吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2006年9月21日〈津屋崎学〉005:「金刀比羅神社」が在自山にある訳は

2006-09-21 09:36:55 | 郷土史
●写真上:金刀比羅神社拝殿=福津市在自で、06年9月7日午前6時20分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第5回:2006.09.21
  「金刀比羅神社」が在自山にある訳は

清 「筑紫路に秋を告げる神社の秋季大祭「放生会(ほうじょうや)」で、毎年9月9日幕開けしてトップを飾る金刀比羅(こんぴら)神社は、なんで福津市の在自山(あらじやま)にあると。教えちゃらんね、叔父さん」
琢二 「在自山は津屋崎で一番高い山で、国土地理院2万5千分の1地図による標高は249㍍だ。古名は天蓋山(てんがいざん)といい、古宮(ふるみや)社殿は山頂にある。麓から見上げたら山頂下近くに見える展望所の赤い鳥居=写真下=06年5月16日午後4時20分撮影=のところから登ってすぐ上だ。


現在の拝殿=〈津屋崎学〉005の見出し上の写真=は山ろく近くにあり、星ケ丘団地北端の北隣だ。主祭神は、大物主(おおものぬし)と応神天皇、仁徳天皇、神功(じんぐう)皇后。もともと室町時代の文安2年(1445年)、山伏の定海法印が古宮の天蓋山山頂に農耕と財宝、水、雨乞いの神とされる金山彦神を祀ったのが神社の始まりだ。さらに江戸時代の宝永年間(1704-1711年)に修験僧の一楽院元海法印が讃岐国象頭山(ぞうずさん)に詣で、金刀比羅大権現を勧請合祀して山頂の古宮に社殿を創建した。金刀比羅大権現の分霊を請い迎える、つまり祭神を勧請して一社に合わせ祀ったわけだ。その後、神社は現在地に移された。境内には、山頂に鎮座する金山彦神と金毘羅神を遥かに拝む〈天蓋山古宮遥拝所〉の石碑=写真下:06年9月7日午前6時20分撮影=が建てられている。金刀比羅大権現は、今は金刀比羅宮(ことひらぐう)と言い、金毘羅宮とか琴平宮とも書かれ、一般には〝こんぴらさん〟と呼ばれて親しまれているよ」


清 「讃岐の〝こんぴらさん〟と言うたら、今の香川県琴平町の金刀比羅宮か。〈♪こんぴら船々追風(おいて)に帆かけてシュラシュシュシュ/まわれば四国は讃州那珂の郡(こおり)象頭山金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)〉という歌があるよね」
琢二 「江戸時代の里謡だ。よく知ってたな。金刀比羅宮は標高521㍍の象頭山の中腹に鎮座し、祭神は大物主神、つまり大国主神(おおくにぬしのかみ)で、農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めている。つづめて言うと、国造りを行い、海上の守護神だな」

清 「〝在自のこんぴらさん〟も祭神にはいろいろあるけど、代表するのは大国主神やね」
琢二 「そう。とりわけ、農耕神と水乞いの神様だろうな。江戸時代に発刊された『筑前国続風土記付録』によると、晴れを祈り、雨を乞い、牛馬の災難を免れ、無事を祈願すれば、その応えがあると言われているよ」
清 「ほう、霊験あらたかなんや」
琢二 「金刀比羅さんに参ると、お金が授かるとも言われている。財宝の神とされる金山彦神を祀ったのが神社の始まりだからかな」
清 「それから、神社の勧請の初めが山伏というのは、なんで?」
琢二 「昔は奈良時代の呪術者・役小角(えんのおづぬ)が起こした修験道の山伏が全国にいて、九州では天蓋山頂、福岡県太宰府市の宝満山、同県添田町の英彦山、大分県・国東などに多かった。修験道は仏教の一派で山岳に寝起きして修行し、修行する人を修験者とか修験僧、山伏と呼んだ。このうち真言修験の三宝院の流れをくむ〈当山派〉に属する〈一楽院〉の修験僧により天蓋山頂に創建された金刀比羅神社は、福岡県・宗像、粕谷両郡内の修験のメッカだったといえる」
清 「へー、在自山が修験道の山だったなんて、知らなかったな。今度、登って古宮を拝んでこよう」
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