気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(35)神さまはどこにいる?

2017-10-07 05:45:52 | 真我実現シリーズ
あなたである天神さまが下りてきた世界は、実に大変な世界だった(笑)。
そうではないか?

生まれたての赤ん坊が「オギャー」と”泣く”のはなぜか?
親ならわかるが・・普通は、肉体の快・不快を訴えている。
うんちやしっこ、腹へった、お尻がキモい、などだ。
あるいは、
肉体に自己同化して来たことへの、複雑な素の感情の発露・・ともいえようか。
悲しくて泣く・・ばかりではない、身体に自らを閉じた経験の衝撃もあるだろうか、
親たちは親族の希望が生まれ、可愛くて仕方がないだろうが、
赤子で再誕生した魂にとっては、いかばかりだろうか。
・・・

無限なる”わたし”を忘れて、1個の肉体自我に自己同一化するという、
いわば、とんでもないその創意工夫?を一体誰が思いつくだろうか?
だから天神様なのだ。
天の神といっても、かつてある星の宇宙人様だったという意味ではない: 笑。

それは、わたしの多次元的側面では、別の人間、あるいは生命体だというような話である。
また、それは時空間の転生、時空内(輪廻)転生の話である。




天とは空(くう)、すべてを貫きすべてである・・それだ。
自分とはかけ離れた偉大な神様、
あるいは煌びやかな装飾の木像の類でもない。

真の・・わたし・・真我・・だ。

くどいけれど、
わたし、と言っても、肉体個人の私・・ではない。

ここにマインド上、観念上のいわば多次元的ややこしさがある。(笑)

空(くう)ともいう無限の包容、
至高の実在、無限のそれ、完全なる充満、
それ・・は、

そのなかに、自らの投影である様々な諸世界を、
またその中の1つの、<今の>この時空世界を・・観ているそれだ。
それが天神さまの例えだ。

貴方や私と言う、肉体個人あるいはその集合は、その複数投影である。

集合写真の中に入(い)っている者だ。

「卒業写真のあの人は、やさしい目をしてた〜♫
人混みに流されて、変わってゆくわたしを、
あなたは・・時々、遠くで叱って~ ♬ ♪」そんな流行り歌があったっけ?


(写真はネットでの拝借)

個人とは・・、
肉体の中に・・いるとして・・自己同化している神だ。
あなたは、いま自分個人に・・自己同化している紙だ、いや神だ

神も仏も長い歴史のなかで相当に手あかがついた概念となっており、
これを使うと、つい曲がったイメージが付随するため、
「それは・・なーに?」の「それ」を使うが良い。

”それ”とは、不特定、不明、未知、知られざる、把握せざる、もの。
いまだ具象化しない、形態化しない、知覚対象でない・・こと。

だから、神さまはどこにいるの?と言って、
何の返事もない、助けてくれない、顔を出してくれない、
天から降りてきてくれない、・・・と嘆く人もいる。
・・・

知覚する者は、知覚化できない・・。
知る者は、知られることはない・・。

現れた「もの」・・ではなく、現す・・「それ」を、
直接・・肉眼視できるわけもない。

映画のシナリオ作家が、映画に出演するわけもない。

陶芸の作者が、その陶芸の中に、蓮華座すわりでタバコ吸ってるわけもない(笑)。

創造者は、見る聞く触れるなど、直接知覚できない。
  なぜならば創造する者だからだ。
創作者は芸術品そのものではない。
  実は、誰でもすでに知っていることだ。
  そうではないか?
小説は、作家そのものではない。

現す者は・・現れたものそのものではないということだ。
観察するものは、・・観察対象そのものではないということだ。
知覚する者は、知覚されえないから・・知覚者なのだ。
・・・
だから何処にもいない・・と観察されるのである。
場所や時間、空間の中にはいない・・という表現になる。
つまり時空を超えているということだ。

地球も月も太陽も、無数の観察される・・星々も、
「それ」の・・観察対象である。
どれだけ時間や空間が大きかろうと小さかろうと・・、
観察する者は、観察対象を超えている、包み込んでいる。
次元を超えている・・のである。

それを、例えの表現で「天神さま」と言っている。

だから、天神さまはどこにもいない。
天のどこかにはいない、当たり前だ。
特定の時間・空間、次元に・・”居る”わけもない。

また、どこにもいないけれど、
そうであるがゆえに、
様々な形、波動、表現型で無数に現れているのだ!

気づき、知覚し、想いを巡らせ、様々な現象を・・観察する。
そして、それに”気付いている・・者はだれか?

あなただろう?・・

え?違うの?、みんながそう言ってないから?
お金持ちでないから?からだがしんどいから?
しかし、それらは観察対象、映画に映った私の姿のほうだ。

外の姿絵ではなく、その知覚者である、また知覚できない、
真のわたしは・・何か?・・だ

神は息吹を吹き込んで、自らに似せて・・、
人間を作ったという聖書の言い伝えがある。

無限なる者が・・何かに”自己同化して、それに成りきり、
またそれ自体に気付いている・・それが”人”である。


今、生きている・・あなたは何か・・?

”それ”・・だ。  I AM THAT.

”それ”以外・・何があろうか?

・・・
わたしは・・・今・・それで・・在る・・!

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以前アニタの臨死体験のサイトを紹介したが、
本質のわたしとは何か?という
1つの実経験版がここにも出ているので勝手に紹介する。
尚、経験といっても、・・意識の・・である。

ほんとうのような、・・実は嘘ばかりの世界で、
これらは、”嘘のような”ほんとうの話である。

世間常識では、臨死というと「やだ~怖い」という反応があるが、
そういう場合は、
この世界の肉体とこころの乱舞による幻惑と恐怖、
あまりの本当らしい嘘観念に翻弄され続け、
肉体の生と死というものを超えた・・わたしの在り方、
より高次の「おおいなる生命」に未だ気づく時が来ていない。
いや、単に未だその”気がない”ということだ。

しかしながら、誰しもだが、
・・わたしを忘れっぱなしと・・いうのもねー(笑)、
なんだかな~・・とそう感じる時が来るものだ。

嗚呼、それも、
気づけば、今であり、
気づかなければ、それも今・・である。


アニタの臨死体験