吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2008年11月3日/〈津屋崎まちなみ散策〉022・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉33円通寺想智院

2008-11-03 06:31:55 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:緑の森に覆われた境内にある「円通寺想智院」
     =福津市桂区で、2008年11月2日午前11時05分撮影

〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 33 

:円通寺想智院

 福津市桂区の円通寺想智院=写真①=は、桂岳(標高165㍍)の麓の森に覆われた境内にあります。真言宗のお寺で、本尊は千手観音。江戸時代中期の宝暦8年(1758年)、勝浦村の僧・忍照(にんしょう)が「観心庵(かんじんあん)」という観音堂を建てたあと、同時代中期の天明6年(1786年)に改名されました。

 忍照は、俗名を永島半次兵衛寛勝といい、代々勝浦の庄屋の造り酒屋「甘住屋」に生まれ、たいへん慈悲深かったという。境内に建てられた福津市の解説盤=写真②=には、〈江戸時代中頃に続いた飢饉では、家財などを処分してまで村人を助けました。そして神仏の加護を求め、この寺を建てたのでした〉とあります。

 また、〈幼児の死亡や捨て子といった情況に大変心を痛め、身分を超えた子供たちの保護・救済に努められており、児童福祉の祖と言える人でした〉としています。享保の飢饉の時、難民救済の念願成就の暁には一寺を建立しようと決意、所蔵の米麦、雑穀、酒粕を与え、家宝を米麦、粟などと交換して窮民に施したり、托鉢をして村人から米や麦をもらい、貧しい人たちに分け与え、捨て子や堕胎をしないように説いた偉いお坊さんでした。

 心願を成就した半次兵衛は、「観心庵」を建て、雷山千如寺の実相律師に師事し、剃髪して忍照と改名、妻も尼法師となって貞寿と言いました。忍照は、村内で出産の家庭に産着1枚を贈り続け、その数240余枚に達しました。忍照の慈悲の行為が、後には福岡藩にも影響を与え、産子(うぶこ)養育の監視役・「養育方(がた)」が設けられるきっかけになったという。お寺近くの永島家の墓地に、忍照と貞寿の墓があります。


写真②:福津市が建てた円通寺想智院の解説盤
     =「円通寺」境内で、2日午前11時08分撮影

 11月2日に訪れた「円通寺」は、ケヤキの巨木の紅葉が鮮やかでした=写真③=。「円通寺」へ行くには、国道495号線から東にある勝浦の名児山(なごやま、標高150㍍)へ向かう市道を頂上方面へ走り、手前の未舗装道路で下車し、この紅葉したケヤキを目印に坂道を上れば数分で着きます。


写真③:「円通寺」を覆う森からそびえる紅葉したケヤキの巨木
     =福津市桂区で、2日午前11時13分撮影
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