小さな波も、大きな波も、壮大な海であるように、
私が私が・・と言っているわたし・・意識も、
無限の意識の一部であり、
また”意識に”おいては、その一部はまったく全てでもある。
私は個人だ、肉体だ・・は全くの枝葉観念、辺境の非常識、
波の波頭ばかり見て、海を見ていないということに過ぎない。
この世界の人々は、いや魂・意識は、
まず、私とは何か?に疑いを持ち、それについて探求する必要がある。
そのために、この現実世界をその歪(ひずみ)と苦痛を伴って味わうもの。
「なんで、こうなんだ・・?」
「どうして私は幸せでないの?」
「なんで世界、世間はこんなにも冷たくお粗末なのか」
「どうして人々はバラバラで、心底親切になれないのか?」
しかしながら、またそうでなければ、
いつか時空間を超えた次元から”ここに”来た魂は、この世界を超えることができない。
肉体的な苦痛、そしてそれから起きる感情的な苦悩や苦しみは、
より荒い波動の中に、より精妙な意識があるために起きる波動的ミスマッチともいえよう。
魂の無限性と、物質顕現の有限性の混在と混乱ともいえよう。
多くの人が自分は肉体である・・と思っている・・ではないか?
あなたはどうだろうか。
当たり前のような教育も、情報・報道も、世間の常識も、
それ以上のことはわからないし、言わないし、真剣に調べることもせず、
ただただ、目先の肉体的生活の改善や維持だけのために生きている。
そのコンセンサス(合意観念)から外れると、
人生が生きづらくなると信じて疑わず、
できるだけ肉体的・精神的苦痛を避けながら、
とりあえずの人生のまま終えてしまうことが多いかもしれない。
その信念のままであれば、わたしの・・その信念の赴くまま、
再びその信念の、最も整合した世界に出現することになる。
ラマナ・マハルシは生まれ変わる「魂」とされるのは、
「想念の束」である・と表現している。
そう、輪廻転生は自己によって行われるのであって、
何かの他者の押し付けでも、無理強いでもない。
I AM THAT I am.
大勢の人々の無知や利己主義に取り巻かれたような、
この世界、テラとか地球とか、アースとか言われる波動域は、
精妙なる波動域への上昇、魂の開花のための修行場のようなものであるが、
魂の開花とは・・魂が種から成長して開花するという意味であると同時に、
無限なる魂が自己自身を思い出す過程でもある。
下から上へ、上から下へ、あるいは天と地の合一とでも言えようか。
しかしながら、魂の成長過程、あるいは自己想起過程での最も幼いレベル、
「わたしはだれ?・・ここはどこ?」という、
魂の種の発芽、意識の衝動さえ抑え込まれるような、
自信満々の無知の支配する世界において輪廻することは、
いったいどんだけ~!!の修行と言えるだろうか?
そうだ、そういう信念体系、幻想中の幻想ともいえる世界にいて、
それすらも「気づかない」闇の世から自ら目覚めることは
いったい、どんだけ~!なことだろう?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/e7/dac52b92d2663e01406aecf41ec4180b.jpg)
苦痛や苦悩、不幸や悲しみは、意識の派生である感情の刻印の痛み?ともいえるが、
それは、時間空間内に、現れては消える肉体・物質的波動と、
時間空間を超えた”魂”とのミスマッチからくるだろう。
これは魂自体が十分に目覚めていないことからくると言えようし、
意識内面にある高次の自己を・・忘れている・・とも言えるだろう。
時空を超えて在る・・魂が何かになること、
時空の中の出現と消滅の現象である物質・肉体と”自己同一化”することだ。
例えばこれは小説のモチーフにあるように、
白紙に絵を描いた作者が、その絵の中に入り込むようなものだ。
自己が・・その物だと錯覚している。
わたしは・・現われ出たその物、事物・肉体・環境である・・と錯覚している。
そして、現れ出ては消え去る現象の性質そのものに、
無限なる自らの発する高次の思考、思念、想念を投入し、
消えては現れ、現れては消える現象世界、そしてこの世の肉体、環境、
それ自身を・・わたしと・・錯覚しているということだ。
しかしながら、そのあり得ない「錯覚」を、
生身の幻想で経験できる世界が・・地球という世界であったと言ってもいいだろう。
苦痛や苦悩、不幸や悲しみは、意識の派生である感情の刻印の痛み?ともいえるが、
それは、時間空間内に、現れては消える肉体・物質的波動と、
時間空間を超えた”魂”とのミスマッチからくるだろうか。
その魂のための波動のギャップを提供してきたこの地球という世界も、
人々が大いなる意識であるように、同じく英知ある意識であることを悟れば、
もうそれは十二分に過ぎたこともわかるだろう。
この地球という、それぞれのわたしの、
愛あるバックグランドの世界も大きく変わってゆく、心すべき時でもある。
人々は、繰り返し、繰り返し外から入れてしまった幻想の種を覆し、
自らの魂の種にすでに書き込まれていること、
それが真の当たり前であるところの幸せこそが現実であると、
自らで想像・創造・実感する段階にきている。
I AM THAT I am.
わたしは在る・・からあらゆる顕現世界が出てくる・・、
であることを悟るならば・・・、
今あなたは・・「わたしは・・在る」・・に意識を引き戻し、
わたしは・・・で・・在る!--と宣言すべきであろう。
わたしは・・わたし以外に・・いないではないか?
私が私が・・と言っているわたし・・意識も、
無限の意識の一部であり、
また”意識に”おいては、その一部はまったく全てでもある。
私は個人だ、肉体だ・・は全くの枝葉観念、辺境の非常識、
波の波頭ばかり見て、海を見ていないということに過ぎない。
この世界の人々は、いや魂・意識は、
まず、私とは何か?に疑いを持ち、それについて探求する必要がある。
そのために、この現実世界をその歪(ひずみ)と苦痛を伴って味わうもの。
「なんで、こうなんだ・・?」
「どうして私は幸せでないの?」
「なんで世界、世間はこんなにも冷たくお粗末なのか」
「どうして人々はバラバラで、心底親切になれないのか?」
しかしながら、またそうでなければ、
いつか時空間を超えた次元から”ここに”来た魂は、この世界を超えることができない。
肉体的な苦痛、そしてそれから起きる感情的な苦悩や苦しみは、
より荒い波動の中に、より精妙な意識があるために起きる波動的ミスマッチともいえよう。
魂の無限性と、物質顕現の有限性の混在と混乱ともいえよう。
多くの人が自分は肉体である・・と思っている・・ではないか?
あなたはどうだろうか。
当たり前のような教育も、情報・報道も、世間の常識も、
それ以上のことはわからないし、言わないし、真剣に調べることもせず、
ただただ、目先の肉体的生活の改善や維持だけのために生きている。
そのコンセンサス(合意観念)から外れると、
人生が生きづらくなると信じて疑わず、
できるだけ肉体的・精神的苦痛を避けながら、
とりあえずの人生のまま終えてしまうことが多いかもしれない。
その信念のままであれば、わたしの・・その信念の赴くまま、
再びその信念の、最も整合した世界に出現することになる。
ラマナ・マハルシは生まれ変わる「魂」とされるのは、
「想念の束」である・と表現している。
そう、輪廻転生は自己によって行われるのであって、
何かの他者の押し付けでも、無理強いでもない。
I AM THAT I am.
大勢の人々の無知や利己主義に取り巻かれたような、
この世界、テラとか地球とか、アースとか言われる波動域は、
精妙なる波動域への上昇、魂の開花のための修行場のようなものであるが、
魂の開花とは・・魂が種から成長して開花するという意味であると同時に、
無限なる魂が自己自身を思い出す過程でもある。
下から上へ、上から下へ、あるいは天と地の合一とでも言えようか。
しかしながら、魂の成長過程、あるいは自己想起過程での最も幼いレベル、
「わたしはだれ?・・ここはどこ?」という、
魂の種の発芽、意識の衝動さえ抑え込まれるような、
自信満々の無知の支配する世界において輪廻することは、
いったいどんだけ~!!の修行と言えるだろうか?
そうだ、そういう信念体系、幻想中の幻想ともいえる世界にいて、
それすらも「気づかない」闇の世から自ら目覚めることは
いったい、どんだけ~!なことだろう?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/e7/dac52b92d2663e01406aecf41ec4180b.jpg)
苦痛や苦悩、不幸や悲しみは、意識の派生である感情の刻印の痛み?ともいえるが、
それは、時間空間内に、現れては消える肉体・物質的波動と、
時間空間を超えた”魂”とのミスマッチからくるだろう。
これは魂自体が十分に目覚めていないことからくると言えようし、
意識内面にある高次の自己を・・忘れている・・とも言えるだろう。
時空を超えて在る・・魂が何かになること、
時空の中の出現と消滅の現象である物質・肉体と”自己同一化”することだ。
例えばこれは小説のモチーフにあるように、
白紙に絵を描いた作者が、その絵の中に入り込むようなものだ。
自己が・・その物だと錯覚している。
わたしは・・現われ出たその物、事物・肉体・環境である・・と錯覚している。
そして、現れ出ては消え去る現象の性質そのものに、
無限なる自らの発する高次の思考、思念、想念を投入し、
消えては現れ、現れては消える現象世界、そしてこの世の肉体、環境、
それ自身を・・わたしと・・錯覚しているということだ。
しかしながら、そのあり得ない「錯覚」を、
生身の幻想で経験できる世界が・・地球という世界であったと言ってもいいだろう。
苦痛や苦悩、不幸や悲しみは、意識の派生である感情の刻印の痛み?ともいえるが、
それは、時間空間内に、現れては消える肉体・物質的波動と、
時間空間を超えた”魂”とのミスマッチからくるだろうか。
その魂のための波動のギャップを提供してきたこの地球という世界も、
人々が大いなる意識であるように、同じく英知ある意識であることを悟れば、
もうそれは十二分に過ぎたこともわかるだろう。
この地球という、それぞれのわたしの、
愛あるバックグランドの世界も大きく変わってゆく、心すべき時でもある。
人々は、繰り返し、繰り返し外から入れてしまった幻想の種を覆し、
自らの魂の種にすでに書き込まれていること、
それが真の当たり前であるところの幸せこそが現実であると、
自らで想像・創造・実感する段階にきている。
I AM THAT I am.
わたしは在る・・からあらゆる顕現世界が出てくる・・、
であることを悟るならば・・・、
今あなたは・・「わたしは・・在る」・・に意識を引き戻し、
わたしは・・・で・・在る!--と宣言すべきであろう。
わたしは・・わたし以外に・・いないではないか?