いよいよ都内の桜も満開と成って来ました。
これまで、桜の枝の間から、後ろの景色が良く見えていましたが、
今日は、大きく咲き誇った桜が、ややピンクがかった大きな帯と成り
まさに、春爛漫と言った風景です。
気温も確実に上がって来て、沢山の観光客が、途切れることなく
遊歩道の上を行き来しています。
世の中が余り良い状態とは言えないものの、この時ばかりは、
どの顔も桜の花の様に笑顔がいっぱいで、大人も子供も
海外からいらした方々も同じ微笑みが溢れていて、
世界中の人々にこんな笑顔が見られたらと思うと、今更ながら
いかに平和が大切かと心から思わされます。
今年は、全面的に宴会中止の垂れ幕が張られ、何処を歩いても
整然と歩く人々と、カメラやスマホを空に向ける方々ばかりです。
所々に桜祭りの為の屋台や私設商店が並んではいますが、
場所を大きく取り、行き交う人々の道を塞いでいる様な光景が
見られない事は、ゆっくり桜を愛でる人たちにとっては
非常に喜ばしい事でもあります。
毎年大問題と成っていた、ゴミや交通渋滞がかなり緩和され、
歩く人々のマナーも良くて、正に理想的なお花見風景と思われますが、
これが、お花見をする私達日本人の求めるものかと言えば、多少なりとも
疑問が沸いてきます。
確かに、遊歩道を占拠したり、沢山の飲食物を持ち込んで、飲めや歌えの
宴会は、多くの人々に迷惑が掛かるものです。
私も、かつての目黒川周辺のゴミの酷さや、人々のマナーには辟易し
何とかならないかとも思った時期も有りました。
しかし、お花見をする文化と言うのは、日本人が何百年に渡って培った
春を祝う大切な文化でもあるのです。
その時、お花を見るだけでなく、家族や友人たちと、お花の下で語らう事は
日本人が自然と一体となる大切な時間でもあったのです。
美味しいものを食べ、アルコールで心を開き、普段と違った寛ぎの時間を
太古の昔から楽しんできたのです。
今や、桜見だけでなく、様々な場所で、禁止の文字が乱立しています。
美しい公園が出来ても、禁止事項がやたらと目に付きます。
しかしながら、何故禁止なのかと言う、しっかりとした理由も無く、
ただ、排除する様な排他的な禁止事項が余りにも目に留まります。
この、禁止と言う言葉は、本来、人々にとって危険であったり、不利益に
陥ったりしない様に促す為に有るものです。
つまり、その言葉の後ろには、私達の利益と成り、喜びに繋がる物が
存在してこそ意味が有るのです。
しかしながら、近年の公共の場における禁止事項は、単に、主催者や
管理者の都合によって使われる事が多くなっています。
自分たちの利益を守る為に無駄な仕事を増やさない為の禁止事項であり、
排他された人々には何の利益も有りません。
お花見に於いても、様々な気持ちで花を楽しむ人が居るのです。
花自体を見て楽しむ人も、人生を想う人、これからの未来を考える人と
様々な思いで観ているのです。
その中で、お花見をしながら宴会をすると言うのも、長い日本の伝統なのです。
伝統文化と言うものは、その時代時代によって変わって来るもので、昔から
その楽しさを伝えながら現代に続いているのです。
太古の昔から日本人が親しんできたこの春を迎える文化は、桜の花と共に
私達日本人に根付いているのです。
しかし、何故、問題と成っているのか。
それは、宴会が悪いのではなく、桜の花を増やして、花見客を呼んだだけで
伝統を生かす場を全く用意しなかったからです。
当然沢山の人がやって来ます。そんな人たちの中に、必ず、桜の花の下で
語らい飲み食べる事を目的とする人がいるのです。
花見客が増えれば、当然、宴会客も増えるのです。
自分たちの利益のみを考えていると、いつの間にかゴミの山が増え、
トラブルが増えてくるのは必然なのです。
もちろん、お酒や食事を桜の下でする事を好まない人も多いです。
しかし、様々な人を引きつけるのが桜の花なのです。
誰もが、思いを遂げられる様、受け入れる側は考えて会場を作るべきなのです。
歩いてお花を見る人も気持ち良く、宴会をする人も気持ち良くお花見が出来る事が
主催者が考える大切な事なのです。
単に、宴会禁止の大きな垂れ幕を幾つもぶら下げても、宴会をする人達も
しない人たちも余りいい気分とはならないのです。
様々な立場の人たちが、桜の花を見た時と同じ気持ちに成るようにすることが
周辺の主催はが常に考えなければならない事なのです。
そして、この美しい桜並木が、未来永劫人々に喜びを与え続けるには、
観賞する私達側からも、しっかりとしたマナーと協力が必要なのです。
理想は、禁止事項を掲げなくとも、誰もがお互いに相手の気持ちを察して
桜だけでなく人間関係も美しい桜祭りと成る事です。