気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは・・何か(20)宇宙はわたしの中にある

2017-05-03 18:00:30 | 意識の拡大
灯台元暗し

毎日、毎日忙しく生きているにもかかわらず、

我々は本当に身近すぎて見えないことが多すぎる。

自分のことをほとんど知ることなく、外側の世界で右往左往し、

うわさ話や出来事で一喜一憂しているかもしれない。


世界を知覚し、知り、記憶するその根幹にある・・・わたし・・について、

まったく無知蒙昧と言わねばなるまいに、


というか、無知、それ自体に気づきもしない有様ではなかったか。

わたしのことを肉体だ・・と簡単に決め込んで、

よくも何千年も知らずに、あるいは知らされずにいたものだと思う。

そうは思えないか?


●内奥のわたしが・・根源

わたしに最も近いのは・・何あろう・・わたし・・なのである(笑)。

本当の意味で、・・

わたしが・・<わたし>のことを知る、識ることを悟りともいえようか。


あるいは、個人としての私、個人我、肉体自我が、

ほんとうのわたし・・真我・・を知る、識るということだ。

真のわたし・・は、<普遍意識>である。

意識、気づき・・普遍的なそれは、

遍く(あまねく)、宇宙すべてに、気づき、意識している、

宇宙意識、神、創造主・・色々表現があるけれど、それのこと。


●意識は分割されない

普遍的な意識と、私個人の意識はどう違うのだろう?

どちらも、気づき、意識なのだが、

個人の意識・・は、様々な想念で、重たく歪んで脚色され、

卑小な個人としての肉体に・・自己投入している形になっている、

もとは無限の普遍意識である。


小さな表面意識と、それを含む、膨大・無限の潜在意識との関係だ。


私個人の意識は氷山の一角のようなもの、

普遍的意識、大海の中から浮き出た氷山のようなものと、

そういわれることがある。




顕在意識、潜在意識、超意識などと呼ばれることもある

●わたし=神・ただし気づきの差

それも間違えば、大きい小さいの物量比較イメージに陥るが、

意識は物質、物量でなく、それは分割されないのである。

つまり、無限の普遍意識もわたしの意識も、まったく同一なのである。

ただ、顕在化している程度の・・差のよう。

物量・計量ではないので、差もあるわけもないが、

ただ、気づく・・気づかない・・の違いであるともいえようか。


あなたは、まだそれに気づいていないかも・・の差である(笑)。
・・・

●意識は思考、想念ではない

潜在意識は、文字通り「潜在」する意識ということであり、

また表面に出ているものを「顕在」とすれば、

日常の目覚めているときの意識は、「顕在」意識ということになる。

顕在意識は膨大な潜在意識のほんの表層のもの、

それはまるで大海の表面にある波のようなものだ。



また「意識」というのは思考やイメージ、想念ではなく、

知覚していること、意識していること・・根本的な気づきのこと。

意識、気づきは思考や感情ではなく、思考やイメージ、感情の発生する、

そのもとにある原因や根っこのようなものである。


・・・
●熟睡中は肉体も世界もない

意識に関して、あなたが熟睡しているときはどうだろうか。

身体はスリープモード、意識はどこかに消えているだろうか。


意識どころか、熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。

その時には、外側のことを何も気づいていないし、

自分の肉体すらも気づいていない。


というか、自分が存在している・・ことすらも意識にない・・わけだ。


そう、

それぞれの、わたしにとって、

熟睡中は、外の世界などまったく何もない・・そうではないか?

そのまま、仮に死んだとしても、何もわかるまい。

夢見の最中や目覚めた後ではないため、まったく無意識、

怖い怖いも、嫌だ嫌だも、何もない(笑)

宇宙や地球、自然も環境も何もない。


「えー?、世界は無いという等あるものか、、

絶対まだそこにあるよ・・」と、どうして言うことができる?

できっこない。

それを知覚する当人の意識が目覚めていないからだ。


世界や肉体や、環境は絶対まだそこにあるよ・・と、

それは目覚めている他人が言えることで、

熟睡している「わたし」は、そんなこと聞けないし、わかるわけもない、

そもそも、私が・・わたしが・・という自意識もなにもない。


そう、熟睡中は、外側のことを何も気づいていないし、自分の肉体すらも気づいていない。

というか、自分が存在している・・ことすらもわからない・・わけだ。

それぞれの、わたしにとって、

熟睡中は、外の世界などまったく何もない・・

宇宙や世界が存在するとは言えない。



●宇宙は意識の創造物

極端に言えば、全宇宙で人間のような意識ある存在が誰もいなければ、

どうして、宇宙が、地球が、あの横丁のタイ焼き屋(笑)が有るといえるだろう。


宇宙を知覚し、気づき、意識する存在がいなければ、

宇宙は存在しているとは言えないのである。

いや、創造主がいて、宇宙を見ている、気づいているだろう・・

というかもしれないが、

要するに、神も・・・宇宙を知覚し、気づき、意識している

からこそ宇宙が存在している・・ということだ。


意識、気づきがなければ・・

宇宙も多次元宇宙も、地球さえも存在しているとは言えない。


意識、気づきがなくて、

いくら物質がたくさんあって、右に左に動いていても、

どうしてそれが存在できようか?

いいや、存在できるわけもない。


あなたがいるからこそ、あなたの知覚する、意識する世界が生じている・・。

世界があるから、その二次的結果であなたが生じている・・わけではない。


熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。

その時には、外側のことを何も気づいていないし、

自分の肉体すらも気づいていない。


周りの人から見れば、あなたは単に寝ているだけで、

揺り起こせばすぐにも、あるいは不機嫌でも目を覚ますから、

単に肉体が休息しているだけだと思っている。


しかしながら、すべての中心である<わたし>意識がなければ、

宇宙も、世界も環境も、そして肉体も、存在しているとは言えない。

なぜならば、それらが知覚されないからだ。


それに気づく意識がなければ、

宇宙も、世界も環境も、そして肉体も、存在しているとは言えない。

気づいていないだけ・・ではなく、

わたしの意識にとっては、全く!「存在していない」のである。
・・・

●物質宇宙が意識を生み出す・・うそ

一般常識?では、

世界がまずあって、そこに私という身体が生まれ、

その身体の中で、身体機構、頭脳の働きで「意識」が生じる・・と考えている。

つまり外側世界、環境、宇宙があって、そこに物質構成の肉体が生じる、

そう考えているし、それが常識と思っているからである。

世界が先、私はあと、ということだ。

世界環境、宇宙が私を生み出している・・という考えである。

そう、それは「考え」・「理論」・「思い」・・でしかないのである。


他人が他人に意見を言っているだけで、

当人の直接体験なんかではない・・のである。


繰り返すが、

熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。

その時には、外側のことを何も気づいていないし、

自分の肉体すらも気づいていない。

その間は、世界は存在していない。


そしてあなたが目覚めるにしたがって、

昨日と同じ、あなたの意識のベクトルで生じる、

その想念形式と同じ世界が、目覚めとともに生じている。

だから毎日同じような世界が現れているので、

どこか安心だし、またどこか不満なのである。

人生とはある期間設定での、その繰り返しといえようか。



気づきそのものとして、

意識としての直接経験では、

わたし:意識が存在していなければ、

肉体、環境、世界、宇宙は存在しないと同じ。

意識の目覚めで現れる、宇宙は・・

意識のなかにある、

わたしの・・・なかに・・あるということである。


私個人であると意識しているわたしは、

この宇宙、時空間という、立体スクリーンの中の登場人物の1人である

肉体自我という私個人であり、


それに気付いているのが、普遍的意識である・・わたし・。

よく言われる逆転の発想・・どころではない気づきからいえば、

人間という小さな私という個人の、

その・・全宇宙反転したすべてが、真のわたし・・である。



真のわたし・・無限の空(くう)、普遍意識、神意識、

それは一なるもの、

気づく、気づかないにかかわらず、

すべては・・ひとつである。