気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(37)世界はわたしの内側にある

2017-10-20 06:12:00 | 真我実現シリーズ
世界とは”わたし”の「外側」にあるものだと誰もが認識している。
いや誰も・・というわけではないが、多くのいわゆる常識人は、
そう想っているのである。

そうではないか?

学校で”そうだ”と教わるわけではないし、
社会であからさまにそう言っているわけではないが、
誰でもそう想っているものだ。

この世と言われる、”外側の”世界に、あるいは外側にいる大勢の人々に、
どうやってうまく対応するのか?日夜それで悩んだりするものである。

いや場合によっては悩みどころの話ではなく、さあどうする?どうする!
生きるか死ぬかと・・、そういう風にもなるもの。
つまり世界の中で、身体・肉体をいかに保持・防御するかというような、
そんな想いでいっぱいにもなるわけだ。

従って、何とか外側を制御したい、
さらには支配したいという欲望が生まれる。
なにせ、外側は内側に対して敵対的とも見えるし、
世界は、自分の都合、思考、想いに「忠実」なんかではないと、
そう想うからだ。

従って、
世界を変えよ、
世界を改革せよ、
あわよくば支配せよ・・・ともなる。(笑)
それがあちらこちらで衝突、爆発するわけである。

・・・
ところで、
この・・外の世界とはなんだろうか?

この世界とは何かと言えば、普通は、
”わたしの肉体”の・・外側・・ということだ。
そうではないか?

その場合、
「わたしは何か?」と問うたならば、
「それはわたしの身体だ・・」と言うだろうし、
そうは明言しない人であっても、
わたしの”身体”を強く意識しているはずであるし、
はて、それ以外にわたしは・・・どこにあるの?さとなる。

つまりわたしとは・・この肉体である。

それは、なぜかと言えば、
肉体の五感によって知覚しているからだ。
外界の情報を処理・記憶する頭脳・神経組織等のはたらきで、
わたしが見る、聞く、感じる世界を”知覚”しているからである。

そう、
”知覚している者”が、わたしの肉体である・・と、

なので、わたしは・・この肉体である・・と、
そう想っているのである。

「何言ってんの?、それに決まっているじゃないか!」
「皆、そう言っているよ」・・(とまでは言わないが、)
それが当たり前の真実だと思い込んでいる。

でもこれは、世界を知覚、観察するものは肉体である、・・
「わたしとはこの肉体である」という”想念”なのである。

・・・んな、わけないじゃん・・も想念だ(笑)。

実際に、わたしたちにあるのは何かといえば、

ただ知覚することがあり、
肉体機能の働きを観察しつつ、
「それがわたしだ」という”想念”がーー起こっている!
・・ということなのである。

マインド、こころ、思考を観察できるならば、
こころ、思考さえも、”起きている現象”であることが・・”知覚”されるはずだ。

あからさまな物質環境や身体に限らず、
目に見えない、思考や感情も・・生起していること
そして、”知覚される対象”なのだ。

これは五感の知覚ではなく、”内面での気づき”と言ったほうが良い。
内面と言っても、肉体の中・・ではない。
・・・

ただ気付くこと、知覚することがあり、
それに付随した「思考」が沸き起こっている・・、

「それがわたしだ」という・・”想念”も”起こって”いる。

思考は”わたし”が起こすとか、私が考えたんだ・・・と思っているが、
実は、起きている・・・。

思考や感情も・・高次の<現象>なのであり、
意識すること、気付きの・・その対象だ。

逆に言えば、”気づき”があるがゆえに、
知覚があり、想念がある、世界がある。

更に言えば、
”気づき”の中に・・世界も肉体も顕れている・・のである。

波動でいえば、空(くう)なる無限の静寂の中に起きた、
原初の波動、根源波動・・とも言えようか。
それによって全てが創造されている、根源の波動とも言えよう。

3次元的に言えば、空(くう)に満ちている、無限小の波動・・、
あるいはクオークの極限・・、

その波動は、あらゆる全てを貫いているがゆえに、
全てに・・気づいている・・と言うべき、それだ。

・・・

例えの話だが、
プラネタリウムというものを観たことがあるだろう。
あれは装置の中心に光源があり、それがレンズの仕組みを通じて、
設えられた天幕に投影されたものである。

「いやー、スゲーな~!」とうっとりするものだし、
あたかも、そこにあるかのように感嘆するし、
思わずそこに引き込まれてこそ、感動を生み出しもする。

しかしながら、
実際に目に見えるそれは、光源からの放射光の波動で描かれたもの。
人はそれを・・見ているだけなのである。

そのシステムを知っている人はわかるだろう。
決して、光源と、その投影されるものが無関係ではないことを。

いや無関係どころか、様々に映し出される世界、変幻する世界、
投影される世界は、文字通り光源にその”源”があることを知るはずだ。



わたしたちは、自らが光源であると知らず、
光源の照らすその投影像のなかに居ると思い込んでいた。

光源から見れば、宇宙のすべては・・その光の中にあるように、
気付いている・・わたし・・の中に、わたしの世界が展開しているのだ。

世界は、わたしの意識のなかにある。
その逆ではない。

これは単に、観の転換ともいえるが、
まさに内と外が、グレンとひっくり返ることになる。