのが現代日本人の問題とも言えます。
対人的なやり取りは利害関係で成り立っている事で、お互いの人としての気持ちが感じられず、
欲望が先行する事で多くのトラブルが生じているのです。

人は、個として生きている為、本人を動かしている心は、誰もが全く違っているのです。
同じ物を提供していても、その思いは、人の数だけ違っているのです。
例えお金が有れば何でも手に入るとしても、お金のやり取りだけでお互いの関係が保たれるのではなく
双方の心の中が認め合っていなければ、より良い人間関係は築けないのです。

私達が生きていると言う事は、人としての心のやり取りをよりスムーズにする為に、様々な文化が生まれ
経済が発達して来たのです。経済性の為に人が生きているのではないのです。
より、完璧な経済社会を目指すならば、人としての個人の気持ちを全く考えない、AIの世界で十分であり
面倒な人間の感覚は必要ないのです。

人間としての豊かな心や幸せを目指すならば、如何に個人の心を大切に育てるかが大切と言えるのです。
もし、人の心の部分を必要としないならば、人間は必要でなく、いたとしても魂を抜け殻の様な、
死体と同じ存在なのです。
人が死ねば、その瞬間から、どんなに頑張っても、心を感じる事は出来ず、人格は無と成るのです。
人が人を見失った時、それは、自分の周囲の人がこの世を去ってしまったのと同じなのです。

私達は生きている限り、他人の心と関わり合って人生を創り上げて行くものです。
人生の岐路とは、新たなる人との関わり合いを見つける道に向かうと言う事です。
仕事を辞める事、家族や友人と別れる事、様々なアクシデントに見舞われる事は
決して避けられるものではなく、誰にでも起こり得る人生の節目と言えるのです。

喜びも悲しみも、新たなる人生への始まりを示していて、何をするにせよ、自分自身の心と
やり取りをするまだ見ぬ人達との心の関わり合いの始まりを教えているのです。
幼い頃、身近な人達を失った時、何故心の中に大きな穴が開いたように思えたのは、
それまで在った彼らとの心のやり取りが無くなってしまったからです。
お互いの利益で繋がっていたのではなく、心で繋がっていたからこそ大きな空白は
中々埋められなかったのです。

一生、楽に楽しく生きると言う事は、自分の関わる人達と共に
お互いの人としての価値観を認め合って生きると言う事です。
有り余る資産で金銭的苦労をしないで生きると言う事ではないのです。
消費経済社会に於いては、老後の生活であっても、いわゆる、悠悠自適の暮らしで
楽しい毎日を過ごしていると言う方も多いですが、実際は、経済的に豊かでも
自分の存在価値も生きる目的も見いだせず、時間とお金を浪費しているだけの
豊かな老後を送っている人も多い様です。

欲しいものは何でも手に入り、有り余った時間を使って、毎日を豊かに暮らして
いると言う高齢者もいますが、その豊かさを幸せとしなければ生きて行けない
悲しい事情も多い様です。
人は人に存在価値を見出されなければ、自分の生きている意味を感じられない事が多く
この世に生きている意味が必要なのです。
ただ、自分自身を楽しませているだけの人生は、直ぐに飽きてしまったり、どれ程
自分自身を喜ばせれば幸せになれるか解らなくなってしまいます。

誰かの為になっていると言う事を感じるだけでも、自分の存在で他人が生きる価値を見いだせ
前に進めるとしただけでも、自分の生きる価値が見いだせるのです。
その為には、常に他人と関わる人生を歩まなければ、他人から自分を認めてもらえないのです。
利害関係で繋がる対人関係は、自分もお相手も心の成長が止まってしまうのです。
長く人生を生きると言う事は、多くの人の心を知ると言う事にも繋がります。
他人を通して、自分の生きている意味と価値を感じられた時、人生を歩んできた意味が
初めてわかるのです。