写真①:国指定重要文化財の「風浪宮」本殿
=大川市酒見で、2011年9月18日午前10時50分撮影
〈大川・町歩きスポット〉 6
:風浪宮
大川市酒見にある「風浪宮」(ふうろうぐう)は、地元では「おふろうさん」と呼ばれて親しまれています。国指定重要文化財の本殿=写真①=は室町時代末期の永禄3年(1560年)、筑後国南部に約12万石を領した筑後十五城筆頭大名として筑後を治め、蒲池城を本拠としていた蒲池鑑盛公が再建。三間社流造り桧皮葺きで、刀剣のような屋根の反りと朱塗りの本丸柱で全体の重みを支える豪壮な造りです。
「風浪宮」の創建は、約1,800年前と伝えられ、海神・少童命(ワタツミノミコト)、息長垂姫命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)、住吉大神、高良玉垂命(コウラタマタレノミコト)を祭神としています。社伝によると、神功皇后が朝鮮御親征から帰還の洋上で暴風に遭われ、少童命の御加護を得て無事に葦原の津、現在の榎津(えのきづ)に着かれました。その折、皇后の御船のあたりに忽然と現れた白鷺を風浪の難から守護した少童命の御化神だとして、武内宿称(たけうちのすくね)に白鷺の後をつけさせたところ、北東に飛び立ち、境内の大楠=写真②=の上に止まりました。このため、ここを聖地として少童命を祀らせ、海上の指揮をした阿曇磯良丸(あずみいそらまる)を「風浪宮」の初代宮司として留めたという。
この大楠は、「白鷺の楠」(別称・「鷺見の楠」)と呼ばれ、「風浪宮」の御神木として古来崇められています。推定樹齢2千年、幹周り8㍍余で、昭和35年に福岡県から天然記念物に指定されています。
写真②:福岡県指定天然記念物の御神木・「白鷺の楠」
本殿で参拝した際、「阿曇磯良丸の像」=写真③=がこちらを見ている気配にハッとなりました。この木像の前に立てた説明書には「磯良丸は少童命を祖神とする海洋族の首長で、神功皇后の三韓御親征の砌(みぎり)、志賀島に召されて軍船を整え海上指揮をして無事大任を果たした航海熟達の海士であります」と書かれています。
さらに「太平記に見る磯良丸は龍宮に住んでいたが神功皇后のお召しに従って香椎が浜に出現し皇后の三韓御親征に干珠満珠(かんじゅまんじゅ)を捧げて従軍し御助成をしたと述べられています」とし、「この像は磯良丸が多年海底の宮に住んでいたので身体中海藻や魚貝類がとりついていたという魁偉なる風貌を彫ったものです。因に阿曇史久現宮司は直系の六十七代目を数えます」とありました。
なるほど、「阿曇磯良丸の像」には海藻がとりつき、足元には亀がはい、掌には干珠満珠を携えています。福岡市東区志賀島にある「志賀海神社」で磯良丸の御助成譚を知った時より、この像の迫力でイメージがぐっと鮮明になりました。一説には、船の名前に「丸」を付けるのは海神・磯良丸の「丸」に由来するという。
写真③:掌に干珠満珠を携えた「阿曇磯良丸の像」
拝殿で柏手を打って見上げると、古風な方位盤が目にとまりました=写真④=。東西南北の字の周囲に十二支の絵が描かれています。
写真④:東西南北の字の周囲に十二支の絵が描かれた古風な方位盤
「風浪宮」外苑の「大川公園」には、大川市出身の作曲家古賀政男直筆の曲碑=写真⑤=が建っていました。名曲・「影を慕いて」の〈まぼろしの 影を慕いて 雨に日に〉の歌詞と音符が彫られています。
写真⑤:古賀政男直筆の歌詞と音符が彫られた名曲・「影を慕いて」の曲碑
大川の町歩きを終え、昼食に名物の「旅出しうなぎ」を味わおうと、大川市津の鰻料理専門店「浜松屋」=写真⑥=に立ち寄りました。筑後川下流で獲れる天然うなぎは、江戸時代からこの地方の特産で、同市が「大川・旅出しうなぎ」としてブランド化したそうです。ウナギのせいろむしを注文しましたが、肉厚のうなぎに秘伝のタレ、こだわりの米の甘さといい、以前、柳川市で賞味したのに勝るとも劣らない旨さでした。
写真⑥:大川市名物の「旅出しうなぎ」が旨い「浜松屋」
(終わり)
「風浪宮」位置図