吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2014年3月26日〈エッセー〉027:「恋の浦」のいわれ

2014-03-26 09:41:08 | エッセー

写真①:「恋の浦」の由来がテーマの観光ポスター
      =福津市まちおこしセンターで、2014年3月1日撮影

・連載エッセー『一木一草』

 第27回:「恋の浦」のいわれ

  福津市まちおこしセンターで3月1日、九州大学大学院芸術工学研究院の大学院生(デザインストラテジー・ユーザー感性学専攻)が同市の海と津屋崎千軒をテーマにデザインしたという「ふくつ観光ポスター展」を観ました。その中に玄界灘に面した津屋崎の景勝地・「恋の浦」がテーマの1枚=写真①=に、初耳の「恋の浦」の由来が書かれており、驚きました。

  それによると、「恋したら いってみようか、なんて」のコピーで、「日本一ロマンティックな名前の海岸」と紹介したあと、〈由来…ある高僧が修行を終え、大陸から帰国した際、大陸に残してきた恋人を思い、浜で海の向こうの大陸を眺めておられたことから、恋の浦と名付けられた〉=写真②=とあります。

写真②:「恋したら いってみようか、なんて」のコピーで書かれた「恋の浦」の由来

  「恋の浦」のいわれについては、黒田官兵衛の異母弟・黒田修理助利則(養心)が恋路の邪魔をする役所にされ、婚約中の若い男女が海で心中するフィクションと思われる〝伝説〟が、一部で観光宣伝されています。福津市郷土史家(故人)が昭和53年(1978年)に出版した本に収録された「恋の浦秘話」の引用で、悪玉役の養心公にはお気の毒です。ご子孫にもご迷惑な筋書と思われますので、私の〈津屋崎千軒〉観光ガイドでは使わないようにしています。

  以前、弘法大師にまつわる由来があるとの話を小耳に挟み、福津市歴史資料室や福津郷土史会の方に尋ねましたが、分かりませんでした。この「ある高僧」由来ならまさに「恋の浦」=写真③=にふさわしいレジェンドです。そう思って、「ふくつ観光ポスター展」を主催している福津市商工観光課に尋ねた結果、市のホームページの「福津三十六景」の「恋の浦」に「恋の浦」の由来が、観光ポスターと同じ文章でアップされていることが分かりました。私が平成19年のこのホームページに同文章をアップした担当の方に照会した結果、旧津屋崎町役場の観光係をしていた約15年前、「東郷神社」の内田第二代宮司から同宮司の父で同神社を創建した安部正弘さん(昭和46年=1971年=他界)から伝え聞いた話で、高僧は弘法大師のことだったと思うが、メモを取っておらず記憶がはっきりしないので大師の名前はアップしなかったという。

 

写真③:「ふくつ観光ポスター」の「恋の浦」に使われた道路標示(福津市新町)

 内田久美・第二代宮司の娘の川野万里子・第三代宮司にお聞きしたところ、内田宮司と祖父の安部正弘さんから、この高僧ゆかりの「恋の浦」の由来を聞いた記憶はなく、由来を裏付ける文献史料を見たこともないとのこと。

 「恋の浦」の由来の文献あれば教えてください

  今後、安部正弘さんに関する伝記や、旧津屋崎町時代の町広報誌、旧宗像郡内の郷土史、各種団体の機関誌などに安部さんの寄稿やインタビュー記事などが残されていないか、調査を続けます。「恋の浦」=写真④=の「ある高僧」由来の文献をご存じの方がおいでなら、教えてください。「恋の浦」の由来が、うら若い男女の心中ではなく、帰国した高僧と中国に残した恋人への思慕にからむのであれば、「日本一ロマンティックな名前の海岸」として胸を張って「恋の浦」の観光ガイドができます。

写真④:玄界灘に面した「恋の浦」海岸
     =福津市渡で、2007年8月28日撮影

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