めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

ブレない心と思いやり

2018-11-24 16:44:19 | 日本人

今年は、人の上に立つ人、中でも社会の中心に成っている様な人の
裏切り行為が目立ちます。
社会的に地位が高いと言う事は、それだけ多くの方の信頼を得ている
と言えるのですが、世界的にリーダーシップをとっていると思える人も
私欲に走り、多くの人達の信頼を損なっています。
中には、残虐な行為で人々を恐怖に陥れたり、身勝手な考えで、多くの
難民や生活困窮者を排除したりと、上に立つ人の横暴が目立ちます。

近年の世界のリーダー達の傾向として、例え、国を代表すると言える
地位や財力のある人であっても、その力を、自分を支える多くの人々の
幸せに使うと言うのではなく、独裁的に自己の欲望の為に使うと言う
リーダーの暴走が目立ちます。

かつて、歴史上には、いくらでも多くの暴君が在り、様々な虐待行為で
多くの人達を傷つけてきたのですが、20世紀後半からは、次第に、
世界的な民主化運動が高まり、それまで虐待されていた人達が解放され
平和に向かって世界が進むのではと期待されていたのですが、
新たなる指導者たちは、平和な民主国家を望むと言うのではなく
豊かな経済を独占し、更には、自らの独裁制を強化する傾向が出て
来ました。

 

この事は、一般の国民から逸脱した人物が生れて来たと言うよりは、
全ての国民を代表する人物が、リーダーと成って来たと言えるのです。
今や、世界の情報を網羅するネットの発達により、地球上全ての人間に
平等の情報が配信されるようになりました。
それに伴い、人々の価値観が共通化してくるようになったのです。
生活苦にあえぐ人達であっても、溢れる資産を有する人達の豊かな暮らしを
ネットを通じて知る事が出来、誰もが、人間としての欲望を最大限に高める
結果と成り、全ての人類が、自分達の目的や価値観を、豊かな人達と
同等である事を求め始めたのです。

そして、少しでも経済的に豊かに成る事が、自分達の幸せに繋がるとし
周囲の人達を蹴落としても、自分がより社会的地位を成す事を求め
始めたのです。
世界中の人類のほんの数%の人達の豊かな生活が、誰もが求める生活と成り
現実の生活には常に欲求不満の状態と成っているのです。
社会の底辺から、彼らが望むトップのクラスまで、その誰もが、上の世界しか
価値観を感じていないのです。

そして、理想に少しでも近づく事が、人生の目的であり幸せとしているのです。
自分の上に居る人の足を引っ張り、下にいる人は蹴落としても、自分自身の
社会的価値が高まる事を目的とした生活は、周囲の人の気持ちが感じられず
人と関わる時は、利害関係が生れる時だけなのです。

この社会傾向は、たとえ、人々のトップに成ったとしても、心の中は同じであり
自分の地位や環境には興味が有っても、自分を支えたり期待している多くの人に
何の思いも無く、ただ、社会的地位としてのノルマを果たす事しか考えていません。
つまり、大会社のカリスマ経営者であっても、国のリーダーであっても、
頭の中は、自分の欲望が溢れているのです。

社会的地位があって、欲望を果たせる方々は良いのですが、国民の大多数は
欲しい物を我慢して、生きる為に必至に働いているのが現状です。
しかも、この働きは、豊かな人達をより豊かにする為の物であり、
消費経済社会で生きて行く為の手段としての利益を得ているだけなのです。

所が、日本社会に於いては、生きて行く為の支出を生み出すだけで、
多くの国民が四苦八苦していて、更なる社会の要求に苦しい毎日を
歯を食いしばって生きている人がとても多いのです。
確かに、遠い昔の身分制度が国民を支配していた頃に比べれれば
現代人は、遥かに豊かな生活をしていると言えるかもしれませんが、
心の余裕は、毎年無くなって来ているのは大きな違いと言えます。

経済的豊かさは増しても、身の回りの人と生きて行くことの喜びは
殆ど感じられない国民が多く、同じ地域や環境に生活しているとはいえ
全くお互いに話す事もない、日常的に接触しない生活を行っている人が
とても多いのです。
同じマンションに住んでいても地域に住んでいても、殆ど誰がいるのかが
解らなかったり、例え、隣の人であっても、口をきいた事もないとする方が
珍しくないのです。

集団で住んでいるにも関わらず、日本人の孤立化が顕著に成っているのです。
独居老人は既に珍しくなく、若者達であっても、地域の集まりや会合に
積極的に参加する事は殆ど無く、ネットを通じて関わる人よりも、遥かに少ない
人間関係で孤立している人が多くなっているのです。

若い人達は、ネットを通じても十分に分かり合えるとする人も多いのですが、
実際に人と面し、言葉を通じて動作を伴いながら同じ空間で関わる事は、
その情報量は遥かに違うのです。
私達は、自分の頭の中の記憶や経験に当てはめながら様々な判断を仕様としますが
実際は、無意識に感じている膨大なる情報がやり取りされているのです。

文章を持って説明できる事は、本当に限られた情報であり、私達が環境から得ている
膨大なる情報は、自分の持っている情報とは比べ物にならない程多彩なのです。
例え博学な人が分析的に説明したとしても、それは人間が理解できる頭の中で
認識している狭い範囲の情報であり、私達が無意識に五感で感じている情報には
到底及ばないのです。

ネットが発達して、近年は、AIの進歩によって、人間より遥かに能力が高い機械が
人類を支配するのではと危惧されていますが、どんなに豊かな情報を持っていても
人間自身が無意識に感じている情報量は、機械が世界中から集める情報よりも
遥かに多く、ただ、自分自身でその全てを認識できないだけなのです。
然し、人は、様々な環境に晒されたり、人と対面すると、目や耳でやり取りする
外見的な情報以上に、多くのものを体感していて、説明できない様々な情報が
その後の考え方を支配している事も多いのです。

何の遜色も無く、全てが理想的な相手を目の当たりにして、何か説明できないけど
何となく嫌と言う言葉を発する女性が多くいますが、不満な点が何も見つけられなく
全てをチェックしても最高のお相手でありながら、拒否反応を示す女性には、
言葉や知識で説明できない何かの情報を感じ取っていると言えるのです。

この何となく嫌とか何となく好きとか、説明できない情報を多く持つのが人間と言え
言葉で説明できない答えの無い様な曖昧な感覚が人間にとって一番大切で有り、
その膨大なる違和感を少しづつ解決し生活に役立てて来たのが文明の発達と言えます。
現代社会に於いて、より明確な答えが有り、的確な意思表示が出来、社会の要求を
満たす能力のある人材が好まれていますが、果たして、彼らが、本当に社会にとって
周囲の人達にとって理想的な人間と言えるかは、即断はできないのです。

テレビ番組に引っ張りだこの利発な子役は、大人顔負けの弁舌で周囲を驚かせ
将来を期待されますが、実際、大人に成った時、期待ほどの活躍が出来るとは
限りません。

また、今どきの子供であっても、人前で一言も話せなかったり、周囲の事に気を配れず
極めて自分勝手な振る舞いをして大人達を困らせる場合が有りますが、
大人たちにとって、余りいい子とは言えない彼らが、将来社会にとって
相応しくない人間になってしまうとは誰も言えないのです。

つまり、言葉として態度として出せる意思表示は、人間としての価値判断の基準と
成らず、有るとしたら、周囲の大人たちの思い通りに成ったり、利益の対象と
成っているだけなのです。
例え、ネットの情報を誰よりも多く知っていても、様々な知識を持っていても
そのことで、人間としての価値が高いとは言えないのです。

しかしながら、現代社会は、道具として使われる言葉や社会的地位や財産を持ってしか
人の価値を感じられない人で溢れている事から、人よりも地位や財産や知識が有れば
人間的価値があると判断してしまうのです。
その結果、時に、その様な地位に在る人が、不祥事を起こしたり、欲望に任せて人々を
騙したり利益を誤魔化したりすると、大きな話題と成ってしまうのです。

つまり、どんなに豊かな暮らしをしていても、本当に本人の人間的価値を感じて
居なければ、誰も寄り付かないのですが、多くの場合、利益を目論むことが
出来る事から、砂糖に群がる有りの様に、常に多くの人が集まっているのです。


国民の多くが、自分自身の価値観を高めず外見的な豊かさに心を奪われている様に、
国の代表も財界のリーダーも、その延長上で生きていて、欲望に対する触手が
様々な犯罪を生んでいるのです。
この人間関係が希薄と成っている世界に在って、いかに幸せに生きるかは、
自分自身の心を一体何で満足させるかによって決まってくるのです。

多くの人が求める社会的価値を持って満足させようとしている限り、
いつまで経っても欲求不満で、心の休まる日はやって来ないのです。

自分自身の本当の気持ちを満足させるものは一体何なのか、それは常に変貌する
社会価値ではなくて、
一生を通じて自分の心を育てる安心と生きる価値観なのです。

やはりこれは、同じように生きている人間の心を持って作り出すしかないのです。
簡単に言えば、心の敵を作らず見方を作る事です。
心の敵とは、第一に、経済的価値や社会的豊かさを持って自分と接して来る人達です。
彼らは、どんなに魅力的な言葉や情報を持っていても、心の中は自分の利益しか有りません。
有りません。

味方とは、現在だけでなく未来まで、自分の心をサポートしてくれて、その為に、常に
この世に生きる自分の価値を認めてくれる人です。
人は生きている意味と価値を失うと、途端に気力が失せ、未来への希望を失ってしまいます。
この生きる意味や価値を、社会的に豊かな生活としてしまう事で、現実の自分と
社会が認める自分とのギャップに苦しむのです。

 

AIは、ある意味、完璧な答えを引き出してくれます。
然し、人間の心は、完璧でない答えを求めたり、更には、間違った答えを要求すると言う
複雑な心理に陥る事も有り、ある意味、答えの決まらない世界に生きているとも
言えるのです。

時と場合、環境によって、答えが様々に変化して行くのが人間の世界とも言えます。
それまで大嫌いであった物が突然大好きに成ったりする事も珍しくなく、人間の心は
様々な情報と答えが混とんとしているのです。

それ程曖昧で答えを見いだせない人の心を理解するには、単なる情報や知識だけでは
とても満足できないのです。
一日の内でも、人の心は次々に代わって行くもので、まるで気象変化の様に、
同じ景色も空も無いのです。
その為に、その都度、感じる力感動できる力が必要であり、常に対人的に
人の思いを感じる心を育てて行かなければならないのです。

日本人の苦悩は、経済的に豊かに成ったものの、人の心を感じる力を育てず、
利害関係だけで対人的なやり取りをしようとした事に依って生まれたのです。
人は、ほんの瞬間の仕草で、その人の心を理解する事が出来、その考える以前に
感じる力が人間関係を豊かにしていると言えるのです。

素晴らしい俳優さんは、その微妙な人の心の動きを、身体の様々な部分で演じます。
私達は、日常的に、人の姿を感じる事に依って自分の行動を決めているとも言えます。
何をして欲しいのか何を求めているかを、活舌よろしくはっきりと示したとて
それは子供達の利発とも思えるセリフに過ぎず、人として成熟する為には、
日常的な様々な人のサインを感じられる事が重要と言えます。

現代社会は、如何にはっきりとイエス、ノーを言える事を求めます。
何故なら、曖昧な態度やはっきりしない行動では、社会生活が滞るからです。
誰もが理解できる態度や言葉で、しっかりと意思表示が出来れば良しとする世界です。
しかし、人間の心は、そんなに単純では有りません。機械であったらその方が便利で
簡単なのかも知れませんが、人間の心は、数千色の色の違いの様に複雑です。

故に、個人としての価値が有り、一人一人の個性が尊重されるのです。
今や社会システムは、より便利にスムーズにする為に、全ての組織が瞬時に繋がる
ハッキリとした意思表示を求めます。
つまり、この社会を支配する人が世の中の中心と成っているのです。
確実な損得を考えられる、利益を最も確実な物と出来る人が社会を牛耳って
いるのです。多くの国民の曖昧な心を理解できるはずはないのです。

経済的豊かであっても、一向に国民が豊かに成れず、誰もが心が満たされず
ただ、欲望だけを満たそうとする生活に幸せは有りません。
例え経済的に豊かな人達で有っても、欲しい物を手に入れる事しか
考えられず、いつまで経っても心休まる日々は訪れないのです。

 

欲望のままに生きる人達が居る一方、世界には、本当に心から幸せを望む人は多いものです。
しかし、経済的豊かさが幸せと洗脳されている限り、人類には幸せは訪れないのです。
何十年後か、人類の力ではどうにもならない破局の時代と成った時、生き物達にとって
本当に幸せな地球が生れるのかもしれません。地球環境の破壊者として君臨している人類は
どんなにあがいても、絶滅を免れないと言えるからです。

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の代表が聞いてあきれる

2018-11-23 18:48:37 | 日本人

最近の政治家は、外見的な地位や財産は求めても、政治家としての資質に欠ける
肩書きだけの方がとても多くなりました。
政治家として、国民の為に如何にあるべきかと言うポリシーが感じられず、
与えられた職務を果たし、自分の社会的地位を増す事しか頭に有りません。
政治家を志す覚悟があまりにも希薄で、社会的地位を得た事で、自分の欲望を
満たす事には頭が働いても、自分達を支えている国民の思いに疎い方が、
とても目立っているのが現状です。

国会中継を見ていても、やたら、雄弁でパフォーマンスに長ける方はいても
本当に国民の事を考えて政治を行っているのかと、耳を疑ってしまう程
知識も経験も足りない、半人前の政治家が多くなりました。
多くの国民に国政を放映する事は良い事なのですが、その内容や議事を行う
議員たちの多くに、国民が前のめりになる事は無く、直ぐにチャンネルを
替えてしまうのが殆どと言えます。

身の無いダラダラとしたやり取りは、そこに使われている大切な時間と税金が
如何に無駄遣いと成っているかを示すだけで、国民の期待が叶えられる様な
政治家の熱意も気迫も伝わって来ません。
単に高額の報酬を得ている公務員の井戸端会議の様で、お互いの自己満足しかない
議事風景は、国民にとって、退屈である以外何物でも有りません。

今や世界は、暴君と自分の利益しか考えられない政治家で溢れています。
例え思想的違いは有っても、他人の上に立つ人達が、己の欲望の為に
その地位を利用しているとしか考えられない暗黒の時代と言えます。
年々数を増し続ける生活困難者や難民は、決して他人事ではなく、
経済大国と言われる日本であっても、ひとたび、資源や食料が滞れば
途端に、国民全体が困窮すると言えるのです。

大手企業を中心とした消費経済社会は、外見的には豊かに思えますが、
実際の国民生活は、決して余裕のあるものではなく、常に自分達の未来に、
現在の生活に不安を覚え、外見的に豊かな様に取り繕っているだけで
毎日の生活を続けるだけでぎりぎり生活を強いられている人が多いのです。
また、例え、他人が羨む生活をしている人達と言っても、心の中は、常に
不安の渦が常駐していて、幸せと感じる生活が行えてない事も多いのです。

この事は、日本人全体に言える傾向とも言え、消費経済社会に生きる為に
必要以上の外見を作る為にストレスから免れない人が少なくないのです。
日本社会は、子供の頃から、常に上を見て生きる事を求められて来た事も有り
自分の行っている事や考えに対して、絶対と言える自信が得られませんでした。
少しでも知識を増し、成績を上げ、更には、社会に於いても、誰よりも
経済的豊かに成る事を目指し、他人の上に立つ事こそ正義と言う考え方で
生きている日本人がとても多いのです。

つまり、生きる過程に於いて、自分の成績や地位や財産が人間としての
価値であるかのような人生を送って来ている事から、自分自身や他人の
気持ちや考え方に理解が無く、社会的外見的な価値をもって、自分の
存在価値としている為、少しでも外見を取り繕うとする事しか
考えられないのです。
人間としての資質を磨くことなく、他人との外見的比較でしか
自分の価値を見いだせない人生は、常に、確信を持てる自分の気持ちを
持つ事が出来ず、周囲の意見や社会の動向で揺れ動いていると言えるのです。

その為、社会的に認められる地位や財産をもって自分の価値と勘違いし
他人の価値も、その人の外見でしか判断できなくなっているのです。
つまり、政治家であっても、その地位は、国民の代表で有っても、中身は
国民の気持ちが全く感じられない、自分の事しか考えられない我儘な
社会的地位のある人に過ぎないのです。

他人を知識で負かしたり、経済力で押さえつけたり、社会的地位で動かしたりと
何の人間的な豊かさを感じられない人が社会を動かす政治家と成っていては
国民の願いを叶えるなんて事が出来る訳ないのです。
政治家と言うだけでなく、たとえ大臣と言う肩書が付こうも、その中身は
なんだ成長する事無く、有るのは欲望と保身でしか有りません。
同じように欲望で目をぎらつかせながら、お互いの傷をなめ合っている様な、
なあなあの関係の政界が、どうやって国民の気持ちを理解できると
言えるのでしょう。

日頃、ただ、自分の事しか考えていない様な政治家が、責任ある大臣と成って
突然その役割を果たすことなど出来る訳が無く、無知無能の政治家が
国の重職を担ったとしても、その言動行動は失笑を買うだけです。
如何なる役職に就こうも、政治家なるものは、全ての事に精通して
国民の為にまい進出来る事が大切と言えます。

新内閣が生まれる度に、素人と思える様な大臣が抜擢されてきます。
無能としか言えない人が何故そんな要職に就けるのか、それは
明かに議員相互の私利私欲の結果でしかないのです。
国民の期待よりも、誰を充てるかによって、利益配分が決まり、
自分達の懐具合が変わって来るのです。

そう、国会における様々な審議も役職も、国民には関係ない所で
彼らの生活を潤しているに過ぎないのです。
しかし、国民の前に、多少なりとも公とされる国会中継はまだしも
政治に関しての地方議会は、旧態依然と言える事があまりにも多いのです。

選挙の多くは、地域の実力者たちの地域影響力に反映される事が多く
政治が地方産業の担い手の役割を果たしている事が少なく在りません。
地域住民に対する平等な働きを果たしていると言うのは表向きで、
政界と財界が密接に結びついているのは中央政治と何だ変わりません。

様々な贈収賄事件が有るものの、地域では問題と成っても、全国的な
問題とされる事が無い為、霞が関の問題がいつも目に付くのですが、
政治家の腐敗は、全国的な規模で存在しているのです。
日本を支える政財界が、戦後から変わらず様々な問題を生んでいるのは、
国民に対して、如何に大きな不信感を生み、特に若い人達に対しては、
政治家としての使命が如何にいい加減であるかを暴露しているのです。

精霊潔白であり、国民の気持ちを代表して戦っていると思える人達が
自分達の欲望に走り、保身の為に言い訳を重ねていれば、国民の多くは
経済的社会的にトップの人達が、この様な不正を働いても大丈夫と言う
豊かな生活を目指す国民に、他人の上に立つ人の甘さを許してしまうのです。

どんなに首を挿げ替えても、時代が変わっても、相変わらず繰り返される
政治家の不祥事や政財界の癒着は、国民の心にも、よからぬ考えを
育てかねません。
どんなに悪い事をしても見つからなければ大丈夫、地位を利用して
悪事を働いても、上手く言い逃れをすれば、更なる利益が得られるとする
国民が増えてくる可能性も有るのです。

つまり、上に立つ人の行いが、彼らに国の政を任せている国民の気持ちも
良からぬ方向に導いて行くとも言えるのです。
子供の頃から大人の行動や言動に大きく影響を受ける国民は、
例え経済的に豊かな暮らしが出来る様に成ったとしても、人間的に
成長できない、我欲しかない国民と成ってしまうかも知れないのです。

どちらかと言えば正義感の在る、人の気持ちを察する事が出来る
世界的にも心豊かな国民として知られる日本人が、実は、
人の気持ちを欺き、自分の事しか考えられない国民と成ってしまったら
もう、私達は、誇り高い日本人とは言えないのです。

どんなに豊かな暮らしをしていても、その暮らしの豊かさを上回る
豊かな人間性が無ければ、人としての価値は生まれません。
今や、日本は、経済的に厳しい時代と成っていると言うよりも、
日本人としての資質が危機的な状態に成っていると言えるのです。

街を歩けば、何処をに行っても、華やかであり何でも欲しいものが
手に入ります。
しかし、その欲しい物との関わり合いは、単なる金銭的なやり取りであり
欲望を果たすだけの喜びに過ぎません。
同じように街を歩く多くの人々の心は、いつも寂しく孤独であり、
肩を触れ合う程多くの人々が歩いていても、誰も知り合う事はなく
ある意味、独りぼっちであると言えるのです。

多くの国民が、都会に地域社会に住んでいても、繋がりと言えば
経済的社会的な繋がりであり、人としての繋がりに欠けている事が多く
一見同じ考えの持ち主同士が一緒にいたとしても、それは利益享受により
繋がっている事も多く、本当に心から安心を与え合う関係が希薄と成って
日本社会が冷たくギスギスとしたものと成っているのです。

多くのメディアは、テレビなどを通して、日本の豊かさや楽しさのみを
紹介しています。その陰には、多くの利益を目論んだ企業が関わっていて
メディアの情報だけを見れば、日本は如何に豊かで幸せな国だと
多くの人は勘違いしてしまうのです。

それは単なる商売の為の戦略であり、メディアの情報は、極めて極端な、
利益を求める為の手段に過ぎないのです。
しかし、多くの視聴者は、日本は本当に豊かで幸せな国と思い込んでしまい
提案されたものを買い求め、楽しい生活を目指せば、自分が望む様な
素晴らしい生活が手に入ると信じてしまいます。
これこそ、経済社会の罠ともいえるものであり、富める人が貧しい人達を
支配し続ける仕組みと言えるのです。

平気で私利私欲に走ったり、地位を利用して我儘な言動行動が出来るのは、
本当に国民を幸せにする気持ちは無く、頭の中では、いつまでも、この
差別社会が続く事を名がっているとしか言いようが有りません。
政治家のふりをして、自分の豊かさを追求するだけでなく、国民の
味方の様なパフォーマンスをして騙し続ける政治屋は、既に、私達が
思いを託す人間ではなく、税金に貪りつく金の亡者に過ぎません。

他人の気持ちを考える事を学ばず、経済的地位を目指した人達が作り上げた
政界は、日本社会で私利私欲を学んだ成れの果ての日本人の集団と言えます。
もし、反論が有るのなら、直ぐさも、国民が納得する経済政策を実行し
一日も早く、日々の暮らしに困らぬ、心豊かな国民を育てる具体的な
行動を示して欲しいものです。
もっともらしい言葉で国民を煙に巻くパフォーマンスはもう要りません。

 

 

 

 

 

 


思い通りにならない理由

2018-11-22 11:03:45 | 社会

過去50年に渡ってスポーツに親しんできましたが、
人生の末路が近づくに連れて、自分の身体が、確実に
衰えてきている事を感じます。
過去の記録を見ても、20代の頃の体力の半分も無くて
当時は、スポーツを仕事の主体としていて、周囲の人から
一目を置かれていたのに、今では、ただの元気な高齢者の
一人に過ぎません。

若い頃に行っていたメニューを熟そうにも、一生懸命
身体を動かしてどうにか付いて行ける状態です。
唯一勝っているのは体重だけで、外見は大きくなっても
筋肉量が激減していて、当時、履こうとすれば、太ももが
パンパンに張っていたズボンが、何の苦もなく入ります。

まずは、体力を戻すと言うより、身体のバランスを取り戻し
全身の筋肉の繋がりを作る為に早朝ウォーキングから始めました。
高齢になってくると、体力と言うより、身体を動かすための
バランスが失わなわれて、いわゆる、頭と肩が前傾した
高齢者の体形となって来ます。

かつて、高齢者にアドバイスしていたことを、自らの身体で
再確認する事になるとは、改めて、自らの年齢を知らされ
思い通りに動かなくなる身体にため息がもれます。
早朝に歩いていると、私と同じように、高齢者が多いものの
猛スピードで駆け抜けていく若者や、中高年と思えても、
しっかりとした足取りで風の様にすれ違っていく人もいます。

身体の機能や運動原理を長年仕事で追及してきたことも有り
人々の歩き姿を見ただけで身体の状態が解るのですが、
それ以上に、自分の身体の問題点がはっきりと解るのは辛く
かつての自分の姿と比べて、若い頃の運動機能に戻すには
どれ程大変な事か、修験者並みの生活を行わなければ
老化を止めることは出来ません。

しかしながら、問題は、体力が衰えたこと以上に心が
気力が衰えている事です。
高齢になったという理由で、様々な事に対して、甘えが
出て来ているのです。
何十年も働いてきたのだから、年を取ったのだからと言う
もっともらしい理由で自らの身体をなまけさせているとも
言えるのです。

高齢者だから許されるという我儘が、自分の身体と脳の
機能を衰えさせているのではと思います。
若い頃は、確かに体力も有りましたが、それ以上に、
目的に対しては、果敢に挑戦し、歯を食いしばって頑張った
日々が有ったからこそ様々な利益が得られたのです。

たとえ体力が落ちたからとは言え、全てが出来なくなった
と言うわけでは有りません。
長年の経験もあり、若い頃以上に様々な事に挑戦が出来るのです。
身体が若い頃の様に自由に動かなくなったとしても、出来る事は
探せばいくらでもあるはずです。

しかし、若い頃は、すぐに挑戦したり触手を伸ばしたのに、
今や、目の前に、手の届くところに有っても触れてみようとも
しない事が、心の老化と言えるのです。
人の身体は、思ったように反射的に動くように出来ています。
思わなければ、どんなに素晴らしい肉体を有していても
どんなに若くとも、目的を達成することは出来ないのです。

現代社会は、一部の人達は非常に豊かな生活をしているものの
多くの人が日々の生活に苦しんでいます。
思うような仕事につけなかったり、仕事をリタイアしたものの
老後の生活に苦慮している人も多くいます。
其々の問題を抱えているとは言え、多くの人達が、自らの身体の
不自由さを感じています。

思い通りにならない生活に身体に苦しんでいるのです。
お金がないから仕事が無いから、生活が思い通りにならないからと
今の時代に誰もが抱く問題が山積しています。
お金が有れば仕事が有れば、もっと幸せになれると思いながらも
一向に道が開けず、日々の暮らしに四苦八苦している人が多いです。

時代が悪いと原因を時のせいとしたいものの、改善しない日常に
あがき苦しむ人々は少なくありません。
国が何とかしてくれなければ、自分たちの生活はどうにもならないと
思っている人も多い事でしょう。

しかし、これは、私が抱いている心の苦しみと何だかわりません。
年を重ねたから身体が動かなくなって何もできないという、
老化を理由に自分の怠惰な生活を正当化している現実です。
若い頃は、可能性はともかく、自らが動く事で、様々な目的が
達成され、周囲の人達も動いてくれたのです。

まさに、年を取って何もできなくしてしまっているのは、間違いなく
自分自身であり、年齢のせいにしたり、周囲の環境のせいにして
来た事に因り、より不自由な生活を創り上げて来たと言えるのです。
人は、生まれてから死ぬまで、身の回りの人々や環境に反応し
生きて行くものです。自分の人生は、誰のものでもなく、自らが
作り上げて来たものなのです。
不平不満は、自分が招いてきた結果であり、いい悪いを別にして
自分の選んだ道と言えるのです。

自分がどの様な生活をしたいとか、どの様な身体になりたいと思えば
誰もが叶えられる可能性が高いと言えます。
当然、その人の能力や努力の程度によって叶えられないことも有ります。
だからこそ何度も挑戦できるように、世の中には様々な道が容易されて
いるのです。

自分自身を省みて、いかに人のせいにしたり環境のせいにして
自らの努力を怠ってきたかが解ります。
今年の暑い夏の頃、体調が非常に悪くなり、身体の衰えを自覚し
危機感を感じてようやく自らを鞭打つ事に成りました。
しかし、体つくりをしようも、怠惰な生活は、いつの間にか
自分自身の身体が嫌になるほど、見苦しいものと成っていました。

まずは、歩く事から、そして走り、筋肉トレーニングを行いました。
ともかく自分に負けないよう、間食夜食を止め、早朝から3か月
殆ど休む事無く続けてきました。
といっても、体力の無さは、20代の頃の半分のノルマも果たせません。
それでも今しかないと言う危機感は、自らを突き進める事に成りました。

ようやく体重だけは30台前半と成り、20代の頃履いていたズボンも
ウエストに収まるようになりました。
ただ、体重を減らしただけの事ですが、それでも心の中の達成感は
大きな自信と成っています。

かつて高齢者やスポーツが苦手な人達の基礎体力とバランスを作る為
アドバイスをしていた事をしなければならない身体に成っていたのです。
この次は、新たなるトレーニングメニューを足して、更なる復活を
目指そうと思っています。

例え年を重ねようと、自分の思うような生活を送りたいものです。
特に健康に関しては、年齢のせいにしないで、気が付いたらすぐに
対処する習慣を付けたいものです。

 

 


一生楽しく幸せに生きる為に

2018-11-21 18:01:29 | 高齢化社会

出来る事なら、一生、苦労せず、無事に楽しく生きたいものですが、
思いと裏腹に、人生は、波乱万丈と成る事が多いです。
まだ、小学生と成って間もない頃、超大型の伊勢湾台風が故郷を直撃、
昨日まで寺の境内で遊んでいた友を失い、町内では、3人に1人が亡くなりました。
想像を絶する高潮は、故郷を壊滅し、一か月に渡る冠水により、街も田畑も
全てが、まるで津波に襲われたかのような惨状でした。

幼い心には、大海原に浮かんでは流れ着く多くの人や動物の死体が目に焼き付き
何年にも渡り夢に出て来ました。
高台にあって難を逃れた小学校のグラウンドには、連日沢山の死体が並べられ
身元が分かった人から穴の中に投げ込まれ、ガソリンが掛けられました。
火葬場も水の下の為、簡易的に掘られた三つの穴に、次々に死体が投げ込まれ
毎日黒い煙が空高く上がっていました。

故郷が破壊された事は大きなショックと成りましたが、それ以上に幼心に強烈な
インパクトを与えたのが、人の命の儚さでした。
日頃から沢山の動物を飼っていた事も有って、生き物の死は目の当たりにして
来ましたが、一夜にして、町内の慣れ親しんだ人達や学校の友人がいなくなる
と言う事実は、如何に理解していいのか、いつまでも心に穴が開いた様でした。

この経験は、確実にその後の人生に於いて、自分自身の大きな心の重みと成って
人を見る目が変わって行きました。
自分の周囲にいる人から、同じ時代に生きる人達全てが、いずれ、この世を去る事を、
どんなに元気で有っても、必ず同じ道を辿ると言う運命を感じる様に成りました。
生きると言う事は、生かされている意味が其々に在り、この世に存在するのは
その意味を果たしていると言えるのです。

与えられた異なった人生が、この世にいる証であり、この世にいる限り、誰もが
価値のある人生を送っていると言う事です。
人によって生き方は様々であっても、其々の生き方に価値が有り、尊いと言えます。
老衰でこの世を去るも、アクシデントで短い人生を終えようも、生きていたと言う事は
自分がこの世での価値を認められていたと言う事です。

しかしながら、私達人間は、人の価値を、外見で決めたり、経済性で決めたがります。
比較する事で、人の生き方の良し悪しを決めてしまう傾向が有ります。
より豊かな生活を送る事で、自分の価値が上がると思い、自分が憧れる人生に憧れ
自分よりレベルが低いとする人生をけなします。

特に経済的に豊かな暮らしを行っている人を人生の勝者とし、人の生き方としてしまいます。
多くの人々が、少しでも外見的豊かさを身に付ければ、自分の価値が上がると信じています。
確かに、経済が発展して、より豊かな暮らしが出来れば、幸せな人生が送れると思いますが
その事で、自分自身の人間的価値が上がったとするのは早計です。

ならば、以前の豊かでない暮らしをしていた時の自分は、人間として価値が無かったのでしょうか。
何も持たずこの世に生まれてきた時は、人間として最も価値の無い存在だったのでしょうか。
幼い頃は、誰もが、社会の歯車にも支えにもなる事が出来ず、常に両親の保護の元でしか
この世に生きている事が出来なかったはずです。
そんな幼少の時を、人として最も価値の無い時期と言えるのでしょうか。
それとも、将来の立派な社会人への成長の過程とでも言うのでしょうか。

人は、子供であろうが大人であろうが、其々の世界で生きている時、常に人として価値が有るのです。
多くの人が、自分に対する利益を感じる時、価値として見出している為、自分に対して何の利益も
齎さない場合は、価値の無い人間として判断しているのです。
つまり、自分の欲望を満たしてくれる可能性が高い程、人としての価値を見出していると言えるのです。

誰かから自分の生活や気持ちを豊かにしてくれる事を常に望んでいるから、自分の欲求をより満たして
幸せを感じさせてくれる人を価値のある人と思い、その可能性を満たしてくれると思われる人達を
自分の憧れの人達とし、奉ったりするのです。
しかし、その喜びは、常に経済的豊かさである事が多く、持ち主がどんな考えでどんな人格であるかは
何の興味も有りません。その為、もし、利益が得られなく成ればすぐに、別の人に興味の対象が
移ってしまうのです。

まるで、テレビ番組を見ていて、面白く無くなれば簡単にチャンネルを替えてしまうのと同じです。
この、興味の対象でしか人を見なくなっているのが現代日本人の問題とも言えます。
対人的なやり取りは利害関係で成り立っている事で、お互いの人としての気持ちが感じられず、
欲望が先行する事で多くのトラブルが生じているのです。

人は、個として生きている為、本人を動かしている心は、誰もが全く違っているのです。
同じ物を提供していても、その思いは、人の数だけ違っているのです。
例えお金が有れば何でも手に入るとしても、お金のやり取りだけでお互いの関係が保たれるのではなく
双方の心の中が認め合っていなければ、より良い人間関係は築けないのです。

私達が生きていると言う事は、人としての心のやり取りをよりスムーズにする為に、様々な文化が生まれ
経済が発達して来たのです。経済性の為に人が生きているのではないのです。
より、完璧な経済社会を目指すならば、人としての個人の気持ちを全く考えない、AIの世界で十分であり
面倒な人間の感覚は必要ないのです。

人間としての豊かな心や幸せを目指すならば、如何に個人の心を大切に育てるかが大切と言えるのです。
もし、人の心の部分を必要としないならば、人間は必要でなく、いたとしても魂を抜け殻の様な、
死体と同じ存在なのです。
人が死ねば、その瞬間から、どんなに頑張っても、心を感じる事は出来ず、人格は無と成るのです。
人が人を見失った時、それは、自分の周囲の人がこの世を去ってしまったのと同じなのです。

私達は生きている限り、他人の心と関わり合って人生を創り上げて行くものです。
人生の岐路とは、新たなる人との関わり合いを見つける道に向かうと言う事です。
仕事を辞める事、家族や友人と別れる事、様々なアクシデントに見舞われる事は
決して避けられるものではなく、誰にでも起こり得る人生の節目と言えるのです。

喜びも悲しみも、新たなる人生への始まりを示していて、何をするにせよ、自分自身の心と
やり取りをするまだ見ぬ人達との心の関わり合いの始まりを教えているのです。
幼い頃、身近な人達を失った時、何故心の中に大きな穴が開いたように思えたのは、
それまで在った彼らとの心のやり取りが無くなってしまったからです。
お互いの利益で繋がっていたのではなく、心で繋がっていたからこそ大きな空白は
中々埋められなかったのです。

一生、楽に楽しく生きると言う事は、自分の関わる人達と共に
お互いの人としての価値観を認め合って生きると言う事です。
有り余る資産で金銭的苦労をしないで生きると言う事ではないのです。
消費経済社会に於いては、老後の生活であっても、いわゆる、悠悠自適の暮らしで
楽しい毎日を過ごしていると言う方も多いですが、実際は、経済的に豊かでも
自分の存在価値も生きる目的も見いだせず、時間とお金を浪費しているだけの
豊かな老後を送っている人も多い様です。

欲しいものは何でも手に入り、有り余った時間を使って、毎日を豊かに暮らして
いると言う高齢者もいますが、その豊かさを幸せとしなければ生きて行けない
悲しい事情も多い様です。
人は人に存在価値を見出されなければ、自分の生きている意味を感じられない事が多く
この世に生きている意味が必要なのです。
ただ、自分自身を楽しませているだけの人生は、直ぐに飽きてしまったり、どれ程
自分自身を喜ばせれば幸せになれるか解らなくなってしまいます。

誰かの為になっていると言う事を感じるだけでも、自分の存在で他人が生きる価値を見いだせ
前に進めるとしただけでも、自分の生きる価値が見いだせるのです。
その為には、常に他人と関わる人生を歩まなければ、他人から自分を認めてもらえないのです。
利害関係で繋がる対人関係は、自分もお相手も心の成長が止まってしまうのです。
長く人生を生きると言う事は、多くの人の心を知ると言う事にも繋がります。
他人を通して、自分の生きている意味と価値を感じられた時、人生を歩んできた意味が
初めてわかるのです。



 

 


人の欲望は限りなく、苦しみは尽きず

2018-11-20 15:22:13 | 社会

日本社会を担うべき政治家の不正疑惑から始まり、日本を代表する世界的自動車メーカーの
敏腕会長の逮捕と、相も変わらず多くの人達をリードして行かなければならない人達の
私欲に満ちた悪行が目立ちます。
昨晩遅くから今朝のニュースは、世界の大会社のトップを兼任していた彼の話で持ち切りです。
確かに大変な事件とも言えますが、戦後の歴史を見れば、日本を代表する総理が贈収賄事件で
逮捕される等、毎年と言っても良い程、社会を担っている人達の不祥事や不正が目立ちます。

庶民から見れば、まるで雲の上の出来事の様に感じられますが、社会的に地位を成す人達の
不正行為である事からニュースに成るだけで有って、現実社会に於いては、様々な企業で
秘密裏の元で行われていると言え、正に、氷山の一角と言わざるを得ません。
つまり、日本社会に於いては、大なり小なり同じような事が行われていると言えるのです。

これは、個人の問題と言うより、日本社会が持つ病的な部分であり、見つからなければ
知られなければ、何でも自分の利益に繋がる事には触手を伸ばすと言う、人間としての
モラルも節度もない、人間の実態を示していると言えるのです。
消費経済社会に生きていると、常に、外見的な地位や財産が気になるもので、経済的に豊かで
地位が有れば、その人の人格も優れていると錯覚を起こしてしまいます。

しかも、社会的価値基準が外見的姿であるような教育を受けてきている事から、多くの
日本人は簡単に騙さえ、例え不正が身近で行われていても気が付きません。
と言うより、社会的に地位を成した人は、正しい事をしている人格者の様な知識を埋め込まれ
大人に成っても、従順にリーダーに従う様に教育されているのです。
例え疑わしくとも、自分より地位が上であったり社会的に豊かな生活を行っていると、
上になっている人達の我儘の特性の様に黙認する傾向が有るのです。

この事は、もし、自分が社会的地位を成せば自分も何でも好きな事が出来て、我儘が出来る
とする考えが潜んでいるからとも言えます。
つまり、日本人であれば、誰でも社会的地位を成せば、それと並行して我儘が出来るとする
縦社会に生きる人達の甘えが有るのです。
国のトップである人や企業の代表ともいえる人達が、誰もが崇める様な人達が私欲に走る
と言う事は、何も驚く事ではなく、現代人の人間としての成熟度がその程度である事を
示しているに過ぎないのです。

社会的に問題となっているハラスメントも、自分が相手より上の立場にあると思った瞬間
心の中の欲望が優先し、我儘な行為に至ったり、暴力沙汰を起こしたりしていると言えます。
社会的に下の者は、どんなに欲が有っても我慢をし、上に成れば、我儘が出来ると言う社会が
世界的に豊かな先進国家と言われる日本の実態なのです。
経済的に豊かと成っても、人間としては全く進歩出来ていない日本社会が生み出す問題が
毎年の様にニュースに取り上げれていると言えるのです。

日本人なら多くの人が、日本の政治家のトップに成ったら、企業家のトップと成ったら
同じような不正を働く可能性があると言う事です。
もちろん、人間ですから、常に未熟であり不完全であるのですが、その事を黙認しないで
少しでも人間として成長するために、様々な事を学ぶことが必要と成るのです。
子供の頃から、社会人になるまで心と身体を育てるのは、単に社会的に豊かな生活を目指し
我儘な地位を築くのを目的とするのでは無くて、一人の人間的に成熟した社会人として
社会の一翼を担い、自分の関わる人達を幸せにする人格を育てる為なのです。


しかしながら、その実態は、外見的には立派な社会人に見えて、その中身は相変わらずの
自我を通す事しか考えていない子供が多いのです。
まるで、オモチャをいっぱい持って喜んでいる様な社会的地位のある方が増えているのです。
メディアは、ますます、外見的な豊かさを要求し、国民も見てくれの大人を目指します。
社会的な価値を外見としてしまう事から、人間の中身を感じる能力が成長できず、
その結果、対人的トラブルが増加してしまうのです。
人間の本性を見抜けない人々と人の心を平気で傷つける社会的地位のある人が向かう道は
信じがたい不正であったり疑惑行為であり、それに落胆する人々に成るのです。

この実態は、ある意味、人間の歴史であり、人は、何時になってもこの様な人間関係に
生きていると言えるのです。
ただ、問題は、数千年の歴史を持っても、経済的豊かな現代社会に至っても、いまだ
その本質は無くならず、持てる人と持たざる人、支配する人とされる人と言う普遍の
社会原理は変わっていないのです。
そう考えると、人間の本質は、どんなに文化が進歩しても、どんなに学習を行って
教育したとしても、まるで本能の様に変わらないのではと思えてしまいます。

今やネットの時代と成り、世界中から溢れる情報が手に入ります。
当然、世の中の出来事は瞬時に伝えられ、誰しも、正しい情報を知る事が出来ます。
つまり、人間として如何なることを行えば、多くの人が幸せに生きられるかと言う事を
学ぶことが出来るのです。
つまり、誰もが性悪の判断が出来る時代と成っているのです。
人類は、時を経るにつれ、より正しい知識を得る事に依って、より人として心豊かで
幸せな人生を送れる様に成るのです。

しかし、現実は、一向に戦争は無くならず、世界は、一部の人達に支配され
多くの人々が、日々の暮らしにすら困窮しています。
平等であるべき人間社会は、常に生活格差が生じ、支配者たちの横暴が目立ちます。
どんなに社会が進歩したとしても、この貧富の差が無くならないのは、私達の
努力が足りないのではなく、人類の本質が、それを求めているとしか言えず、
平等を求める人達でさえ、心の中には、支配する事、自分だけの欲望を叶えようとする
人間の本能にも似た強い業が有ると言えるのです。

人々が本当に幸せと思える時、それは、自分の立場が多くの人達を上回り
欲しい物を何でも手にする事が出来る地位に成った時なのかもしれません。
社会的に地位が高いと言われても、本人にしてみれば、自分より更なる
上の地位に在る人がいる限り、欲望は尽きないと言えるのです。

比較経済社会は、目標をもって自分の生活レベルを上げる事は出来るのですが
どんなに社会的に地位を高くしたとしても、比較する気持ちが無くならない限り
その終着点を見出す事は出来ず、常に欲求不満の状態が新たなる欲望を生み
自分の地位の確認のために、自分より下と見なされる人達に権力をかざすのです。

例え100億円の収入が有ったとしても、世の中には、更なる上の人が居るものです。
経済社会にいる限り、その差額は、自分の満たされない部分としていつも不満の
対象と成って、更なる収益を目指す事と成るのです。
庶民には、到底望めない様な収入で有っても、自分の地位にあたるものとしても
それ以上の物を求める限り、金額的な価値は考えられないのです。

高い山に苦労して登った時、周囲を見渡してみると、更なる高山が幾つも有れば
自分の登った山の高さの喜びは消えてしまうのです。
まるでエベレストの頂上に登った時の様な頂点を感じない限り、人間は満足した
日々が送れない生き物なのかもしれません。
それ故、地球上の生き物の中で最も進化できたのかもしれませんが。

しかし、誰もがその様な自分の欲望のみを求めていては、社会全体としては、
機能を果たす事は出来ません。
其々がお互いに役割を分担して、助け合って社会を組み立てて行く事が大切です。
その為には、其々の役割を尊重し其々の個性を認める人間的な心の成長が必要です。
今の人間社会に一番必要なのは、人間だけでなく、あらゆる地球上の生き物が
生きて行ける環境を作る事なのです。

一部の人だけが豊かな生活が出来る様な社会では、いつまで経っても戦争は無くならず、
人間だけが豊かな暮らしをする、地球の食料と資源を独占する様な社会構造は、
いずれも、人間にとっても生き物にとっても幸せな未来を望む事は出来ません。
地球温暖化による気象異変も、人間の我儘がもたらした悲劇と言えます。
自分の欲望だけに固執するのではなく、人間の本質を正しく理解して、
誰もが幸せに生きれれる社会を目指す事が大切と思われます。

人類だけの欲望を満たすのではなく、地球上のあらゆる生き物の生活環境が
生活繁殖に相応しいものとなる様に人類の生活を変えていく事も大切です。
まずは、自分自身から、身の回りにある人を含めて環境の全てをシッカリと
認識し、状況を深く理解する事に依って、自分がどの様に生きて行けば良いかを
考える事が出来、より豊かで幸せな生活を叶える方法を知る事が出来るのです。