気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か?の考察 その4

2019-01-01 06:36:47 | 語り部の章



わたしは何か?・・自分である、まったくそうだ。
己(おのれ)を分けたものであり、また己(おのれ)自身である。

ひとつが無数に分かれ、また無数はひとつである・・それ・・だ。

この”それ”とは何だろう?

実は”何でもない”ものだ。

こういうと、つまらないと思う。

なぜならば、条件反射的に習慣になった想いがブロックするからだ。
気づけるだろうか。

私は特別な何かであってほしい、さらにこの世界で何かを欲しい、
生きるために、何かに成り上がり、何かを獲得しなければならない、
頑張れ・・と、しっかり物欲マインドで方向付けられているために、

何でもないなんて、いったい何?・・つまらない・・と捨ててしまうものだ。

しかしながら・・何でもないものこそが、
何にでもなることができるのである。

すでに何かに成り切ってしまっていたら、
それ以上何になることができようか?

いいや決して出来はしない。

何でもない何かが、ある”特定の”何かに成りきることを、
ニサルガダッタ・マハラジは「自己同一化」と言っている。
人の場合は、肉体への自己同一化という。

今の私たちが、われわれ人間とは、我々人類は・・というが、
それは”自分の”いや”わたしの”この「肉体」を暗黙で示している。
サルの?進化の系譜に現れた肉体人間のイメージ固定だ。

でもそれは、わたしの知覚する、対象たる身体でしかない。

しかしながら、私がそれだと、
いや絶対そうだと集団で思い込んでいるからこそ、
その肉体をいかに維持するかと汲々とする世界を作り上げる。
あるいは逆に、軽んじる行いに陥ることになる。

それが数々の歴史絵巻として残っているものだ。
これでもかというほど味わってきた人類の歴史絵巻、
何でもない<わたし>が、特定の何かの<私>個人になること、
人類の真実の履歴は、その雄々しき体験記録の数々である。

これは、
映画を観ている者が、映画に見入ってしまうことに似ている。
それが実に面白いのは、魅入ってしまい”真の我”を忘れ、
それがゆえに真実と見間違うような疑似体験ができるからである。

そして、いつかその疑似体験そのものが”絶対の真実”だと思い込む。
そうでなければ真剣な、そして愚かな闘争・争いなど起きるわけはない。

実に周到緻密な世界を映し出すため、思い込んだら最後、
自らの発する思い込み自体に・・気づくまで、
何度も、そして、なんとそのスクリーンの中で生き死にするのだ。
ここでスクリーンとは、時空世界、例えば今・・知覚するこの世界、宇宙である。

わたしとは何か?
何でもないものである。
つまり、知覚対象でなく・・知られるものでなく、

”知る”ものである。

あるいは何かに成っている者ではなく、
その前の・”在る”こと・・そのものだ。
在る・・から存在すべてが出現する・・それは無限そのものだ。


何でもないものこそが、無数に展開する”何か”を知覚することができる。

自らが創造者であるがゆえに、何ということか!!
その無数に展開する・・それぞれの”何か”に自らを押し込めることも出来る。

今の”私”たちである・・といえば、あなたはどう思うだろうか。

わたしは何か?・・自分である、まったくそうだ。
己(おのれ)を分けたものであり、また己(おのれ)自身である。

ひとつが無数に分かれ、また無数はひとつである・・それ・・だ。

この”それ”とは何だろう?

実は”何でもない”ものだ。

これは空即是色、色即是空と同じ意味である。