世界とは”わたし”の「外側」にあるものだと誰もが認識している。
いや誰も・・というわけではないが、多くのいわゆる常識人は、
そう想っているのである。
そうではないか?
学校で”そうだ”と教わるわけではないし、
社会であからさまにそう言っているわけではないが、
誰でもそう想っているものだ。
この世と言われる、”外側の”世界に、あるいは外側にいる大勢の人々に、
どうやってうまく対応するのか?日夜それで悩んだりするものである。
いや場合によっては悩みどころの話ではなく、さあどうする?どうする!
生きるか死ぬかと・・、そういう風にもなるもの。
つまり世界の中で、身体・肉体をいかに保持・防御するかというような、
そんな想いでいっぱいにもなるわけだ。
従って、何とか外側を制御したい、
さらには支配したいという欲望が生まれる。
なにせ、外側は内側に対して敵対的とも見えるし、
世界は、自分の都合、思考、想いに「忠実」なんかではないと、
そう想うからだ。
従って、
世界を変えよ、
世界を改革せよ、
あわよくば支配せよ・・・ともなる。(笑)
それがあちらこちらで衝突、爆発するわけである。
・・・
ところで、
この・・外の世界とはなんだろうか?
この世界とは何かと言えば、普通は、
”わたしの肉体”の・・外側・・ということだ。
そうではないか?
その場合、
「わたしは何か?」と問うたならば、
「それはわたしの身体だ・・」と言うだろうし、
そうは明言しない人であっても、
わたしの”身体”を強く意識しているはずであるし、
はて、それ以外にわたしは・・・どこにあるの?さとなる。
つまりわたしとは・・この肉体である。
それは、なぜかと言えば、
肉体の五感によって知覚しているからだ。
外界の情報を処理・記憶する頭脳・神経組織等のはたらきで、
わたしが見る、聞く、感じる世界を”知覚”しているからである。
そう、
”知覚している者”が、わたしの肉体である・・と、
なので、わたしは・・この肉体である・・と、
そう想っているのである。
「何言ってんの?、それに決まっているじゃないか!」
「皆、そう言っているよ」・・(とまでは言わないが、)
それが当たり前の真実だと思い込んでいる。
でもこれは、世界を知覚、観察するものは肉体である、・・
「わたしとはこの肉体である」という”想念”なのである。
・・・んな、わけないじゃん・・も想念だ(笑)。
実際に、わたしたちにあるのは何かといえば、
ただ知覚することがあり、
肉体機能の働きを観察しつつ、
「それがわたしだ」という”想念”がーー起こっている!
・・ということなのである。
マインド、こころ、思考を観察できるならば、
こころ、思考さえも、”起きている現象”であることが・・”知覚”されるはずだ。
あからさまな物質環境や身体に限らず、
目に見えない、思考や感情も・・生起していること
そして、”知覚される対象”なのだ。
これは五感の知覚ではなく、”内面での気づき”と言ったほうが良い。
内面と言っても、肉体の中・・ではない。
・・・
ただ気付くこと、知覚することがあり、
それに付随した「思考」が沸き起こっている・・、
「それがわたしだ」という・・”想念”も”起こって”いる。
思考は”わたし”が起こすとか、私が考えたんだ・・・と思っているが、
実は、起きている・・・。
思考や感情も・・高次の<現象>なのであり、
意識すること、気付きの・・その対象だ。
逆に言えば、”気づき”があるがゆえに、
知覚があり、想念がある、世界がある。
更に言えば、
”気づき”の中に・・世界も肉体も顕れている・・のである。
波動でいえば、空(くう)なる無限の静寂の中に起きた、
原初の波動、根源波動・・とも言えようか。
それによって全てが創造されている、根源の波動とも言えよう。
3次元的に言えば、空(くう)に満ちている、無限小の波動・・、
あるいはクオークの極限・・、
その波動は、あらゆる全てを貫いているがゆえに、
全てに・・気づいている・・と言うべき、それだ。
・・・
例えの話だが、
プラネタリウムというものを観たことがあるだろう。
あれは装置の中心に光源があり、それがレンズの仕組みを通じて、
設えられた天幕に投影されたものである。
「いやー、スゲーな~!」とうっとりするものだし、
あたかも、そこにあるかのように感嘆するし、
思わずそこに引き込まれてこそ、感動を生み出しもする。
しかしながら、
実際に目に見えるそれは、光源からの放射光の波動で描かれたもの。
人はそれを・・見ているだけなのである。
そのシステムを知っている人はわかるだろう。
決して、光源と、その投影されるものが無関係ではないことを。
いや無関係どころか、様々に映し出される世界、変幻する世界、
投影される世界は、文字通り光源にその”源”があることを知るはずだ。
わたしたちは、自らが光源であると知らず、
光源の照らすその投影像のなかに居ると思い込んでいた。
光源から見れば、宇宙のすべては・・その光の中にあるように、
気付いている・・わたし・・の中に、わたしの世界が展開しているのだ。
世界は、わたしの意識のなかにある。
その逆ではない。
これは単に、観の転換ともいえるが、
まさに内と外が、グレンとひっくり返ることになる。
いや誰も・・というわけではないが、多くのいわゆる常識人は、
そう想っているのである。
そうではないか?
学校で”そうだ”と教わるわけではないし、
社会であからさまにそう言っているわけではないが、
誰でもそう想っているものだ。
この世と言われる、”外側の”世界に、あるいは外側にいる大勢の人々に、
どうやってうまく対応するのか?日夜それで悩んだりするものである。
いや場合によっては悩みどころの話ではなく、さあどうする?どうする!
生きるか死ぬかと・・、そういう風にもなるもの。
つまり世界の中で、身体・肉体をいかに保持・防御するかというような、
そんな想いでいっぱいにもなるわけだ。
従って、何とか外側を制御したい、
さらには支配したいという欲望が生まれる。
なにせ、外側は内側に対して敵対的とも見えるし、
世界は、自分の都合、思考、想いに「忠実」なんかではないと、
そう想うからだ。
従って、
世界を変えよ、
世界を改革せよ、
あわよくば支配せよ・・・ともなる。(笑)
それがあちらこちらで衝突、爆発するわけである。
・・・
ところで、
この・・外の世界とはなんだろうか?
この世界とは何かと言えば、普通は、
”わたしの肉体”の・・外側・・ということだ。
そうではないか?
その場合、
「わたしは何か?」と問うたならば、
「それはわたしの身体だ・・」と言うだろうし、
そうは明言しない人であっても、
わたしの”身体”を強く意識しているはずであるし、
はて、それ以外にわたしは・・・どこにあるの?さとなる。
つまりわたしとは・・この肉体である。
それは、なぜかと言えば、
肉体の五感によって知覚しているからだ。
外界の情報を処理・記憶する頭脳・神経組織等のはたらきで、
わたしが見る、聞く、感じる世界を”知覚”しているからである。
そう、
”知覚している者”が、わたしの肉体である・・と、
なので、わたしは・・この肉体である・・と、
そう想っているのである。
「何言ってんの?、それに決まっているじゃないか!」
「皆、そう言っているよ」・・(とまでは言わないが、)
それが当たり前の真実だと思い込んでいる。
でもこれは、世界を知覚、観察するものは肉体である、・・
「わたしとはこの肉体である」という”想念”なのである。
・・・んな、わけないじゃん・・も想念だ(笑)。
実際に、わたしたちにあるのは何かといえば、
ただ知覚することがあり、
肉体機能の働きを観察しつつ、
「それがわたしだ」という”想念”がーー起こっている!
・・ということなのである。
マインド、こころ、思考を観察できるならば、
こころ、思考さえも、”起きている現象”であることが・・”知覚”されるはずだ。
あからさまな物質環境や身体に限らず、
目に見えない、思考や感情も・・生起していること
そして、”知覚される対象”なのだ。
これは五感の知覚ではなく、”内面での気づき”と言ったほうが良い。
内面と言っても、肉体の中・・ではない。
・・・
ただ気付くこと、知覚することがあり、
それに付随した「思考」が沸き起こっている・・、
「それがわたしだ」という・・”想念”も”起こって”いる。
思考は”わたし”が起こすとか、私が考えたんだ・・・と思っているが、
実は、起きている・・・。
思考や感情も・・高次の<現象>なのであり、
意識すること、気付きの・・その対象だ。
逆に言えば、”気づき”があるがゆえに、
知覚があり、想念がある、世界がある。
更に言えば、
”気づき”の中に・・世界も肉体も顕れている・・のである。
波動でいえば、空(くう)なる無限の静寂の中に起きた、
原初の波動、根源波動・・とも言えようか。
それによって全てが創造されている、根源の波動とも言えよう。
3次元的に言えば、空(くう)に満ちている、無限小の波動・・、
あるいはクオークの極限・・、
その波動は、あらゆる全てを貫いているがゆえに、
全てに・・気づいている・・と言うべき、それだ。
・・・
例えの話だが、
プラネタリウムというものを観たことがあるだろう。
あれは装置の中心に光源があり、それがレンズの仕組みを通じて、
設えられた天幕に投影されたものである。
「いやー、スゲーな~!」とうっとりするものだし、
あたかも、そこにあるかのように感嘆するし、
思わずそこに引き込まれてこそ、感動を生み出しもする。
しかしながら、
実際に目に見えるそれは、光源からの放射光の波動で描かれたもの。
人はそれを・・見ているだけなのである。
そのシステムを知っている人はわかるだろう。
決して、光源と、その投影されるものが無関係ではないことを。
いや無関係どころか、様々に映し出される世界、変幻する世界、
投影される世界は、文字通り光源にその”源”があることを知るはずだ。
わたしたちは、自らが光源であると知らず、
光源の照らすその投影像のなかに居ると思い込んでいた。
光源から見れば、宇宙のすべては・・その光の中にあるように、
気付いている・・わたし・・の中に、わたしの世界が展開しているのだ。
世界は、わたしの意識のなかにある。
その逆ではない。
これは単に、観の転換ともいえるが、
まさに内と外が、グレンとひっくり返ることになる。