気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か?の考察 その5

2019-01-06 06:04:38 | 語り部の章
何でもない<わたし>が、特定の何かの<私>個人になること、
これは、
映画を観ている者が、映画に見入ってしまうことに似ている。
それが実に面白いのは、魅入ってしまい”真の我”を忘れ、
仮想現実を真実と見間違うような疑似体験ができるからである。

我々は今、
この地球という映画館で、それをやっている・・のではないか?


わたしとは何か?
その答えを言うならば、実は「何でもないもの」だ。
色即是空の・・空(くう)だ。
色は波動として無数・無限だが、空(くう)あればこそだ。

しかしながら、この世的な刷り込み観念が実に重いため、
「何でもない?なんて、いったい全体、何なんだ!?」と思うし、
何でもないなんて、なんて無価値なんだ!と考えるものだ。
空(くう)なにも無い、虚無、死ぬこと、終わり・・の連想、
なんでもない、何にも無い・・空虚、無・・ああ、なんて怖い!
冗談じゃない!・・

と・・肉体個人は・・そう思うものであるし、
そんな事より、もっと肉体で楽しまなくちゃ~という、
尤もらしい現世利益主義に踊らされるものである。


しかしながら、誰でも間違いなく、
なんでもない、何もない空間に、
スカスカの原子でできた肉体が浮かんでいる事実を鑑みれば、
あらゆるすべてが、空(くう)という
何でもないものから”派生している”ことに気づけるだろう。

何でもないものから最初に派生するもの・・気づき・または純粋意識。

その微細な波動が無数の形態に派生してさまざま意識、マインドとなり、
意識の先に、その意識する・・時空間、対象(物)が展開する。
これは何億年の過去でも未来でもなく、
今、あなたがわたし達が在ること、観ていることそのものだ。

色即是空、空即是色・・、
世界、宇宙は99.999・・9%の空(くう)であり、
また残りの0.0000・・1%は・・色(波動)である。
それらの無数の波動展開が・・まさに宇宙である。

言わば無限なる宇宙意識が無数に個別化し、諸事物、諸生命となり、
人間は、その中で偽りの、いや仮想の肉体感覚があるため、
人が映画の中の特定個人に、いつか感情移入しているように。
実に壮大な世界の中にいる小さな個人と「錯覚」している。

ある意味で、人類社会は、実に麗しき・・錯誤の世界である。

その中で、またまた大勢の人がそれを唯一の真実世界として、
あるときは生死をかけて、ある意味で真剣に、たった数十年の寿命の間、
右往左往、たまに鼓腹撃壌、あるいは七転八倒しながら、
結局は、嫌悪しながらも、そんな素振りも見せない、
嘘だらけの世界をも作り上げることにもなる。

あなたの世界はどうだろうか?
・・・

なんでもないものは・・無ではなく、
無限のそのものであり、その無限性なるがゆえに
有限を無数に体験することが可能であるため、
特定の何かに・・なろうとすることが生じる・・とも言える。

「意識」とは、意識すること、何かに気づくこと・・であれば、
無限なる自身から出現する諸現象に気づくことともいえる。

意識がなければ、何に気づくこともない!
言うならば、
気づきの束が意識であり、意識の束がこころ・想念だ。


この世界というか、常識観念というか、今までの3次元的世界というか、

言うのもおこがましいけれでも、

それぞれの・・意識としてのわたし・・自身のことに気づいていなかった、
肉体や物を見えて触っているし、それをあれこれ考えて組み合わせているが、

それを成立させている「意識」の無限性に気づかない、というか、
いまだに大勢の人は、他の大勢の人々の有様に真実があると信じ込み、
そうではなく、それぞれの、
わたし・・自己自身の内面にある無限性に・・気付いていない状況といえる。

わたしは肉体である・・という常識思考に閉じこもり、
本質は、それを超えたところの、
意識そのものであるということに気づいていなかったと、
そう言えるだろう。




えー?何が?・・

あなたが眠っているときは「意識」が無いだろう。
無いというより一時的に”眠って”いる。
眠るというのは、起きる・目ざめるを前提にしている概念だ。
つまり熟睡のときは一時的に”意識”を失っている・・わけだ。
・・・
そして、その時には、
普段あるはずの現実世界は知覚していない。
これは誰でも知っている。

知覚していないということは、
その時、世界は”わたし”にとって”存在して”いない。

意識、知覚しない世界は、存在していないと同じだ。

ここが実に肝心なところで、
多くの人々が素通りしていたところだ!
何を言っているのかわからないところでもある。

例えば、わたしが眠っていても、
そのときそばにいて、目ざめている”他者”が
わたし(肉体)がすやすや眠っていることを見ているため、

その時も、わたしの肉体も世界も存在していたと、
わたしが目覚めた後で、教えてくれるわけだ。

「そうか、私は眠っていて何も気づかなかったけれど、
わたしも世界もその間にも有ったんだね・・」
・・と、(いちいち確認しないが・笑)、実際にはそういうことになる。

そうではないか?

実際、これば毎日起きていることなのだ。
あなたはもう何十年も経験してきたはずだ。

ただ当たり前のように、世界がずーっと存在していて、
私はその中で眠ったり目ざめたりしている者であると、
そう思っているということだ。

違うだろうか?

しかしながらこれは、
他者から見たあなたの”肉体・身体の”睡眠中の観察と記憶のことである。
逆に、

”わたし”意識からの観察と記憶ではない。
そのとき、意識が無いから自分の肉体も世界も知覚していない。

わたし・・意識にとっては、そのとき、肉体も世界も存在していない。


わたしという意識・・から見れば、眠りのその時は何も知覚しない。
たとえ眠っているのが3時間であろうとも、そのとき・・世界も他者もない。

そう、わたしにとって、
眠っている間、外側からみた3時間のあいだ、世界は消えている。

消えているって、あんた・・そんな馬鹿な・・!(笑)

それを言うならば、
”世界は有るけど、わたしが眠っているため見えていないいだけ”だ・・と
そう言うべきじゃないの、だってそうでしょう?

しかしながら、それは、

私が”肉体である”・・という観点から来ている認識である。

わたしは”意識である”・・という観点からみるとそうはならない。


意識が無ければ、知覚の働きも無い、
知覚の対象物である肉体も含め、
世界の事物も、その総合体系である世界も無い。

これは、意識としての・・わたし・・の事実である。

ところが、
主体たるわたしの意識ではなく、
他者の観察事実による言い分のほうを信じているのだ。

なので、あなたが眠っているときに他者が目ざめているため、
わたしが眠っている・・意識がない時にも、
世界・宇宙はずーっと存在している・・としているのだ。


実際の我々の経験則では、
意識によって、世界宇宙も含め、知覚可能となる。
知覚していない物事は、存在している・・有るとは言えない。

意識があるから(知覚する)世界がある。

わたし意識がなければ、わたしの世界も存在しえない。

この地球というカテゴリー世界、
わたしの世界、わたしの宇宙の・・根源である・・<わたし>を、
私の肉体を観察する他者の観念に置き換えてしまい、

わたしとは「考える肉体である」と信じ込み、
繰り返し、繰り返し外の世界の観念の流れのまま、
それもかなり低迷し、汚濁したマインドの流れの渦の中、
気づけば生まれ、気づけば死ぬという、
輪廻という浮き沈みを繰り返して来たのだと言えようか。

だって、偶然にもこのような文章を目にしながら・・、
今だってここに・・生きている・ではないか。


次元降下しまくってここまで来た、
この世の栄華も挫折も、そして人たちとの和も、孤独や分離感も、
そして悲しみや楽しみも、
来ては過ぎ去る走馬燈のようなものだと悟れば、
今はもう、それを超えて在る・・無限なる自らへと
ターンバックするときであろう。

その重要なキーは決して物や財産などではなく
・・わたし・・であり「意識」である。

わたし(意識)が在るから世界がある。
世界とは意識が目覚めた先に・・展開するものだ。
つまり、意識の中に世界や宇宙がある。

宇宙といえば、宇宙開発・探査などが進んでいるとされているが、
意識が無限であるからこそ、展開する宇宙もまた無限でありながら、
その宇宙空間の中の「対象物」をいかに探し回っても、
目新しいものを次から次へと目にすることはあっても、
それによって決して真実を「得る」ことはできない。

なぜならば、宇宙を展開するのは「意識」であるからだ。
自らである意識に・・それに気づくために・・
必ずしも宇宙空間に出る必要はないということだ。
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なんでもないものは・・無ではなく、
無限のそのものであり、その無限性なるがゆえに
有限を無数に体験することが可能であるため、
特定の何かに・・なろうとすること・・意識が生じる・・

・・在る・・Being ・・だ。

これは他人事ではなく、あなたが今・・在ることそのものだ!

そう、これは何か心地よい想像の類ではなく、
それぞれの・・わたし・・のことなのである。

わたしは・・在る・・!

というその意識・・によって今の世界・宇宙が展開している。

わたしが世界を見て、宇宙を見ていることは、
わたしが在るからこそ、起きていることなのである。


ならば・・問おう・・、

真の・・あなたとは何か?・・。




わたしとは何か?の考察 その4

2019-01-01 06:36:47 | 語り部の章



わたしは何か?・・自分である、まったくそうだ。
己(おのれ)を分けたものであり、また己(おのれ)自身である。

ひとつが無数に分かれ、また無数はひとつである・・それ・・だ。

この”それ”とは何だろう?

実は”何でもない”ものだ。

こういうと、つまらないと思う。

なぜならば、条件反射的に習慣になった想いがブロックするからだ。
気づけるだろうか。

私は特別な何かであってほしい、さらにこの世界で何かを欲しい、
生きるために、何かに成り上がり、何かを獲得しなければならない、
頑張れ・・と、しっかり物欲マインドで方向付けられているために、

何でもないなんて、いったい何?・・つまらない・・と捨ててしまうものだ。

しかしながら・・何でもないものこそが、
何にでもなることができるのである。

すでに何かに成り切ってしまっていたら、
それ以上何になることができようか?

いいや決して出来はしない。

何でもない何かが、ある”特定の”何かに成りきることを、
ニサルガダッタ・マハラジは「自己同一化」と言っている。
人の場合は、肉体への自己同一化という。

今の私たちが、われわれ人間とは、我々人類は・・というが、
それは”自分の”いや”わたしの”この「肉体」を暗黙で示している。
サルの?進化の系譜に現れた肉体人間のイメージ固定だ。

でもそれは、わたしの知覚する、対象たる身体でしかない。

しかしながら、私がそれだと、
いや絶対そうだと集団で思い込んでいるからこそ、
その肉体をいかに維持するかと汲々とする世界を作り上げる。
あるいは逆に、軽んじる行いに陥ることになる。

それが数々の歴史絵巻として残っているものだ。
これでもかというほど味わってきた人類の歴史絵巻、
何でもない<わたし>が、特定の何かの<私>個人になること、
人類の真実の履歴は、その雄々しき体験記録の数々である。

これは、
映画を観ている者が、映画に見入ってしまうことに似ている。
それが実に面白いのは、魅入ってしまい”真の我”を忘れ、
それがゆえに真実と見間違うような疑似体験ができるからである。

そして、いつかその疑似体験そのものが”絶対の真実”だと思い込む。
そうでなければ真剣な、そして愚かな闘争・争いなど起きるわけはない。

実に周到緻密な世界を映し出すため、思い込んだら最後、
自らの発する思い込み自体に・・気づくまで、
何度も、そして、なんとそのスクリーンの中で生き死にするのだ。
ここでスクリーンとは、時空世界、例えば今・・知覚するこの世界、宇宙である。

わたしとは何か?
何でもないものである。
つまり、知覚対象でなく・・知られるものでなく、

”知る”ものである。

あるいは何かに成っている者ではなく、
その前の・”在る”こと・・そのものだ。
在る・・から存在すべてが出現する・・それは無限そのものだ。


何でもないものこそが、無数に展開する”何か”を知覚することができる。

自らが創造者であるがゆえに、何ということか!!
その無数に展開する・・それぞれの”何か”に自らを押し込めることも出来る。

今の”私”たちである・・といえば、あなたはどう思うだろうか。

わたしは何か?・・自分である、まったくそうだ。
己(おのれ)を分けたものであり、また己(おのれ)自身である。

ひとつが無数に分かれ、また無数はひとつである・・それ・・だ。

この”それ”とは何だろう?

実は”何でもない”ものだ。

これは空即是色、色即是空と同じ意味である。