私たちは皆、眠り、夢を見て、目ざめる。
毎日毎時、毎瞬そのどれかを経験している。
それ以外にはない。
眠り、夢見、目覚め・・以外にない。
これが、”生きている”、ということだ、
起き出して、活動してる間だけではない。
これら3つはすべて、「意識」の状態といえる。
誰もみな、目覚めている間のことは、よく知っている。
肉体が活動し、思考を巡らせ、感情を持つ・・。
幼少期からそれらを記憶しつつ・・自我、私・・を創り上げてゆく。
幼少期のいつころか、2歳か3歳か・・
次第にわたし・・という自我意識・・に気づいて来たはずである。
思い出せるだろう?
幼児期に、とある家族の中の自分がいる・・こと、
親との関係性に気づき始めると同時に、
いつからか・・わたし・・という意識が目覚め始める。
これは、何年何時何分は覚えていないだろうが、
目覚め始めたことに・・気づいたことは・・
あなたの記憶の中で確実なものだろう。
みなそれを通ってきた。
ここらあたりが、おぼろげながらも、
世界の知覚や思考の・・中心の・・自分・・の芽生えといえる。
無(限)意識から・・意識へ・・。
普遍意識から個別意識へ。
自(おのず)から・・分かれた・・自分、というものが芽生える。
膨大な無限の海と、表面の波頭の関係ともいえる。
あるいは根源から光が放たれることと同じだ。
これは毎朝の、眠りから目覚めへの意識の移行とも同じようである。
いや個別でありながらも、本質的には同じことである。
生誕とは、気づきの新たなサイクルとでも言えようか。
幼児期に、とある家族の中の自分がいる・・こと、
親との関係性に気づき始めると同時に、
いつからか・・わたし・・という意識が目覚め始める。
周りに気づき始めるのだ。
そこから<わたし>の世界・宇宙が始まる。
それがこの世での生誕だ。
肉体の観点からではなく、観の転換の後の、
<意識>から見た生誕とも言おうか。
それまでは、周囲の人が観察する「肉体」はあれども、
意識が目覚めておらず、その時、
<わたし>の世界があったと明確には言えまい。
先にあったのは、
地球が設(しつらえ)た、そして親や家族が用意した、
愛らしい想いで観ている・・「肉体」である。
私たちは、皆、そこ、神の宮・・で目覚めたのだ。
大変な世界が待ち受けている事も知らず(笑)。
それが、わらべ歌にある
「行きはよいよい、帰りはこわい♬・・」天神様の通り道だ。
そう、ここでいう”天神さま”とは、
誰あろう・・あなたである。
毎日毎時、毎瞬そのどれかを経験している。
それ以外にはない。
眠り、夢見、目覚め・・以外にない。
これが、”生きている”、ということだ、
起き出して、活動してる間だけではない。
これら3つはすべて、「意識」の状態といえる。
誰もみな、目覚めている間のことは、よく知っている。
肉体が活動し、思考を巡らせ、感情を持つ・・。
幼少期からそれらを記憶しつつ・・自我、私・・を創り上げてゆく。
幼少期のいつころか、2歳か3歳か・・
次第にわたし・・という自我意識・・に気づいて来たはずである。
思い出せるだろう?
幼児期に、とある家族の中の自分がいる・・こと、
親との関係性に気づき始めると同時に、
いつからか・・わたし・・という意識が目覚め始める。
これは、何年何時何分は覚えていないだろうが、
目覚め始めたことに・・気づいたことは・・
あなたの記憶の中で確実なものだろう。
みなそれを通ってきた。
ここらあたりが、おぼろげながらも、
世界の知覚や思考の・・中心の・・自分・・の芽生えといえる。
無(限)意識から・・意識へ・・。
普遍意識から個別意識へ。
自(おのず)から・・分かれた・・自分、というものが芽生える。
膨大な無限の海と、表面の波頭の関係ともいえる。
あるいは根源から光が放たれることと同じだ。
これは毎朝の、眠りから目覚めへの意識の移行とも同じようである。
いや個別でありながらも、本質的には同じことである。
生誕とは、気づきの新たなサイクルとでも言えようか。
幼児期に、とある家族の中の自分がいる・・こと、
親との関係性に気づき始めると同時に、
いつからか・・わたし・・という意識が目覚め始める。
周りに気づき始めるのだ。
そこから<わたし>の世界・宇宙が始まる。
それがこの世での生誕だ。
肉体の観点からではなく、観の転換の後の、
<意識>から見た生誕とも言おうか。
それまでは、周囲の人が観察する「肉体」はあれども、
意識が目覚めておらず、その時、
<わたし>の世界があったと明確には言えまい。
先にあったのは、
地球が設(しつらえ)た、そして親や家族が用意した、
愛らしい想いで観ている・・「肉体」である。
私たちは、皆、そこ、神の宮・・で目覚めたのだ。
大変な世界が待ち受けている事も知らず(笑)。
それが、わらべ歌にある
「行きはよいよい、帰りはこわい♬・・」天神様の通り道だ。
そう、ここでいう”天神さま”とは、
誰あろう・・あなたである。