鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

個人消費が上向かない本当の理由

2008-02-19 | Weblog
 日本には個人金融資産が1500兆円余ある。だから、国の借金800兆円あっても国全体としてはまだ余剰があることになり、恐れるに足りない、という議論がある。個人的には雲の上のお話で、数字的には確かにその通りかもしれないが、問題はその1500兆円余のほとんどが50歳以上の高齢者の手元にあり、安全確実な運用に回り、一向に消費に向かわないことだ。運用の最大の向かい先は海外の債券、投資信託で、円高にでもなれば一挙に利益も消し飛んでしまう。そうかといって国内は相変わらずの低金利で運用しようにも魅力的なものがなく、専ら海外逃避するばかりである。
 1500兆円余といっても平均5000万円の金融資産を持つ人が500万人、同1億円の人が100万人、同3億円の人が30万人、同3億円の人が10万人、同10億円の人が7万人いれば、その総資産はざっと500兆円になる。この他にも3000万円程度の人が1000万人、2000万円程度の人が3000万人、さrに1000万円程度の人が1000万人いると見られ、これらをトータルすれば1500兆円になるが、3000万円以下の人は住宅ローンなどの負債も同じ程度抱えているとみられ、消費に向かうお金を持っているのはは5000万円以上の金融資産を持つ人に限られることだろう。その大部分が50歳以上の人で、年金生活に入っている人も相当いることだろう。人生80年から90年とすると、先々の生活も考えなければならないし、子孫のためにもいくばくかの資産を残さなければならない。と考えると、この1500兆円余のうち消費に回る部分は極めて少ないだろう。
 中高年のいわゆるシニアマーケットを対象にした商品や雑誌がこれまで数多く発売されてきたが、ことごとく失敗してきている。いずれもが1500兆円余という数字に魅き寄せられ、そのおこぼれに与りたい、と目論むものであった。中高年といっても人様々で、ひとくくりにできない多様性を持っている。
 それと最大の誤算は1500兆円余がいつでも消費に回る、という幻想を抱いていることだろう。確かにGDP(国民総生産)の過半を占めるのは国内消費で、なんだかんだといってこれまで日本経済を支えてきたのは国内マーケットでの活発な個人消費であった。それが、いまや少子化で全体のパイが少なくなっているのと、期待の中高年のオフへの消費支出がパッとしない。
 中高年の消費が振るわないのは定年を過ぎて、決まった収入が見込めなくなったのに資産を減らして消費しよう、とするか、ということである。しかも日本の将来を考えたら、決して明るいものではない。福田康夫首相は相変わらずもたもたして、この日本をどうしよう、としているのか、さっぱりわからない。不安な将来に備えて、できるだけ貯えを残しておこう、という気持ちになるのは当然だろう。
 日本の個人消費を上向かすには何よりも将来に期待が持てるようなヴィジョンなり、夢があってのことだろう。少なくともいまの日本の状況はそうした事態に至ってない。
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優しい応対に心が和み、疲れが吹っ飛んだ

2008-02-18 | Weblog
 17日は今年初めて東京・府中の東京競馬場へ出かけた。かみさんにおにぎりを作ってもらって、寒いので、チョッキの上にセーターを着込んで暖かくして、いつものように意気揚々と電車に乗った。馬場へ着いてみると、日曜日にもかかわらず、観客席は閑散としていて、ゴール近くの特等席を難なく確保できた。双眼鏡を首にかけ、携帯ラジオとスポーツ新聞を持って、パドックに向かった。で、ラジオニッポンを点けると、東京マラソンの中継をやっている。東京競馬場のある府中も東京都なので、開催自体もあるのか、と気になったが、こちらは国(農林水産省)の主催なので、そこまではコントロールが及ばないようである。
 さて、第1レースは3頭の馬の3点買いをしたが、そのうちの1頭が頭には来たが、あとの2頭が着外で、ハズレ。第2レース以降は買った馬が出遅れたりで、さっぱり当たらなくなってしまった。買った馬が出遅れて後方のままだと、騎手の名前を改めて見て、「下手くそ!」と怒鳴りたくなる。時々、買った馬が落馬することがあり、そうした時は止めて帰った方がいい。
 昼時になって、観覧席でかみさんの作ってくれたおにぎりを食べ、水筒のお茶を飲んで一服するも、陽がかげってきて、やはり寒い。馬券は当たらないし、寒いし、よほど止めて帰ろかな、と思ったが、スタンドの裏に大型スクリーンがあるのを思い出し、居場所を室内に代えて、パドックもガラス越しに見ることで、寒さをしのいだ。その櫂あって、身体も暖まり、ようやく第10レースになって愁眉が開いた。ダート2100m走でスポーツ新聞の本命、対抗、穴3頭がよく見え、特に穴の馬がよく見えたので、そのミスターカントリーを頭に馬連、3連複、3連単を買ったら、3頭で入って3連複が当たった。3連単は2着、3着が鼻差で変わり、外れてしまった。久し振りの万馬券獲得となったのに残念なことであった。
 結果は当たったのはそれだけで、収支はややマイナスとなった。で、帰る途中で、スポーツ新聞の調教欄に「ポ」との表示があり、前から気になっていたら、「ポ」とはポリトラック調教のことと出ていたので、インフォメーションコーナーにいる女の子に尋ねたら、3人いる端っこの女の子が進み出てきて、メモ書きしてある小型の手帳をめくりながら、「どうも全天候型のコースのことのようです」と言うので、「素材は、なにか資料はありますか」と聞くと「ちょっとお待ち下さい」と言って電話をかけ始めた。
 しばらくやり取りしていた後、電話をおき、「少し時間がかかりますが、よろしいですか」と聞いてきた。急ぐわけではないので、「いいですよ」と言って待った。数分後、電話がかかってきて、聞いた後にその女の子は「ポリバケツのポリという意味だそうで、詳しいことはそれ以上わかる人はいません。来週までに資料を揃えておきます」と言うので、「来週は来られない。今度は5月にでも」と言ってお礼を言った。
 馬券を買うのに調教タイムは大いに参考となるデータである。そのタイムを判定するのに新しい調教コースができた、とあってはその詳細を知らないと馬券戦術も変わってくる。その迫力にその女の子は必死に答えてくれたわけで、聞けばお客からのいろんな質問をこうして手帳にメモしている、という。チャラチャラしているだけでもなく、きちんと仕事をしている女の子がいる、とホッとした気分になる。
 以前にもこの東京競馬場の観客席の側溝の鉄の蓋の間から万歩計を下に落として、案内の女性に頼んで係りの人を呼んでもらって、取り出してもらったことがる。些細なことでもお客の奉仕しよう、という姿勢を前面に出してくれると有難い気持ちになる。
 インフォメーションコーナーの女の子の胸についている名札の名前を見よう、と思ったが、よく見えなかった。Xさんとでも言うしかないが、Xさんの前向きな姿勢に触れて、心が和み、疲れが一挙に吹き飛んだ。どうもありがとう。

追記 その後、JRA(日本中央競馬会)に電話してポリトラックのことを聞こう、と思って、念のためGoogleで引いたら、なんと出ていた。ポリトラックとは砂に海底ケーブルの廃材として出る電線の被覆材、合成ゴムの破片などとワックスを混合した素材でつくられた全天候型の馬の走るコースで、障害馬術選手のマーティン・コリンズ氏が考案し、英ポリトラック社が開発したものという。すでに英米、カナダでは改良型を含めて実用化されており、ポリトラックを使用した競馬場では悪天候による開催中止が少なく、馬の故障も減少し、芝やダートのように定期的に入れ替える必要がほとんどなく、コストダウンにもつながる、という。ただ、塊となって馬の蹄の裏に付いたり、馬が蹴り上げる量が多く負担をかけるデメリットもあり、最近は改良型のニューポリトラックなるものになってきている、という。つまり、陸上競技でいうタータントラックのようなものであることがわかった。今度、インフォマーションセンターの件の女の子に会ったら、ぜひGoogleを引くことを教えてやりたい、と思った。
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泣ける「母べえ」

2008-02-17 | Weblog
 16日は東京・渋谷は山田洋次監督の映画「母べえ」を観賞した。ベルリン国際映画祭に出品し、受賞が決まると客足が伸びるかもしれない、と思って空いているうちに見ておこう、と思ったのだが、上映開始の10分前に飛び込んだせいか、前から2列目しか空いてなかった。吉永小百合主演の映画は「北の零年」以来であり、「母べえ」は暗い映画である感じがして敬遠してたが、どうしてどうして途中何回も泣けてくるごどの感動の大作だった。
 「母べえ」は昭和14年頃の太平洋戦争突入前の東京の街に住む娘2人の大学教授の家で、なぜかお互い父親のことを父(とう)べえ、母親のことを母(かあ)べえと呼び合っている。父べえの書いたものが特高の目に留まり、ある日父べえは警察に踏み込まれ、連行され、留置場へ入れられる。戦争に反対している、と見なされ、改心するまで釈放は叶わない。ところが、当たり前のことを思っているだけで、なぜ留置されているのかわからない母娘は世の中の厳しい目にもじっと耐えている。
 そんな母娘のところへ父べえの教え子だった青年、山崎が現れ、激励に通ううちに母娘にとってかけがえのない人になっていく。刑務所へ一緒に行ったり、宿題を教えてもらったり、羽根突きをしたり、海水浴に行ったり、まるで家族のように時を過ごす。時に母べえの義妹や叔父が現れ、母べえは代用教員をしながら、戦争中を過ごしていく。
 そして、遂に父べえは釈放されることなく、獄中にて死んでしまう。その悲しみの去らないうちに山崎は徴兵に取られ、戦地に赴く。戦争も終わり、義妹も広島で爆災に遭い、病死し、ひもじい中のある日、山崎の戦友が訪ねてきて、山崎が死んだことを伝えられ、山崎から「死んでも3人の幸せを祈って見守っている」との伝言を聞く。
 で、突如30年経って、中学校の美術の先生をしている妹に電話がかかってきて、母べえが危篤だ、と伝えられる。急いで、姉の勤める病院に行くと、母べえが死の床についていて、「天国で父べえに会いたくない」と言って死んでいくところで幕となる。
 見ている間はどうしていまごろ戦争中の話なんか、と思っていたが、母べえと姉妹3人と山崎の心温まるやりとりを見ているうちに画面に引き込まれ、さてどういう結末にするのだろうか、と心配になってきた。見終わって、確かに最後は母べえが死ぬところまで引っ張るしかない、とも思った。
 また、山崎が海水浴で溺れるくだりでは、主演の吉永小百合が服装のまま海に飛び込んで、得意の泳ぎを披露して、助けに行くシーンには笑ってしまったが、全体に好演であった。父べえ役の坂東三津五郎、山崎役の浅野忠信、義妹役の檀れいと脇役陣の好演も光った。
 黒澤明監督の美術を担当した野上照代さんの原作で、実話なのだろうが、暗い地味なお話を心温まるストーリーに仕立て上げたのは山田洋次監督の功績が大きいのだろう。ベルリン国際映画祭で最高の金獅子賞を獲得するのは間違いない、と見たが、さてどうなることやら。

追記 18日夕になって、ベルリン国際映画祭で「母べえ」は受賞しなかった、とのニュースが流れた。代わりに新人監督の作品がなにか賞をもらったようであるが、この種のことは事前にあまり期待されると受賞しないようである。経済面での地位は低下したとはいえ、日本は世界のなかで注目を浴びる国であるのは確かで、その日本が一体どんな映画を作っているのだろう、という意味で注目を集めたのだろう。特に欧州の国際映画祭で賞をもらう作品は哲学的な色彩があるもののような気がする。「母べえ」は確かによく出来ているが、哲学的に観る人に何かを感じさせるものか、という点ではそこまでいっていない。でも戦争を考えさせるいい作品であるのは間違いない。
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改めて浮き彫りとなった日本の金融・証券市場の遅れ

2008-02-16 | Weblog
 国土交通省はこのほど空港運営会社への外国資本の株式保有を3分の1未満に制限する外資規制を導入する方針を固めた。外国企業の経営への関与を制限し、安全保障や公共性を担保するのがねらいであるが、jこれに対してお膝元の閣内から異論が持ち上がっている。このところ、日本経済の低迷に嫌気がさして海外からの株式投資がすっかり遠のいて、この1月には外国資本の日本の株式市場の売り越しは1兆4579億円にも達していることが判明したばかりで、そこへ外資規制が加わって日本市場は閉鎖的であるとの印象が強まればさらに外国資本が逃避しかねないとの議論が沸き起こっている。
 事の起こりは羽田空港ターミナルビルの家主「日本空港ビルディング」の筆頭株主に豪州の投資ファンド、マッコーリーグループが踊り出たことが判明し、諸外国の状況を調べたところ、空港運営会社の株式保有に外資規制をしている国が過半であることがわかり、国土交通省は外資規制に乗り出すことに決めたこれに対してかねて市場開放論者である太田弘子経済財政担当相や渡辺喜美金融行革担当相が「時代に逆行するもの」として公然と反対の意を唱えた。
 国土交通省が外資規制の対象に考えているのは09年をメドに株式上場をめざしている成田国際空港、それに関西国際空港、中部国際空港の3社と焦点の日本空港ビルディングなど空港運営に不可欠な旅客・貨物ターミナル会社などの事業者。
 いまどき上場することは即ち買収の危機にさらされるのは常識で、経営陣が買収に対して万全の備えをするしか手はない。外資に限らず国内資本だって怪しげのものはいっぱいある。株主の動向には注意を怠らない、のは当たり前のことである。だから、空港運営会社だけを外資規制するのは時代の流れに沿ったものとは言えない。フジテレビが今月10日に視聴者500人にアンケートしたところ、空港運営会社に外資規制すべき、と答えたのは37%で、反対したのが42.5%だった。
 こうした折り、経済産業省の北畑隆生事務次官が最近某所で行った講演で、株式市場に触れた件で、「一般に株主は経営能力がなく、いつでも株式を売って離脱できる。特にデイトレーダーなるものはバカで浮気で、無責任のものだから、議決権を与える必要はない」と放言し、関係各方面に波紋を投げかけている。どういう下りでこの発言となったのか、詳細はわからないが、一国の経済官庁の筆頭責任者たる者が株式市場に対してこのような認識を持っていたことがわかり、改めて日本の金融・証券市場が時代遅れでグローバル性がないか、が浮き彫りとなった。
 こんな状況では日本の金融・証券市場はますます世界から取り残されていくことだろう。
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うちうちのことを公にする変な家庭

2008-02-15 | Weblog
 宮内庁の羽毛田信吾長官が先日の記者会見で、「皇太子ご夫妻の長女愛子さまが天皇、皇后陛下を訪ねる機会が少ないことを天皇、皇后陛下が心配されている」と発言し、各紙がコラムで取り上げた。テレビも報じていて、相変わらず雅子妃殿下の具合いでも悪いのか、と思ったが、よくよく考えて見ると、いかに天皇とはいえ、一家のうちうちのことをどうしてこんなに大袈裟にする必要がるのか、と不思議に思えてきた。お互い歩いても数分の密閉された空間に住んでいるのだから、なにも宮内庁長官を経ることなく、直接本人に言えば済むことではなかろうか。天皇家というのはどうなっているのだろう。
 事の次第は天皇陛下が一昨年12月の誕生日前の会見で、愛子さまに会う機会が少ないことに言及し、それを受けて皇太子が「機会を作っていきたい」としていた。ところが、一昨年に比べて昨年の愛子さまの訪問回数は行事以外では年に2,3回にとどまっている、という。この旨を羽毛田長官が皇太子に伝えたところ、「努力したい」と答えた、という。
 そんな家庭内のことをいちいち長官を通してやりとりすることがなにかおかしい。さらにはくしたやりとりを報道陣に向かって縷々説明することもなにか背後にあるのではと勘ぐられてくる。ひょっとして、雅子妃殿下の病状が思いの外、よくなくて、いつか重大な発表をするための布石なのだろうか、とも考えられる。
 戦前の天皇陛下はご尊顔を直接拝することも憚られ、まして直接口をきくこともまかりならなかった。しかし、戦後は民主的な人間天皇となったので、園遊会や全国遊説で国民とも直接話す姿をよく見るようになった。だから、当然、天皇一族のなかでは普通の家庭のようなやりとりが行われていることと思ったが、どうもそうではなさそうだ。
 天皇なのだから会いたい人を直接呼びつけたり、訪れるようなことはできない仕組みになっているのだろうか。何をするにも宮内庁の役人を通じて行うようなことになっているのだろうか。だとしたら、税金の無駄使いでもあるし、行政の簡素化にも逆行する動きでもある。
 いま日本の政治。経済、社会とも混乱しているのもこんな変な家庭を国民の象徴として上にいただいているからだろうか、とも思えてくる。
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求められる「出版の品格」

2008-02-14 | Weblog
 13日、紀伊国屋書店の新宿本店の新書の週間ベストセラーが明らかとなったが、ベストテンのなかに、第4位に坂東真理子著の「女性の品格」(PHP研究所刊)、第5位に阿川弘之著の「大人の見識」(新潮社刊)、第7位に坂東真理子著の「親に品格」(PHP研究所刊)と同じような傾向のものがランクインしている。10年連続で市場が縮小している出版業界の状況を象徴しているといえようが、基本のあるべき姿が見失われている現代日本を浮き彫りにしている、とも思えてくる。
 現代はあるべき規範のない、船でいえば羅針盤、もしくは海図のない大海を彷徨っているような時代といえる。社会の指導者ともいえる政治家、官僚、教師。警官、教授、お坊さんが次ぎから次ぎへと不祥事を起こし、だれの言動を信用していいのか、わからない状況となっている。新聞・テレビでは毎日のように親子、夫婦の間の殺人事件が報道されており、これから育つべき子供にまともな生き方を教えるべき人がいなくなってしまった。
 その象徴だったのが、「自民党をぶっつぶす」といって首相になった小泉純一郎元首相で、無手勝流の場当たり手法で政治の世界をひッかき回し、心ある人に日本は一体どうなってしまうのだろうか、との不安を抱かせた。そんな折りにお茶の水大の藤原正彦教授が新書「国家の品格」を書き、世に大きく受け入れられることとなった。ビジョンも哲学もなく政治に取り組んでいる小泉元首相の姿勢を痛烈に批判した同署は新書としては記録的な300万部前後の売れ行きを示した。
 これに着目した出版業界人は柳の下にドジョウが2匹いる、とばかりに同工異曲の本を出版し始めた。なんとかの品格やら、なんとかの常識、見識、挙句の果てには城山三郎の「男子の本懐」をもじって「女子の本懐」(小池百合子著)なるものも出版されるに及んでは行き過ぎの感は否めない。
 出版業界は市場は縮小しているのに出版点数は逆に増えている、という。過当競争の体質はますます強まっている、ということなのだろう。他社が当てれば、うちもといった気風が改まらない限り、自らの首を締めることになることだろう。他社がやらないオリジネルなものを出版する、という本来の出版の姿がいまこそ望まれている。
 出版人こそみずからの胸に「出版の品格」を問うべきだろう。
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東証ならぬトウキョー・ストップ・エクスチェンジ

2008-02-13 | Weblog
 東京証券取引所で8日から取引停止していたTOPIX(東証株価指数)先物3月限月物の取引が12日午前から再開された。1月に導入したばかりの新システムのプログラムの欠陥が原因で、IT先進国であるはずの日本でこんな事態が発生するようではただでさえ日本から去りつつある外人投資家の信用を損なうこととなりかねない。渡辺喜美金融担当相はにこりとすることなく無表情で「こんなことではトウキョー・ストック・エクスチェンジでなく、トウキョー:ストップ・エクスチェンジだ」と揶揄した。
 東証のシステムが機能不全になったのは今回が初めてではない。05年11月に株式売買システムを全面的に改修した際に朝から午後1時半まで全銘柄の取引を停止する、という前代未聞の事態が起きたのはまだ記憶に新しい。この時もプログラムの欠陥が原因だった、とされているが、いずれのケースも富士通のシステム開発のミスによるものといっていい。当時の東京証券取引所の社長が引責辞任し、今回も斉藤惇社長が「市場関係者に多大なご迷惑をかけ、深くお詫びする。速やかに再発防止策をとりまとめ、確実にお実行したい」と語ったが、メーカー頼みの姿勢が改まらない限り、同じようなことは再び起きることだろう。
 数日前にNHKの「クローズアップ現代」でソフトウェア危機を取り上げていたが、その中で昨年秋かにJRの自動改札機がある朝、突然作動しなくなり、始発から数時間乗客をフリーパスで通した事態が発生したことを報じていた。スイカの自動改札のシステムを作った機器メーカーのプログラムは80万行にも及ぶ膨大なもので、数100人がかりでテェックしたところ、有効期限の切れたスイカの処理を指示するところで、たった一言ミスがあり、それがストップした原因であった。
 手のひらに収まる携帯電話ひとつとっても中の回路に収められたプログラムは莫大なページにわたるもので。そのうちのほんの一言、1箇所でも間違いがあると、すべての携帯電話が使用不能に陥る、とも紹介していた。
 現代生活の身の回りの電子機器はいずれも電子回路によってコントロールされており、その背後には膨大な量のプログラムの集積があり、ミスだけでなく、ちょとした衝撃や外部からの力が加わっただけで動作不良を起こすことがあり、いついかなる事態にならないとも限らない。
 昔、イソップの童話になぞらえて、野原を進む羊が別れ道に来て、左右どちらの道にも全く同じ量の草がるとすると、その羊はどちらに進むのでしょうか、というクイズがあった。これをコンピュータにかけると、正解は「羊は判断を停止して動かなくなってしまう」だという。人間ならえいや、とどちらかに進むのだろうが、コンピュータはそうした判断ができない。コンピュータを過信するととんでもないことになる、ということか。
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止めてほしい、ワイドショー的なスポーツ報道

2008-02-12 | Weblog
 かねて新聞・テレビのスポーツ報道に疑問を持っている。11日もNHKテレビの午後7時のニュースで15歳のプロゴルファー、石川遼が米ハワイ州パールシティで開かれていたプロ転向2戦目の「ゴルフ・パール・オープン」で善戦空しく10位に終わったことを映像付きで詳しく報道していたが、最後に「優勝したのは矢野東でした」とのコメントがあっただけで、スポーツ新聞によればこのオープンには小学校6年生の伊藤誠道君も参戦していたのに専ら石川遼だけを報じている。視聴者の関心もそこにある、といわんばかりのワイドショー的な報道は少なくとも公正を旨とするNHKにはふさわしくない。
 こうした傾向は他にも見られる。卓球でもいつも取り上げられるのはなぜか福原愛ばかりで、この9日から東京・代々木第2体育館で開かれていたジャパン・トップ戦でもテレビの報道は専ら福原愛と14歳の石川佳純ばかりで、いずれも準決勝で敗退してしまったのだが、決勝戦はどうで、だれが優勝したのかは一切、報じていない。11日付けのスポーツ新聞でかろうじて決勝戦は平野という選手と樋浦という選手が戦い、平野が優勝した、ということを知ることができた。それでも見出しは「愛ちゃん満身創痍、24日開幕世界戦ピンチ」となっていて、平野選手の名前はどこにもない。卓球のテレビ報道はいつでも福原愛ばかりで、他の選手はまるでゴミ扱い、国内で福原愛が勝てないのは他の選手の恨みを買っているからではないか、とさえ思えてくる。
 女子プロゴルフでもそうだ。テレビはなぜか宮里藍ばかりを追いかける。10日、オーストラリアのゴールドコーストで最終ラウンドを行った「ANZレディーズ」は最後は横峯さくらが7アンダーで9位になり、宮里藍は6アンダーの14位となったのにテレビ画面は3日間ともずっと宮里藍ばかり映り、ちょい添え程度に「横峯さくらは‥‥」とコメントされる程度だった。最終結果を報じる新聞でも宮里藍14位の方が大きい見出しとなっているものがあって、変な判官贔屓を感じさせる。同じ年齢とはいえ、賞金女王となるなど実績では宮里藍のが勝っているのは確かだが、いまや横峯さくらのが上かもしれないのにいつまでも宮里藍ばかり追いかけるのは止めてほしい。
 テレビの場合、テレビカメラの台数も限られているし、展開が読めないので、最初から特定の選手に焦点をあててプレーを映すのはやむを得ないかもしれない。海外での試合ではことさらそうならざるを得ないかもしれない。だから、民放のワイドショー的な報道となってしまうのだろうが、同じ試合に参加している日本人選手を無視するような報道は止めてほしい。少なくとも結果については公平に扱ってほしい。
 それに芸能人を扱うようにスポーツ選手を扱ってほしくない。あくまでも実力本位で取り上げるか、どうかを決めてほしい。ビーチバレーの浅尾美和のように見場がいいから追いかけるようなことはしないでほしい。テレビ・新聞が実力もないのにキャーキャー追いかけるから、周りも本人もいい気になって結果として日本のスポーツ界をダメにしてしまっているのではなかろうか。
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歌姫夏川りみの魅力

2008-02-11 | Weblog
 10日は夏川りみのコンサートに行こうと思っていたが、チケットが取れなくて断念した。昨年末に夏川りみのCD「歌さがしリクエストカバーアルバム」を買って何回も聴いているうちになんともいえぬ夏川りみの魅力が感じられてきて、そのCDについていた全国ツアーのスケジュールで2月10日に九段会館で公演する、と出ていたので、早速ネットのePLUSで見たら、すでに完売となっていたのだ。夏川りみのファンは結構いることがわかって少し安心した。
夏川りみの「歌さがし」は中島みゆきの時代はじめ山口百恵の秋桜、イルカのなごり雪、坂本九の見上げてごらん夜の星を、沢知恵のこころなどかつてのヒット曲をカバーしたもので、最初は淡々と歌う声に違和感があったが、繰り返し聴いているうちに他人の歌でありながら、夏川りみの歌としての味が出ていることに気がついた。以来、1日に何回もかけて聴いているが、少しも飽きが来ないのも不思議なことである。「歌さがし」には後半には夏川りみオリジナルの蘇州夜曲や花、それに英語の歌も入っていて十分に楽しめる。
夏川りみを初めて見たのは6年くらい前に夏川りみがまだ無名の頃、「題名のない音楽会」にゲスト出演した時である。演歌歌手としてデビューしたものの、CDが売れずに故郷の沖縄に戻り、英気を養って、地元のボーカルグループから歌う許可を得た「涙そうそう」をひっさげて再デビューしたばかりだったが、その声を聴いて張りといい、伸びといい、素晴らしさに驚いた。共にゲスト出演した歌手の森山良子とデュエットしたりしていたが、聞きようによっては森山良子をしのいでいるようにさえ聞こえた。
 幸い、その「涙そうそう」がヒットして、夏川りみはその年末のNHK紅白歌合戦に初出場し、その後も連続出場してきたが、昨年は残念ながら出場ならなかった。紅白歌合戦出場イコール実力ではないのは周知の事実ではあるが、ずっと出場していた好きな歌手が出なくなるのはやはりさびしいこである。だから、余計にコンサートに行こう、と思ったのだが……。また、いつか、機会をとらえて、夏川りみのコンサートに行きたいものだ。
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実話で楽しめる「アメリカン・ギャングスター」

2008-02-10 | Weblog
 9日は東京・渋谷で映画「アメリカン・ギャングスター」を観賞した。上映開始時間が11時40分だったので、おにぎりを作って(もちろんかみさんが)一番に中央通路前の座席を確保し、始まる前にペロッと食べてしまった。食後のコーヒーも飲んで、準備万端映画に見入った。出演者にデンゼル・ワシントンとラッセル・クローと出ていたことだけで見ようと思ったので、映画の冒頭、これは実話に基づくものである、との解説が出てより期待をもたせた。
 映画はベトナム戦争華やかななりし1960年代、ニューヨークを仕切っていた黒人のボスが射殺され、運転手兼ボディガードをしていたデンゼル・ワシントン演じるフランク・ルーカスは悲嘆にくれる。一方、麻薬捜査官リッチー・ロバーツを演じるラッセル・クローは捜査の途上で100万ドルの現金を押収し、くすねることなく正直に届けて、署内の顰蹙を買う。ニューヨーク市警では賄賂をもらったり、ギャングと意を通じている警官が当たり前だったので、逆に仲間はずれにされてしまう。
 主人公の2人はお互い交差することなく物語は進んでいくが、フランク・ルーカスがバンコックにいるいとこの米軍兵士に頼んで、麻薬の栽培地の支配者と渡りをつけ、高純度の麻薬を密かにニューヨークに持ち込み、「ブルーマジック」とのブランドで品質の悪いヘロインの半値で売り出し、一挙に市場を制覇してから、追う者と追われる者としてつながり始める。
 しかし、麻薬で大金を得たフランク・ルーカスは家族を呼び寄せ、大邸宅には移り住むが、派手で目立つことをしないため、なかなか捜査線上には浮かんでこない。暗黒街のなかでもボスとしては名前もないので、知られなかった。ところが、クリスマスの夜に妻から贈られた豪華な毛皮のコートを着て、ボクシングのチャンピオン戦を観戦に行ったことから、ニューヨーク市警の悪と善玉双方の知るところとなり、悪からは賄賂をせびられ、善からは麻薬取引のしっぽをつかもうと追いかけられることとなった。
 そして、ベトナム戦争が終わった段階で、いままで米空軍を麻薬を利用して運んできたルートがなくなることになり、最後に亡くなった兵士の棺のなかに仕込んで運ぶが、執拗に追うリッチー・ロバーツ警部の追及のもとに暴露され、フランクルーカスは礼拝に行った教会の前で最後は逮捕される。
 いままでの映画ならここで幕となるが、「アメリカン・ギャングスター」はここから舞台は暗転する。リッチー・ロバーツ警部はフランク・ルーカスにニューヨーク市警の腐敗ぶりを白状させ、汚職警官をすべて逮捕させ、代わりにルーカスの刑を軽くする。当初70年の懲役刑となるが、弁護士になったロバーツが弁護して結局15年の刑となり、1991年に出所したところで、映画は終わる。
 派手な打ち合いシーンこそ多くないが、実録ギャングものとしては面白く楽しめる作品であった。監督はリドリー・スコットでラッセル・クロウがアカデミー賞主演男優賞を獲った「グラディエーター」の監督でもある。監督というのは気の合った俳優を使いたがるものなのだ、と思った。また、演技力ではデンゼル・ワシントンのが上であると思うが、もっぱら正義派しか演じてこなかったデンゼル・ワシントンもギャングを演じるようになったのは年のせいか、とも思った。
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