ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

観月会

2016年09月15日 20時15分19秒 | 田舎暮らし


今日は中秋の名月。
中秋というのは旧暦では8月・9月・10月が秋。
その真ん中の9月の満月なので中秋。
あちこちで観月会があってる・・・らしい。

でも夜にわざわざ車を運転してまで見に行く気には到底なれないし、
月だったら我が家からも見れる。
それに夜は大切な晩酌タイム。
どうして観月会を昼間にしないのか?
それだったら見にくのに・・・
と、わけのわからないことを思いながら、いつものように呑んでいる。

 月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月

このダジャレみたいな歌を思いつつ・・・
いつものように呑んでいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎(3)~墓参り

2016年09月15日 12時45分43秒 | 長崎
長崎の「3か」とは「坂・墓・馬鹿」
坂が多く、周りの山には墓ばかり、そして馬鹿が多い(?)
長崎は江戸時代は天領でオランダ船が入ってくると町の人も潤った。
それで年中祭りに明け暮れのほほんと暮らしていた。
それで馬鹿が多いという話・・・ではなくて墓の話。

長崎の墓は山の中腹にある。
(よそに行って平地に墓があるのを見てびっくりした)
そのため墓参りは大変で山を上り下りしないといけない。
でもお盆の時は、とっても美しくにぎやかな夜景を見ることができる。
墓場では花火を打ち上げ初盆のところは墓に提灯をいっぱいたてる。

長崎の墓から見る港も美しい。
幕末から明治にかけて多くの外国人がやってきた。
そしてみな怪訝に思った。
見晴らしの良いところに墓と畑しかない、日本人は土地の使い方を知らない!と
そして丘に家を建てた。
それが今の南山手や東山手。
でもそれは必ずしもあたっていない。
海援隊の亀山社中は丘の上、坂や階段をかなり上らないとたどりつけない。
観光客はあまり行かないけど、行った人はきっとうんざり。
昔はそこから港が見えたのでとても景色がよかった。



港に豪華客船が入っていた。
(前来た時も豪華客船が見えた)
長崎では造船所があるからかよく大きな船が入ってくるけど豪華客船の大きさには圧倒される。
10階建てあるいはそれ以上の高さのビルが海に浮かんでいるのだから。
大きさだけならもっと大きなタンカーもあるけど、だだっ広いだけのタンカーと違ってとっても存在感がある。

墓は大音寺の境内にある。
ここは長崎では由緒のある寺。
隣の皓台寺ももっと由緒がある。
(我が家の墓はまったく由緒はない!)
でも由緒があるといっても建立は大音寺は1614年、皓台寺は1608、長崎市民の氏神、諏訪神社は1625年。
寺社でもっとも古いのは生まれ育った町、稲佐町にある悟真寺、それも1598年。
長崎は歴史の町?
いえいえ実はとっても新しい町。
16世紀から始まった町。
どうしてそれ以前の史跡や寺社がないの?
それはキリスト教徒によってすべて破壊されたから。
長崎のキリスト教徒は過酷な弾圧された歴史、
でもその前に弾圧した歴史もあるのだよ。
(歴史を一面だけで見てはいけない)
そしてたくさん作られた天主堂(教会)もまたみな破壊された。
奈良や京都をはじめ日本には古い寺社がたくさん残っているのに、どうして長崎ではみな破壊されてしまったのか?
仏教や神道と一神教との違いをついつい思ってしまう。



境内には由緒ありげな墓が草に覆われ荒廃している。



ここはシーボルトの妻と娘そして愛弟子の墓。
お瀧さん(おタキさん)とお稲(オランダおいね)さん、そしてシーボルトが追放になった後二人を保護した二宮先生の墓。
お瀧さんはシーボルトが愛した花、アジサイの学名「オタクサ」に名前が残っている。
おいねさんは青い目、高い鼻、とっても美人だったらしい。
でも江戸時代、差別されてつらい半生を送ったことだろう。
そして波乱の人生を送ったあと、故郷長崎と決別して東京で日本最初の産婦人科医になった。
でも今、ここ長崎にひっそりと眠っている。









これはイギリスの戦艦が出島のオランダ商館を襲った事件。
このためにその責任をとって切腹した長崎奉行の墓。
最近読んだ小説「出島の千の秋」にもフェートン号事件らしき挿話がでてくる。



長崎は墓の町。
観光客が訪れることのない、稲佐や坂本町の外人墓地やこのような古い墓地に眠る草に覆われた墓も探訪してほしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする