ことしもあとわずか、
この1年を振り返ってみる。
今年の最大の成果は真鯛をコンスタントに釣り続けることができたことだろう。
初釣り~春、秋、冬と数は少ないもののそれなりの釣果をあげることができた。
正月早々初釣りからの釣果はうれしいものだ。
高仕掛けの操作法に慣れたのと、竿の性能が物を言っていると考えている。市販のカーボンロッドより、中古の部品を寄せ集めた手作り(ヘッポコ)の竿のほうが好釣果というのも皮肉なものだ。秋にはさらに改良してグリップを持ちやすくしてみたが、これも手作りの楽しさだ。すべて手作りの道具立てで釣り上げた魚だからよけいにうれしさが増すというものだ。もうちょっといいパーツを使ってあげてもよかったのではなかったか・・・。
少しは父親に近づくことはできただろうか。しかし、PEラインとGPSと機動力のある船の恩恵を受けての実力だから、ある意味、永遠に追いつけないのかも知れない。
空白だった8月には久々にスズキを釣り上げることができた。少しは釣り方がわかってきたので来年は新しいローテーションに組み込むことができるだろう。これは楽しみだ。しかし、釣れる魚の数より購入するルアーの数のほうが増えてしまうのはなんとかならないだろうか。
毎度のキス、アジサバ、タチウオ、イカについてはそれぞれ、キスは×、アジサバは◎、タチウオは×、イカも×というところだろうか。
キスはスタートが遅く、おまけに数釣りができたのはわずかに2回だけだった。
初島まで遠征しても釣れないものは釣れないのだ。
チョクリはサバの型が例年になくよかったと思う。
それに10月に入ってもチョクリができるのを知ったのは収穫だ。この時期は脂が乗ってマルアジでも美味しくなる。
タチウオは数釣りができたのはわずかだった。最後は子供用のネクタイサイズが1匹で撃沈だ。
イカはバッチ網に邪魔をされて釣りをする時間がほとんどなかったのが残念だ。
磯釣りのほうはさっぱりで終わってしまった。春からのシーズンでは結局、2回しか磯に立つことはできなかった。春は年なしのチヌを上げることはできたが、午前中で終わってしまう船の釣りに慣れてしまうと、高速道路が2車線になったとはいえ夜中に出発して夕方暗くなってから帰宅する釣りは経済的にも非常につらいものになってしまう。
まあ、一度磯に立ってしまうとそれはそれでやっぱり岩に砕ける波音はいいものだとは思うのである。
幸福ということを相対論で述べると、これからもっと幸福になれるという確信があると、現在は「不幸である。」ということになるそうである。一方、これから先、これ以上いいことが起こりそうもないと想像できると、現在は「幸福である。」となる。
何かを得ようと思えば何かを捨てなければならない。船の釣りが多くなってくると必然的に磯の釣りは少なくなってくる。決まった休みの数と資金の中では仕方がないことである。体力もどんどん落ちてくる。
気力もどうだろう。マル○シの広告を見てもあれが欲しい、これが欲しいといういう欲求も沸いてこない。朱夏の頃をすぎて白秋の時代に入ったのかもしれない。そういうことだから相対論で考えれば、今が「幸せだ。」といえる状態であるのかもしれない。
なんとか新しいこともしたいと思って、船着場の船の上から小あじを狙ったり、周参見の防波堤から紀州つりをしたりと、変な釣りもやってみたが、どれもしょぼい釣りばかりだ。しかし何はともあれ針と糸と竿があれば何でも楽しいのも事実である。
海外に行ったり大型クルーザーを駆ってでっかい魚を狙うなどということは夢のまた夢で、上を見たらきりがない。
だから今が一番幸せと思っておこう。
あとは限られた釣りの機会の中で、どれだけ魚を釣り上げるかだ。
孔子は、「子、釣(つり)して綱(こう)せず。弋(よく)して宿を射ず。」と言ったそうだが、やっぱり釣れるだけ、クーラーがいっぱいになるまで魚を釣りたい。
我欲の強い僕はやっぱり第一住心からは抜け出せそうにない。
震災や北の将軍様が死んじゃったとわかった日も釣りをしていたり、スパンカーの柱が折れたりと世間も自分も太平にすごせたとは言えないが、来年はぜひとも平和で安全で魚釣りを続けたいものだ。
今年も財布の中に入れている薄っぺらくなった潮時表を新しいものに入れ替えて新年を迎えよう。
そして、この1年、ぼくのヘッポコブログを見てくれた皆様、ありがとうございます。
そして、来年もよろしくお願いいたします。
この1年を振り返ってみる。
今年の最大の成果は真鯛をコンスタントに釣り続けることができたことだろう。
初釣り~春、秋、冬と数は少ないもののそれなりの釣果をあげることができた。
正月早々初釣りからの釣果はうれしいものだ。
高仕掛けの操作法に慣れたのと、竿の性能が物を言っていると考えている。市販のカーボンロッドより、中古の部品を寄せ集めた手作り(ヘッポコ)の竿のほうが好釣果というのも皮肉なものだ。秋にはさらに改良してグリップを持ちやすくしてみたが、これも手作りの楽しさだ。すべて手作りの道具立てで釣り上げた魚だからよけいにうれしさが増すというものだ。もうちょっといいパーツを使ってあげてもよかったのではなかったか・・・。
少しは父親に近づくことはできただろうか。しかし、PEラインとGPSと機動力のある船の恩恵を受けての実力だから、ある意味、永遠に追いつけないのかも知れない。
空白だった8月には久々にスズキを釣り上げることができた。少しは釣り方がわかってきたので来年は新しいローテーションに組み込むことができるだろう。これは楽しみだ。しかし、釣れる魚の数より購入するルアーの数のほうが増えてしまうのはなんとかならないだろうか。
毎度のキス、アジサバ、タチウオ、イカについてはそれぞれ、キスは×、アジサバは◎、タチウオは×、イカも×というところだろうか。
キスはスタートが遅く、おまけに数釣りができたのはわずかに2回だけだった。
初島まで遠征しても釣れないものは釣れないのだ。
チョクリはサバの型が例年になくよかったと思う。
それに10月に入ってもチョクリができるのを知ったのは収穫だ。この時期は脂が乗ってマルアジでも美味しくなる。
タチウオは数釣りができたのはわずかだった。最後は子供用のネクタイサイズが1匹で撃沈だ。
イカはバッチ網に邪魔をされて釣りをする時間がほとんどなかったのが残念だ。
磯釣りのほうはさっぱりで終わってしまった。春からのシーズンでは結局、2回しか磯に立つことはできなかった。春は年なしのチヌを上げることはできたが、午前中で終わってしまう船の釣りに慣れてしまうと、高速道路が2車線になったとはいえ夜中に出発して夕方暗くなってから帰宅する釣りは経済的にも非常につらいものになってしまう。
まあ、一度磯に立ってしまうとそれはそれでやっぱり岩に砕ける波音はいいものだとは思うのである。
幸福ということを相対論で述べると、これからもっと幸福になれるという確信があると、現在は「不幸である。」ということになるそうである。一方、これから先、これ以上いいことが起こりそうもないと想像できると、現在は「幸福である。」となる。
何かを得ようと思えば何かを捨てなければならない。船の釣りが多くなってくると必然的に磯の釣りは少なくなってくる。決まった休みの数と資金の中では仕方がないことである。体力もどんどん落ちてくる。
気力もどうだろう。マル○シの広告を見てもあれが欲しい、これが欲しいといういう欲求も沸いてこない。朱夏の頃をすぎて白秋の時代に入ったのかもしれない。そういうことだから相対論で考えれば、今が「幸せだ。」といえる状態であるのかもしれない。
なんとか新しいこともしたいと思って、船着場の船の上から小あじを狙ったり、周参見の防波堤から紀州つりをしたりと、変な釣りもやってみたが、どれもしょぼい釣りばかりだ。しかし何はともあれ針と糸と竿があれば何でも楽しいのも事実である。
海外に行ったり大型クルーザーを駆ってでっかい魚を狙うなどということは夢のまた夢で、上を見たらきりがない。
だから今が一番幸せと思っておこう。
あとは限られた釣りの機会の中で、どれだけ魚を釣り上げるかだ。
孔子は、「子、釣(つり)して綱(こう)せず。弋(よく)して宿を射ず。」と言ったそうだが、やっぱり釣れるだけ、クーラーがいっぱいになるまで魚を釣りたい。
我欲の強い僕はやっぱり第一住心からは抜け出せそうにない。
震災や北の将軍様が死んじゃったとわかった日も釣りをしていたり、スパンカーの柱が折れたりと世間も自分も太平にすごせたとは言えないが、来年はぜひとも平和で安全で魚釣りを続けたいものだ。
今年も財布の中に入れている薄っぺらくなった潮時表を新しいものに入れ替えて新年を迎えよう。
そして、この1年、ぼくのヘッポコブログを見てくれた皆様、ありがとうございます。
そして、来年もよろしくお願いいたします。
でも、維持するための経費もバカにならないしこれはこれでこの世界じゃ厳しいのかも知れませんね。
ともあれ、またお邪魔するかも知れませんのでご教授お願いいたします。
奈良の土産は何が良いですか?^^ノ
いつもコメントありがとうございます。
そうですね~。魚のいるところに行くのですから、釣れて当たり前なのかもしれません。
船を持つというのは、きっと彼女とおつきあいをするのと一緒なのだと思っています。
いつも気にしててあげないとすぐにへそを曲げるし、お金もかかるし・・・。
でも、それに見合うだけの楽しさも与えてくれるのです。
はたまた秘密基地のようなものでもあります。
いろいろな遊び道具を満載してあっちこっちいけるのはさしずめ、機動要塞というところでしょうか・・・。
どちらにしても楽しい遊び道具です。