今年は、人の上に立つ人、中でも社会の中心に成っている様な人の
裏切り行為が目立ちます。
社会的に地位が高いと言う事は、それだけ多くの方の信頼を得ている
と言えるのですが、世界的にリーダーシップをとっていると思える人も
私欲に走り、多くの人達の信頼を損なっています。
中には、残虐な行為で人々を恐怖に陥れたり、身勝手な考えで、多くの
難民や生活困窮者を排除したりと、上に立つ人の横暴が目立ちます。
近年の世界のリーダー達の傾向として、例え、国を代表すると言える
地位や財力のある人であっても、その力を、自分を支える多くの人々の
幸せに使うと言うのではなく、独裁的に自己の欲望の為に使うと言う
リーダーの暴走が目立ちます。
かつて、歴史上には、いくらでも多くの暴君が在り、様々な虐待行為で
多くの人達を傷つけてきたのですが、20世紀後半からは、次第に、
世界的な民主化運動が高まり、それまで虐待されていた人達が解放され
平和に向かって世界が進むのではと期待されていたのですが、
新たなる指導者たちは、平和な民主国家を望むと言うのではなく
豊かな経済を独占し、更には、自らの独裁制を強化する傾向が出て
来ました。
この事は、一般の国民から逸脱した人物が生れて来たと言うよりは、
全ての国民を代表する人物が、リーダーと成って来たと言えるのです。
今や、世界の情報を網羅するネットの発達により、地球上全ての人間に
平等の情報が配信されるようになりました。
それに伴い、人々の価値観が共通化してくるようになったのです。
生活苦にあえぐ人達であっても、溢れる資産を有する人達の豊かな暮らしを
ネットを通じて知る事が出来、誰もが、人間としての欲望を最大限に高める
結果と成り、全ての人類が、自分達の目的や価値観を、豊かな人達と
同等である事を求め始めたのです。
そして、少しでも経済的に豊かに成る事が、自分達の幸せに繋がるとし
周囲の人達を蹴落としても、自分がより社会的地位を成す事を求め
始めたのです。
世界中の人類のほんの数%の人達の豊かな生活が、誰もが求める生活と成り
現実の生活には常に欲求不満の状態と成っているのです。
社会の底辺から、彼らが望むトップのクラスまで、その誰もが、上の世界しか
価値観を感じていないのです。
そして、理想に少しでも近づく事が、人生の目的であり幸せとしているのです。
自分の上に居る人の足を引っ張り、下にいる人は蹴落としても、自分自身の
社会的価値が高まる事を目的とした生活は、周囲の人の気持ちが感じられず
人と関わる時は、利害関係が生れる時だけなのです。
この社会傾向は、たとえ、人々のトップに成ったとしても、心の中は同じであり
自分の地位や環境には興味が有っても、自分を支えたり期待している多くの人に
何の思いも無く、ただ、社会的地位としてのノルマを果たす事しか考えていません。
つまり、大会社のカリスマ経営者であっても、国のリーダーであっても、
頭の中は、自分の欲望が溢れているのです。
社会的地位があって、欲望を果たせる方々は良いのですが、国民の大多数は
欲しい物を我慢して、生きる為に必至に働いているのが現状です。
しかも、この働きは、豊かな人達をより豊かにする為の物であり、
消費経済社会で生きて行く為の手段としての利益を得ているだけなのです。
所が、日本社会に於いては、生きて行く為の支出を生み出すだけで、
多くの国民が四苦八苦していて、更なる社会の要求に苦しい毎日を
歯を食いしばって生きている人がとても多いのです。
確かに、遠い昔の身分制度が国民を支配していた頃に比べれれば
現代人は、遥かに豊かな生活をしていると言えるかもしれませんが、
心の余裕は、毎年無くなって来ているのは大きな違いと言えます。
経済的豊かさは増しても、身の回りの人と生きて行くことの喜びは
殆ど感じられない国民が多く、同じ地域や環境に生活しているとはいえ
全くお互いに話す事もない、日常的に接触しない生活を行っている人が
とても多いのです。
同じマンションに住んでいても地域に住んでいても、殆ど誰がいるのかが
解らなかったり、例え、隣の人であっても、口をきいた事もないとする方が
珍しくないのです。
集団で住んでいるにも関わらず、日本人の孤立化が顕著に成っているのです。
独居老人は既に珍しくなく、若者達であっても、地域の集まりや会合に
積極的に参加する事は殆ど無く、ネットを通じて関わる人よりも、遥かに少ない
人間関係で孤立している人が多くなっているのです。
若い人達は、ネットを通じても十分に分かり合えるとする人も多いのですが、
実際に人と面し、言葉を通じて動作を伴いながら同じ空間で関わる事は、
その情報量は遥かに違うのです。
私達は、自分の頭の中の記憶や経験に当てはめながら様々な判断を仕様としますが
実際は、無意識に感じている膨大なる情報がやり取りされているのです。
文章を持って説明できる事は、本当に限られた情報であり、私達が環境から得ている
膨大なる情報は、自分の持っている情報とは比べ物にならない程多彩なのです。
例え博学な人が分析的に説明したとしても、それは人間が理解できる頭の中で
認識している狭い範囲の情報であり、私達が無意識に五感で感じている情報には
到底及ばないのです。
ネットが発達して、近年は、AIの進歩によって、人間より遥かに能力が高い機械が
人類を支配するのではと危惧されていますが、どんなに豊かな情報を持っていても
人間自身が無意識に感じている情報量は、機械が世界中から集める情報よりも
遥かに多く、ただ、自分自身でその全てを認識できないだけなのです。
然し、人は、様々な環境に晒されたり、人と対面すると、目や耳でやり取りする
外見的な情報以上に、多くのものを体感していて、説明できない様々な情報が
その後の考え方を支配している事も多いのです。
何の遜色も無く、全てが理想的な相手を目の当たりにして、何か説明できないけど
何となく嫌と言う言葉を発する女性が多くいますが、不満な点が何も見つけられなく
全てをチェックしても最高のお相手でありながら、拒否反応を示す女性には、
言葉や知識で説明できない何かの情報を感じ取っていると言えるのです。
この何となく嫌とか何となく好きとか、説明できない情報を多く持つのが人間と言え
言葉で説明できない答えの無い様な曖昧な感覚が人間にとって一番大切で有り、
その膨大なる違和感を少しづつ解決し生活に役立てて来たのが文明の発達と言えます。
現代社会に於いて、より明確な答えが有り、的確な意思表示が出来、社会の要求を
満たす能力のある人材が好まれていますが、果たして、彼らが、本当に社会にとって
周囲の人達にとって理想的な人間と言えるかは、即断はできないのです。
テレビ番組に引っ張りだこの利発な子役は、大人顔負けの弁舌で周囲を驚かせ
将来を期待されますが、実際、大人に成った時、期待ほどの活躍が出来るとは
限りません。
また、今どきの子供であっても、人前で一言も話せなかったり、周囲の事に気を配れず
極めて自分勝手な振る舞いをして大人達を困らせる場合が有りますが、
大人たちにとって、余りいい子とは言えない彼らが、将来社会にとって
相応しくない人間になってしまうとは、誰も言えないのです。
つまり、言葉として態度として出せる意思表示は、人間としての価値判断の基準と
成らず、有るとしたら、周囲の大人たちの思い通りに成ったり、利益の対象と
成っているだけなのです。
例え、ネットの情報を誰よりも多く知っていても、様々な知識を持っていても
そのことで、人間としての価値が高いとは言えないのです。
しかしながら、現代社会は、道具として使われる言葉や社会的地位や財産を持ってしか
人の価値を感じられない人で溢れている事から、人よりも地位や財産や知識が有れば
人間的価値があると判断してしまうのです。
その結果、時に、その様な地位に在る人が、不祥事を起こしたり、欲望に任せて人々を
騙したり利益を誤魔化したりすると、大きな話題と成ってしまうのです。
つまり、どんなに豊かな暮らしをしていても、本当に本人の人間的価値を感じて
居なければ、誰も寄り付かないのですが、多くの場合、利益を目論むことが
出来る事から、砂糖に群がる有りの様に、常に多くの人が集まっているのです。
国民の多くが、自分自身の価値観を高めず外見的な豊かさに心を奪われている様に、
国の代表も財界のリーダーも、その延長上で生きていて、欲望に対する触手が
様々な犯罪を生んでいるのです。
この人間関係が希薄と成っている世界に在って、いかに幸せに生きるかは、
自分自身の心を一体何で満足させるかによって決まってくるのです。
多くの人が求める社会的価値を持って満足させようとしている限り、
いつまで経っても欲求不満で、心の休まる日はやって来ないのです。
自分自身の本当の気持ちを満足させるものは一体何なのか、それは常に変貌する
社会価値ではなくて、一生を通じて自分の心を育てる安心と生きる価値観なのです。
やはりこれは、同じように生きている人間の心を持って作り出すしかないのです。
簡単に言えば、心の敵を作らず見方を作る事です。
心の敵とは、第一に、経済的価値や社会的豊かさを持って自分と接して来る人達です。
彼らは、どんなに魅力的な言葉や情報を持っていても、心の中は自分の利益しか有りません。
有りません。
味方とは、現在だけでなく未来まで、自分の心をサポートしてくれて、その為に、常に
この世に生きる自分の価値を認めてくれる人です。
人は生きている意味と価値を失うと、途端に気力が失せ、未来への希望を失ってしまいます。
この生きる意味や価値を、社会的に豊かな生活としてしまう事で、現実の自分と
社会が認める自分とのギャップに苦しむのです。
AIは、ある意味、完璧な答えを引き出してくれます。
然し、人間の心は、完璧でない答えを求めたり、更には、間違った答えを要求すると言う
複雑な心理に陥る事も有り、ある意味、答えの決まらない世界に生きているとも
言えるのです。
時と場合、環境によって、答えが様々に変化して行くのが人間の世界とも言えます。
それまで大嫌いであった物が突然大好きに成ったりする事も珍しくなく、人間の心は
様々な情報と答えが混とんとしているのです。
それ程曖昧で答えを見いだせない人の心を理解するには、単なる情報や知識だけでは
とても満足できないのです。
一日の内でも、人の心は次々に代わって行くもので、まるで気象変化の様に、
同じ景色も空も無いのです。
その為に、その都度、感じる力感動できる力が必要であり、常に対人的に
人の思いを感じる心を育てて行かなければならないのです。
日本人の苦悩は、経済的に豊かに成ったものの、人の心を感じる力を育てず、
利害関係だけで対人的なやり取りをしようとした事に依って生まれたのです。
人は、ほんの瞬間の仕草で、その人の心を理解する事が出来、その考える以前に
感じる力が人間関係を豊かにしていると言えるのです。
素晴らしい俳優さんは、その微妙な人の心の動きを、身体の様々な部分で演じます。
私達は、日常的に、人の姿を感じる事に依って自分の行動を決めているとも言えます。
何をして欲しいのか何を求めているかを、活舌よろしくはっきりと示したとて
それは子供達の利発とも思えるセリフに過ぎず、人として成熟する為には、
日常的な様々な人のサインを感じられる事が重要と言えます。
現代社会は、如何にはっきりとイエス、ノーを言える事を求めます。
何故なら、曖昧な態度やはっきりしない行動では、社会生活が滞るからです。
誰もが理解できる態度や言葉で、しっかりと意思表示が出来れば良しとする世界です。
しかし、人間の心は、そんなに単純では有りません。機械であったらその方が便利で
簡単なのかも知れませんが、人間の心は、数千色の色の違いの様に複雑です。
故に、個人としての価値が有り、一人一人の個性が尊重されるのです。
今や社会システムは、より便利にスムーズにする為に、全ての組織が瞬時に繋がる
ハッキリとした意思表示を求めます。
つまり、この社会を支配する人が世の中の中心と成っているのです。
確実な損得を考えられる、利益を最も確実な物と出来る人が社会を牛耳って
いるのです。多くの国民の曖昧な心を理解できるはずはないのです。
経済的豊かであっても、一向に国民が豊かに成れず、誰もが心が満たされず
ただ、欲望だけを満たそうとする生活に幸せは有りません。
例え経済的に豊かな人達で有っても、欲しい物を手に入れる事しか
考えられず、いつまで経っても心休まる日々は訪れないのです。
欲望のままに生きる人達が居る一方、世界には、本当に心から幸せを望む人は多いものです。
しかし、経済的豊かさが幸せと洗脳されている限り、人類には幸せは訪れないのです。
何十年後か、人類の力ではどうにもならない破局の時代と成った時、生き物達にとって
本当に幸せな地球が生れるのかもしれません。地球環境の破壊者として君臨している人類は
どんなにあがいても、絶滅を免れないと言えるからです。