わたしは何か?・・自分である、まったくそうだ。
己(おのれ)を分けたものであり、また己(おのれ)自身である。
ひとつが無数に分かれ、また無数はひとつである・・それ・・だ。
この”それ”とは何だろう?
実は”何でもない”ものだ。
こういうと、つまらないと思う。
なぜならば、条件反射的に習慣になった想いがブロックするからだ。
気づけるだろうか。
私は特別な何かであってほしい、さらにこの世界で何かを欲しい、
生きるために、何かに成り上がり、何かを獲得しなければならない、
頑張れ・・と、しっかり物欲マインドで方向付けられているために、
何でもないなんて、いったい何?・・つまらない・・と捨ててしまうものだ。
しかしながら・・何でもないものこそが、
何にでもなることができるのである。
すでに何かに成り切ってしまっていたら、
それ以上何になることができようか?
いいや決して出来はしない。
何でもない何かが、ある”特定の”何かに成りきることを、
ニサルガダッタ・マハラジは「自己同一化」と言っている。
人の場合は、肉体への自己同一化という。
今の私たちが、われわれ人間とは、我々人類は・・というが、
それは”自分の”いや”わたしの”この「肉体」を暗黙で示している。
サルの?進化の系譜に現れた肉体人間のイメージ固定だ。
でもそれは、わたしの知覚する、対象たる身体でしかない。
しかしながら、私がそれだと、
いや絶対そうだと集団で思い込んでいるからこそ、
その肉体をいかに維持するかと汲々とする世界を作り上げる。
あるいは逆に、軽んじる行いに陥ることになる。
それが数々の歴史絵巻として残っているものだ。
これでもかというほど味わってきた人類の歴史絵巻、
何でもない<わたし>が、特定の何かの<私>個人になること、
人類の真実の履歴は、その雄々しき体験記録の数々である。
これは、
映画を観ている者が、映画に見入ってしまうことに似ている。
それが実に面白いのは、魅入ってしまい”真の我”を忘れ、
それがゆえに真実と見間違うような疑似体験ができるからである。
そして、いつかその疑似体験そのものが”絶対の真実”だと思い込む。
そうでなければ真剣な、そして愚かな闘争・争いなど起きるわけはない。
実に周到緻密な世界を映し出すため、思い込んだら最後、
自らの発する思い込み自体に・・気づくまで、
何度も、そして、なんとそのスクリーンの中で生き死にするのだ。
ここでスクリーンとは、時空世界、例えば今・・知覚するこの世界、宇宙である。
わたしとは何か?
何でもないものである。
つまり、知覚対象でなく・・知られるものでなく、
”知る”ものである。
あるいは何かに成っている者ではなく、
その前の・”在る”こと・・そのものだ。
在る・・から存在すべてが出現する・・それは無限そのものだ。
何でもないものこそが、無数に展開する”何か”を知覚することができる。
自らが創造者であるがゆえに、何ということか!!
その無数に展開する・・それぞれの”何か”に自らを押し込めることも出来る。
今の”私”たちである・・といえば、あなたはどう思うだろうか。
わたしは何か?・・自分である、まったくそうだ。
己(おのれ)を分けたものであり、また己(おのれ)自身である。
ひとつが無数に分かれ、また無数はひとつである・・それ・・だ。
この”それ”とは何だろう?
実は”何でもない”ものだ。
これは空即是色、色即是空と同じ意味である。