気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(10)意識は死を知らず

2017-07-09 17:21:00 | 真我実現シリーズ
ニサルガダッタ・マハラジがかつて言った。
「わたしは・・
  かつて生まれたことも、
   死んだこともない」

えーっ、何言ってんだよ、ナ、わけないじゃん!
その時の私ならずとも、誰しも思うだろう。




しかしながら、そう思うのは、
「自分が肉体である」と思っているからなのである。
これは、
長い時間をかけて「嘘」を教わるこの世界に生まれた
宿命のようなものだ。

わたしとは何か?・・・
答えは、
I AM THAT I am
<わたしとは思っているもの・・>それである。
そして特定の何か・・「それ」は常に幻想なのである。

マインドで見る世界は万華鏡のように変化するもの。
どれが真実だなどと言えない。

ただ見ている者・・だけが、存在している。
本質のわたしという、真我だ。

この世界では、
わたしはこの肉体である・・と思い込んでいる、
あるいは大勢の言うことが真実だと思い込んでいる、
学校の先生でさえも、そうだろう。
世界のトップ?で踊り狂っている者たちはなおさらだ。

単にそういう話なのだ。
ドカン、バコンと打ち上げ花火を上げることもない。(笑)


また、自らを肉体であると規定している者たちが恐れる死とは
思考、マインドの思い込みであって、事実ではない。

これは、いまだ多くの人々が、
外の世界ばかりを対応するように教育され、仕向けられ、
そのまま鵜呑みのままで人生を流れてゆくため、
自分自身を探求することも、
内面を観察することもないからこその事だ。
・・・

人は皆、毎日のサイクルで眠りを経験している。
眠っている時、そして熟睡している時にはまったく「意識」がない。
毎晩毎晩それを通過している。
気づいているだろうか?

何も知覚しない、考えもない、つまり「(顕在)意識がない」・・・のである。
このこと自体、ほとんどの人は気にしない。

また、この「意識がない」ということに恐れを抱くこともない。
そうではないか?
なぜならば、再び朝になったら目覚めるからだ。
経験上でそれが当たり前として知っている。

そうだ、何かにひどく執着している人、
それがゆえに神経症になっている人達以外は
毎夜寝ることを恐れる人はいない。
あなたもそうだろう。
怖れるどころか、楽しみな人もいるだろう。

意識が次元を一瞬で通過すること、
熟睡から目覚めの過程、夢見もまた楽しいものである。

熟睡中はマインドが存在しない、
そのため、意識上に障りやノイズがないため、、
体力が回復し、気力が充電される。、
それが睡眠の効能だと知っているだろう。

熟睡することを怖がる人はいない。
したがって、たとえその間、
意識が一時失われても、それを恐れはしないはずだ。
それは一時であること知っているから。

そう、
熟睡中は(顕在)意識がないために、世界・宇宙すらも存在しない。

これは大言壮語ではなく、意識から見た”事実”である。
世界がその間存在しない・・にもかかわらず、誰も恐れはしない。

・・・
ところで、
普通、人は「死ぬこと」に関しては実に恐れるものだ。
そうではないか?

人、皆いざというときには、そうではなかろうか?
特に、今の欧米流の、マインド・物質信仰時代は全くそうだ。
死は忌み嫌われる。

生きること・・これが至上命題である・・と、
涙ながらに、なんでもがんばれ、頑張れ・・、
世間ではそれしか言わない。
そうではないか?

そうであるがゆえに、
死というものが忌み嫌われ、
いつも、常にそれを忘れるように仕向けられる。

それを思い出すのは、現実の苦痛がひどくなって、
逃げ出したいときだけ。
幻想映画を見ておびえ、映画館から逃げ出したい衝動に駆られる、
そういうときだけである。

そう、
この世界で、最も忌み嫌われているのは、
悪でも、不正でも、詐欺でもなく、戦争でも、搾取でもなく、
<自分が・・死ぬ>ことである。

だから逆に、全く逆に、
戦争や搾取や不正、病気がはびこっているとも言える。

なぜかといえば、
死というものが忌み嫌われ、命の本質が探求されず、
またそうであるがゆえに、
ただ死ぬことが怖いがゆえに、

生きることが人質に取られ、優し気に労苦を強いられ、
軽く脅され続け、金をゆすられ続けて、
人生さえも”時間の流れ”に流されてゆく。

物質文明の底流にあるのは生命への無知である。

現象世界に降りての幻想映画の体験の中では、
生と死という生成消滅の現象によってこそ
初めて生命は語られる得るものだ。

人体も、生だけ食って、生だけ纏って、生だけ飲んで、
排出しないわけもないではないか。(笑)

外見だけきれいに着飾り、あるいは動物の皮を身にまとい、
あれが旨い、これがおいしいと言っては、
たらふく食べてそのあとの、
自分の排出物を、臭いとか汚物とか言って忌み嫌う。



どうかしているとは思わないのか?

生だけ良くて、死はだめ等と、いったい誰が言うのだろうか?

あーこわいこわい、死なんてまっぴら、
「くわばら、くわばら・・」
「あー、縁起でもない!」
「若いうちからそんなこと考えちゃダメ」
「あんた、なに考えてんの?」・・。

世間でも、学校でも、社会でも、世界でも、
死のことなど、考えてもいけないことになっている。(笑)

そんなことよりも、
生きていることの方が、何をおいても大事だというわけだ。
これは至極もっとものように思われているが、

その底には無知と恐怖があることに気づけるだろう。

死んだら終わりだから、考えてもいけない・・
と「考えて」いるのだ。
・・
しかしながら、気づけるように、
これは肉体マインドの無知からくる「思考」なのである。

菅原洋一の歌ではないが、「知りたくないの」だ。(おいおい古いぞ 笑)

今までは、
無知の思考、マインドがはびこっていたということだ。

つまり、
死んだら何もない・・・のは「思考」だ。
死んだら何もないので、考えても意味がない・・という「考え」(笑)。

つまりすべてが「考え」「思考」に過ぎないのだ。

他者の多くが生まれて死んだ・・
それを見てきた私は、<私もそうだと>・・思うのである。
そうではないか?

しかしながら、あなたはまだ死んではいない。
お年を召しているかもしれないが、(笑)

そして、誰もみな、「自分が死んだ」ことを”知る”ことは、
決してないのである。


「えーっ、どういう意味」

例えば、先に話したように、
あなたが夜、寝たとして、熟睡中は意識がないはずだ。

”あなたが寝たと!”・・あなたは知ることはない。

熟睡中、つまり意識がない時には、
わたしは寝ている・・ことを、
私は決して知ることはできない!

同じようにして、
わたしは・・、わたしが死んだことを・・知ることはないのだ。
意識には死の体験がない、死ぬという話はどこにもない。
いつも、どこでも、時空を超えているのが・・意識だ。

わかるだろうか?

あなたが幽体離脱して、
自分の肉体が寝ていることを見ることができるとしても、
その時には、肉体は寝ているが、
それを外から見ている<あなた>は寝ていない・・
つまり・・意識がある・・。

臨死体験者は、天井とか外側から、
死にそうな?自分の肉体を見下ろす経験をしているが、
それは「意識」が空間側にあって、そこから自分の肉体を観察している。

つまり、
わたし意識は常に存在しているのである。
死んではいないことになる。

意識は、想念によって無限の層を生み出すが、
それは現象を生み出すということだ。
現象は始めと終わりがある。
しかしながら、作者・創造者には初めもなければ終わりもない。

ふつう、人は、死を恐れる。
なぜならば、肉体がなくなることで、
・・永遠に・・意識がなくなると「思う」からだ。

人は自分を肉体と勘違いしているので、
肉体死を恐れるわけだが、
実は、意識がなくなる・・ことを恐れるのである。
自分が存在しないことを恐れるのだ。

気づいていただろうか?

「死は恐れないよ」という人もいるだろうが、
そういう人は、
単に、肝が据わっているのではなく、
度胸があると、いうのではなく、
世の中やけくそで、どうでもいいやというわけでもない。

そういうマインドのごまかしではなく、
肉体は生成消滅はしても、
意識は無くならないということを知っているからである。
現象物語には終わりと始めがある。

意識と名づけられたそれにははじめも終わりもない。
あなたもわたしもそうだが、
それは、
変化をその旨とする現象ではなく、その現象の創造主だからだ。
家の主(あるじ)ではなく、自己創造の主だ。

創造主が死んでどうするのか?(笑)
あなた以外、責任者のいない世界で、
だまされる続けるのも加減が必要である(大笑)。

そうではないか?

あなたが熟睡すれば世界が消え、目覚めれば世界の諸相が展開する。
毎日それを教わり、経験しているのである。

それに気づくならば、また大きな眼ざめが起きたということだ。


次元、宇宙といえども、意識の中にある。