望月 信成、佐和 隆研、梅原 猛 「続 仏像―心とかたち 」読了
続編は弥勒菩薩そしてその他の菩薩にまつわる記述から始まる。
そして憤怒の様相を呈する明王、四天王をはじめとする武神やその他の天部から達磨や墨画の禅美術に進んでゆく。
明王の解釈では、通常、仏の道に帰依できない衆上に対して、どうしてそうなんだ!という明王の心が憤怒の形相として現されているとされているけれども、著者はもっと踏み込み、それは人々自身が煩悩を捨て去れない自分自身の心に対する怒りなのだと解釈している。自分自身を映している。そういうことだ。
そしてその怒りの様相を如来、菩薩の穏やかな表情と比較し、前者はデュオニソス的表現、後者はアポロン的表現と表し、理知的、論理的なことばかりでは人は退屈してしまう。そんな中から生まれてきたのがデュオニソス的な明王なのだ。
そんな衝動的な面をもっと突き詰めて生まれてきたのが天部である。
そこには難しいことはわからない、しかし即効でご利益が欲しい、そんな人々の願いを満足させるためにさまざまな天部が生まれた。ほとんどの天部は元は仏を守る武神であったけれども、人々へご利益を授けるころにはにこやかな表情に様変わりをしている。七福神がその好例だ。
賽銭だけで食っていけるのはここら辺の仏様だけだと書かれているのがおもしろい。
しかし、天部たちにはもうひとつの役割がある。地獄の思想を人々に植え付けることである。仏の道に背くと地獄で苦しい目に遭うのだというのだが、著者は西洋の地獄の観念と比較し、仏教の十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)から三千世界の例を上げる。
地獄界は死後の世界のものではなく、現実の世界、今がそのものだ。太宰の文学を例に、日本の文学は地獄なしに成り立たない。それが人の心そのものだとしながら、しかし地獄の中にもまた十界が存在する。人の心は入れ子のようなものなのだ。悪いことばかりではない。
著者は、福の神や三千世界の解釈というのは日本人のやさしさが生み出した画期的な考えであり、表と裏をはっきり区分けしようとする西洋文明を追随しているような現代(この本が書かれた1960年代半ば)からこのような東洋的な思想が見直されていく時代が来るに違いないと言っているがその50年後、まさにその予言が的中しようとし始めているのかもしれない。
そして梅原曼荼羅というべき解釈が展開される。
釈迦、大日、阿弥陀、薬師の四如来を中心にさまざまな仏の心とその歴史的な移ろいを分析している。
釈迦と大日、阿弥陀、薬師をそれぞれ対比の軸として、釈迦-大日の軸では現在と未来の対比し、阿弥陀-薬師の軸では観念と実際の対比で曼荼羅を組んでいる。
釈迦は弥勒、達磨へと続いてゆく。今を生きるすべを導く仏たちだ。倫理観であったり、人間らしい立場をとる。
弥勒菩薩は56億7千万年後の未来に出現する仏であるが、釈迦の生まれ変わりとされているからここに置かれる。禅を代表する達磨も欲望を捨て去って生きる方法を教えている。
対して大日は観念を超えた形而上学的な、もしくは宇宙観を示すものである。密教が生み出した明王や観音がそれに続く。
阿弥陀は浄土、地獄、地蔵の救済という想像の世界を現しており、薬師は健康や幸福などの実利を求める仏で天部とともに区分けされている。
そして人々の心は時代ごとにその軸の間を行ったり来たりしているというのだ。阿弥陀に振れるとその後の時代にはまたゆり戻されて薬師のほうに動いてゆく。釈迦の教えから導入された仏教はその後大日如来の密教が隆盛を迎え、日蓮がそれを釈迦の思想に引き戻した。(そういえば今は高野山がけっこうブームだから再び軸が動き始めたともいえるのだろうか?)
それを繰り返してきたというのだ。これは奈良時代から平安、鎌倉、戦国時代までの話で、平和な時代が訪れると、中心にいる如来様たちへの信仰は薄れ、その後ろにいらっしゃる仏様への信仰が増えてくる。かろうじて阿弥陀様だけが面目を保っているというところである。
今のなんでも簡単に済ませてしまうファストやコンビニエンスな生き方というのはその延長線上にあるのかもしれない。
それはそれでなんとも悲しい時代になったものだ。
この本は正編と共に同じタイトルのNHKのテレビ番組から生まれたものだ。哲学者である梅原猛はこの番組から仏教に興味を持ったという。そしてこの著作が「梅原日本学」の始まりとなったものであり、偶然とはいえ、この本を手にできたということはうれしい限りだ。
続編は弥勒菩薩そしてその他の菩薩にまつわる記述から始まる。
そして憤怒の様相を呈する明王、四天王をはじめとする武神やその他の天部から達磨や墨画の禅美術に進んでゆく。
明王の解釈では、通常、仏の道に帰依できない衆上に対して、どうしてそうなんだ!という明王の心が憤怒の形相として現されているとされているけれども、著者はもっと踏み込み、それは人々自身が煩悩を捨て去れない自分自身の心に対する怒りなのだと解釈している。自分自身を映している。そういうことだ。
そしてその怒りの様相を如来、菩薩の穏やかな表情と比較し、前者はデュオニソス的表現、後者はアポロン的表現と表し、理知的、論理的なことばかりでは人は退屈してしまう。そんな中から生まれてきたのがデュオニソス的な明王なのだ。
そんな衝動的な面をもっと突き詰めて生まれてきたのが天部である。
そこには難しいことはわからない、しかし即効でご利益が欲しい、そんな人々の願いを満足させるためにさまざまな天部が生まれた。ほとんどの天部は元は仏を守る武神であったけれども、人々へご利益を授けるころにはにこやかな表情に様変わりをしている。七福神がその好例だ。
賽銭だけで食っていけるのはここら辺の仏様だけだと書かれているのがおもしろい。
しかし、天部たちにはもうひとつの役割がある。地獄の思想を人々に植え付けることである。仏の道に背くと地獄で苦しい目に遭うのだというのだが、著者は西洋の地獄の観念と比較し、仏教の十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)から三千世界の例を上げる。
地獄界は死後の世界のものではなく、現実の世界、今がそのものだ。太宰の文学を例に、日本の文学は地獄なしに成り立たない。それが人の心そのものだとしながら、しかし地獄の中にもまた十界が存在する。人の心は入れ子のようなものなのだ。悪いことばかりではない。
著者は、福の神や三千世界の解釈というのは日本人のやさしさが生み出した画期的な考えであり、表と裏をはっきり区分けしようとする西洋文明を追随しているような現代(この本が書かれた1960年代半ば)からこのような東洋的な思想が見直されていく時代が来るに違いないと言っているがその50年後、まさにその予言が的中しようとし始めているのかもしれない。
そして梅原曼荼羅というべき解釈が展開される。
釈迦、大日、阿弥陀、薬師の四如来を中心にさまざまな仏の心とその歴史的な移ろいを分析している。
釈迦と大日、阿弥陀、薬師をそれぞれ対比の軸として、釈迦-大日の軸では現在と未来の対比し、阿弥陀-薬師の軸では観念と実際の対比で曼荼羅を組んでいる。
釈迦は弥勒、達磨へと続いてゆく。今を生きるすべを導く仏たちだ。倫理観であったり、人間らしい立場をとる。
弥勒菩薩は56億7千万年後の未来に出現する仏であるが、釈迦の生まれ変わりとされているからここに置かれる。禅を代表する達磨も欲望を捨て去って生きる方法を教えている。
対して大日は観念を超えた形而上学的な、もしくは宇宙観を示すものである。密教が生み出した明王や観音がそれに続く。
阿弥陀は浄土、地獄、地蔵の救済という想像の世界を現しており、薬師は健康や幸福などの実利を求める仏で天部とともに区分けされている。
そして人々の心は時代ごとにその軸の間を行ったり来たりしているというのだ。阿弥陀に振れるとその後の時代にはまたゆり戻されて薬師のほうに動いてゆく。釈迦の教えから導入された仏教はその後大日如来の密教が隆盛を迎え、日蓮がそれを釈迦の思想に引き戻した。(そういえば今は高野山がけっこうブームだから再び軸が動き始めたともいえるのだろうか?)
それを繰り返してきたというのだ。これは奈良時代から平安、鎌倉、戦国時代までの話で、平和な時代が訪れると、中心にいる如来様たちへの信仰は薄れ、その後ろにいらっしゃる仏様への信仰が増えてくる。かろうじて阿弥陀様だけが面目を保っているというところである。
今のなんでも簡単に済ませてしまうファストやコンビニエンスな生き方というのはその延長線上にあるのかもしれない。
それはそれでなんとも悲しい時代になったものだ。
この本は正編と共に同じタイトルのNHKのテレビ番組から生まれたものだ。哲学者である梅原猛はこの番組から仏教に興味を持ったという。そしてこの著作が「梅原日本学」の始まりとなったものであり、偶然とはいえ、この本を手にできたということはうれしい限りだ。
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