●写真①:宮地嶽神社奥之宮八社・稲荷神社社務所で売られている〈津屋崎人形〉の大黒様と恵比寿様
=福津市宮司で、2007年1月28日午前10時41分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第22回:2007.2.1
津屋崎人形
清 「おいしゃん(叔父さん)、1月28日に宮地嶽神社境内にある奥之宮八社の三番参拝社・不動神社の初不動祭に参ったったい。そしたらくさ、二番参拝社の稲荷神社社務所で〈津屋崎人形〉の大黒様と恵比寿様=写真①=を売っとったばい。宮地嶽神社の縁起物で〈津屋崎人形〉が参拝客の人たちに買(こ)うてもらえると、うれしかね」
琢二 「そうだな。郷土の特産品が、よそから来た参拝客の人たちに喜ばれることは、よかことたい。〈津屋崎人形〉は、津屋崎の誇れる文化の一つと言っていい」
清 「吉村青春さんの第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』(新風舎刊)の詩篇〈ころころやま〉に詠われとる〈モマ笛〉=写真②=も、〈津屋崎人形〉やったね」
琢二 「青春さんの詩集に〈モマ笛〉の解説も、詩篇の〈注〉で次のように書いてある。
〈江戸中期の安永6年(1777年)が起源で、粘土を素焼きにして筆で彩色する素朴な「津屋崎人形」(福岡県指定特産民芸品)の梟(ふくろう)を模った笛。褐色の丸い頭と白い顔にどんぐり目や嘴がかわいい。尾の穴を吹くと「ホー、ホー」と物悲しく鳴くような音色が出る。鳴き声を言葉でたとえた「聞き倣(な)し」では、梟(体長50㌢)は「ゴロスケ、ホッ、ホッ」で、夏鳥の青葉梟(あおばずく)(体長29㌢)は「ホッホッ、ホッホッ」。色や形は梟だが、音色は青葉梟に近い。津屋崎には梟、青葉梟とも生息し、ともに方言でモマと呼ばれてきたと思われる〉
〈モマ笛〉は、子供のおもちゃとして喜ばれる。おみやげにも手ごろだな。『鵲声―津屋崎センゲン』」にも、口絵の3㌻に、カラー写真が載せてあるぞ」
写真②:福岡県指定特産民芸品・〈津屋崎人形〉の〈モマ笛〉
=福津市津屋崎天神町の「筑前津屋崎人形巧房」で、05年6月2日撮影
清 「〈津屋崎人形〉の特徴というたら、何やろうか」
琢二 「〈古博多人形の俤(おもかげ=面影)を伝える唯一の人形〉ということだろう。これは、〈津屋崎人形原田半蔵店〉=写真③=に掲げられている『筑前津屋崎人形展』と題した説明文にある。説明文の前段には、次のように書かれている。
〈津屋崎土人形は明和五年(約200年前)初代原田半兵衛に依り創作され、現作者半蔵氏は五代目に当たる。
最初はロクロを用いてあんこ火鉢、甕等の日用品を製造したが、のち次第に庶民生活に結び付いたひなびた三・五月節供用の土人形や貯金玉、ふくろ笛など多種多様な土俗人形を作り、福岡県内のほか中国・四国地方にも販路を拡げ、今日に至っている。其の素朴な作品は古博多人形の俤を伝える唯一の郷土人形として今も多くの愛好家に親しまれている〉
半蔵さんが作った〈太鼓乗りにわとり〉は1993年の年賀切手の図案に採用され、津屋崎人形は全国的に有名になった。今は半蔵さんの子の彪(たけし)さん(69)が当主。元小学校長で、日展会友の彫刻家でもある」
写真③:〈津屋崎人形原田半蔵店〉
=福津市津屋崎天神町で、06年10月28日午前11時53分撮影
写真④:〈津屋崎人形原田半蔵店〉に掲げられている『筑前津屋崎人形展』と題した説明文
=06年12月24日午前11時12分撮影
清 「なるほど。今は、津屋崎人形の店は何軒あるとかね」
琢二 「〈津屋崎人形原田半蔵店〉と、親戚の原田誠さん(54)が7代目窯元の〈筑前津屋崎人形巧房〉=写真⑤=の2軒たい。同巧房のパンフレット〈津屋崎人形の由来〉には、〈津屋崎人形の起源は、今をへだたる二百年前の安永年間(西暦1777年)の頃、当時津屋崎町の在自(あらじ)という所に産する陶土が、土器に最適のものであることがわかり、ろくろを使って生活に必要な壺やかめなどを造っていましたが、安永六年に始祖卯七がその子半兵衛と共に、素朴な人形や動物を作ったのがはじまりとなりました〉と書かれとる。つまり、両人形店の当主はともに半兵衛さんの子孫たい。ただ、〈筑前津屋崎人形巧房〉のパンフでは初代を卯七とし、二代を半兵衛にしているのが食い違っとる」
清 「ま、どっちも同じ原田さんの人形師さんたいね」
写真⑤:津屋崎千軒通りに面した〈筑前津屋崎人形巧房〉
=福岡市津屋崎天神町で、05年8月12日午後4時撮影
琢二 「〈筑前津屋崎人形巧房〉のパンフレット〈津屋崎人形の由来〉は、さらに次のように説明が続く。
〈津屋崎人形は、二代半兵衛・三代半四郎・四代長助・五代徳十と、現在に到るまで技法と古型がうけつがれて参りました。その間には、歴史やおとぎ話に活躍する人物をはじめ、芝居人情風俗などを題材にした人形を作るなど、代々にわたる研究と努力がたゆみなく続けられました。
五代徳十は、それまでそれぞれの呼び方で呼ばれていた人形を、すべて「津屋崎人形」と呼ぶことに定めて現在に至りました。
津屋崎人形窯元として、初代卯七以来の伝統と作風を正しく伝えて参りました津屋崎人形は、類のない独特の描彩(いろどり)と姿を持ち、他の人形には見出すことのできない素朴さと可憐さを持っています。
いつ見ても、いつまで見ても見あきない津屋崎人形は、その純朴な姿や表情とともに、皆様の心の故里になつかしく生きつづけることでございましょう〉
と、まあ津屋崎人形の魅力を言いえて妙、というか、胸にぐっと来る表現ばい。ついでに言うと、窯元の六代がもう亡くなった活男さん、その子誠さんが今の七代たい。活男さんと半蔵さんの時代には、親戚の原田三右ヱ門さんを含め3人の津屋崎人形師が、おらっしゃった。津屋崎人形が昭和56年(1981年)3月、福岡県特産民芸品に指定されたのを表紙で紹介した同年4月1日発行の旧津屋崎町報〈広報つやざき〉4月号には、自慢の津屋崎人形を前にしたこの3人の写真が載っとう=写真⑥=」
写真⑥:昭和56年発行の旧津屋崎町報〈広報つやざき〉4月号に載った3人の津屋崎人形師(左から原田三右ヱ門、半蔵、活男さん)
=07年2月1日午前6時58分複写
清 「それで、津屋崎人形って、どうやって造るとかね」
琢二 「06年10月28日、〈津屋崎千軒考え隊〉のワークショップで〈筑前津屋崎人形巧房〉を見学した際、原田誠さんに説明してもらったら、粘土を素焼きして筆で彩色するそうだ。人形造りの型が千個も伝わっていて、時代の風俗を伝える収蔵作品も見せてもらったが、一人で伝統の人形造りを継承していく熱意に感心させられたばい」
写真⑦:〈津屋崎人形原田半蔵店〉に陳列された作品
=福津市津屋崎天神町で、06年12月24日午前11時11分撮影
〈筑前津屋崎人形巧房〉(福岡県福津市津屋崎天神町。℡0940―52―0419)と〈津屋崎人形原田半蔵店〉(同所、℡0940-52-0432):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線津屋崎駅下車、徒歩5分。JR鹿児島本線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きに乗って「津屋崎駅前」で下車し、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約25分。
〈筑前津屋崎人形巧房〉と〈津屋崎人形原田半蔵店〉の位置図
(ピンの立っている所)
=福津市宮司で、2007年1月28日午前10時41分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第22回:2007.2.1
津屋崎人形
清 「おいしゃん(叔父さん)、1月28日に宮地嶽神社境内にある奥之宮八社の三番参拝社・不動神社の初不動祭に参ったったい。そしたらくさ、二番参拝社の稲荷神社社務所で〈津屋崎人形〉の大黒様と恵比寿様=写真①=を売っとったばい。宮地嶽神社の縁起物で〈津屋崎人形〉が参拝客の人たちに買(こ)うてもらえると、うれしかね」
琢二 「そうだな。郷土の特産品が、よそから来た参拝客の人たちに喜ばれることは、よかことたい。〈津屋崎人形〉は、津屋崎の誇れる文化の一つと言っていい」
清 「吉村青春さんの第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』(新風舎刊)の詩篇〈ころころやま〉に詠われとる〈モマ笛〉=写真②=も、〈津屋崎人形〉やったね」
琢二 「青春さんの詩集に〈モマ笛〉の解説も、詩篇の〈注〉で次のように書いてある。
〈江戸中期の安永6年(1777年)が起源で、粘土を素焼きにして筆で彩色する素朴な「津屋崎人形」(福岡県指定特産民芸品)の梟(ふくろう)を模った笛。褐色の丸い頭と白い顔にどんぐり目や嘴がかわいい。尾の穴を吹くと「ホー、ホー」と物悲しく鳴くような音色が出る。鳴き声を言葉でたとえた「聞き倣(な)し」では、梟(体長50㌢)は「ゴロスケ、ホッ、ホッ」で、夏鳥の青葉梟(あおばずく)(体長29㌢)は「ホッホッ、ホッホッ」。色や形は梟だが、音色は青葉梟に近い。津屋崎には梟、青葉梟とも生息し、ともに方言でモマと呼ばれてきたと思われる〉
〈モマ笛〉は、子供のおもちゃとして喜ばれる。おみやげにも手ごろだな。『鵲声―津屋崎センゲン』」にも、口絵の3㌻に、カラー写真が載せてあるぞ」
写真②:福岡県指定特産民芸品・〈津屋崎人形〉の〈モマ笛〉
=福津市津屋崎天神町の「筑前津屋崎人形巧房」で、05年6月2日撮影
清 「〈津屋崎人形〉の特徴というたら、何やろうか」
琢二 「〈古博多人形の俤(おもかげ=面影)を伝える唯一の人形〉ということだろう。これは、〈津屋崎人形原田半蔵店〉=写真③=に掲げられている『筑前津屋崎人形展』と題した説明文にある。説明文の前段には、次のように書かれている。
〈津屋崎土人形は明和五年(約200年前)初代原田半兵衛に依り創作され、現作者半蔵氏は五代目に当たる。
最初はロクロを用いてあんこ火鉢、甕等の日用品を製造したが、のち次第に庶民生活に結び付いたひなびた三・五月節供用の土人形や貯金玉、ふくろ笛など多種多様な土俗人形を作り、福岡県内のほか中国・四国地方にも販路を拡げ、今日に至っている。其の素朴な作品は古博多人形の俤を伝える唯一の郷土人形として今も多くの愛好家に親しまれている〉
半蔵さんが作った〈太鼓乗りにわとり〉は1993年の年賀切手の図案に採用され、津屋崎人形は全国的に有名になった。今は半蔵さんの子の彪(たけし)さん(69)が当主。元小学校長で、日展会友の彫刻家でもある」
写真③:〈津屋崎人形原田半蔵店〉
=福津市津屋崎天神町で、06年10月28日午前11時53分撮影
写真④:〈津屋崎人形原田半蔵店〉に掲げられている『筑前津屋崎人形展』と題した説明文
=06年12月24日午前11時12分撮影
清 「なるほど。今は、津屋崎人形の店は何軒あるとかね」
琢二 「〈津屋崎人形原田半蔵店〉と、親戚の原田誠さん(54)が7代目窯元の〈筑前津屋崎人形巧房〉=写真⑤=の2軒たい。同巧房のパンフレット〈津屋崎人形の由来〉には、〈津屋崎人形の起源は、今をへだたる二百年前の安永年間(西暦1777年)の頃、当時津屋崎町の在自(あらじ)という所に産する陶土が、土器に最適のものであることがわかり、ろくろを使って生活に必要な壺やかめなどを造っていましたが、安永六年に始祖卯七がその子半兵衛と共に、素朴な人形や動物を作ったのがはじまりとなりました〉と書かれとる。つまり、両人形店の当主はともに半兵衛さんの子孫たい。ただ、〈筑前津屋崎人形巧房〉のパンフでは初代を卯七とし、二代を半兵衛にしているのが食い違っとる」
清 「ま、どっちも同じ原田さんの人形師さんたいね」
写真⑤:津屋崎千軒通りに面した〈筑前津屋崎人形巧房〉
=福岡市津屋崎天神町で、05年8月12日午後4時撮影
琢二 「〈筑前津屋崎人形巧房〉のパンフレット〈津屋崎人形の由来〉は、さらに次のように説明が続く。
〈津屋崎人形は、二代半兵衛・三代半四郎・四代長助・五代徳十と、現在に到るまで技法と古型がうけつがれて参りました。その間には、歴史やおとぎ話に活躍する人物をはじめ、芝居人情風俗などを題材にした人形を作るなど、代々にわたる研究と努力がたゆみなく続けられました。
五代徳十は、それまでそれぞれの呼び方で呼ばれていた人形を、すべて「津屋崎人形」と呼ぶことに定めて現在に至りました。
津屋崎人形窯元として、初代卯七以来の伝統と作風を正しく伝えて参りました津屋崎人形は、類のない独特の描彩(いろどり)と姿を持ち、他の人形には見出すことのできない素朴さと可憐さを持っています。
いつ見ても、いつまで見ても見あきない津屋崎人形は、その純朴な姿や表情とともに、皆様の心の故里になつかしく生きつづけることでございましょう〉
と、まあ津屋崎人形の魅力を言いえて妙、というか、胸にぐっと来る表現ばい。ついでに言うと、窯元の六代がもう亡くなった活男さん、その子誠さんが今の七代たい。活男さんと半蔵さんの時代には、親戚の原田三右ヱ門さんを含め3人の津屋崎人形師が、おらっしゃった。津屋崎人形が昭和56年(1981年)3月、福岡県特産民芸品に指定されたのを表紙で紹介した同年4月1日発行の旧津屋崎町報〈広報つやざき〉4月号には、自慢の津屋崎人形を前にしたこの3人の写真が載っとう=写真⑥=」
写真⑥:昭和56年発行の旧津屋崎町報〈広報つやざき〉4月号に載った3人の津屋崎人形師(左から原田三右ヱ門、半蔵、活男さん)
=07年2月1日午前6時58分複写
清 「それで、津屋崎人形って、どうやって造るとかね」
琢二 「06年10月28日、〈津屋崎千軒考え隊〉のワークショップで〈筑前津屋崎人形巧房〉を見学した際、原田誠さんに説明してもらったら、粘土を素焼きして筆で彩色するそうだ。人形造りの型が千個も伝わっていて、時代の風俗を伝える収蔵作品も見せてもらったが、一人で伝統の人形造りを継承していく熱意に感心させられたばい」
写真⑦:〈津屋崎人形原田半蔵店〉に陳列された作品
=福津市津屋崎天神町で、06年12月24日午前11時11分撮影
〈筑前津屋崎人形巧房〉(福岡県福津市津屋崎天神町。℡0940―52―0419)と〈津屋崎人形原田半蔵店〉(同所、℡0940-52-0432):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線津屋崎駅下車、徒歩5分。JR鹿児島本線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きに乗って「津屋崎駅前」で下車し、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約25分。
〈筑前津屋崎人形巧房〉と〈津屋崎人形原田半蔵店〉の位置図
(ピンの立っている所)