●灯台元暗し
毎日、毎日忙しく生きているにもかかわらず、
我々は本当に身近すぎて見えないことが多すぎる。
自分のことをほとんど知ることなく、外側の世界で右往左往し、
うわさ話や出来事で一喜一憂しているかもしれない。
世界を知覚し、知り、記憶するその根幹にある・・・わたし・・について、
まったく無知蒙昧と言わねばなるまいに、
というか、無知、それ自体に気づきもしない有様ではなかったか。
わたしのことを肉体だ・・と簡単に決め込んで、
よくも何千年も知らずに、あるいは知らされずにいたものだと思う。
そうは思えないか?
●内奥のわたしが・・根源
わたしに最も近いのは・・何あろう・・わたし・・なのである(笑)。
本当の意味で、・・
わたしが・・<わたし>のことを知る、識ることを悟りともいえようか。
あるいは、個人としての私、個人我、肉体自我が、
ほんとうのわたし・・真我・・を知る、識るということだ。
真のわたし・・は、<普遍意識>である。
意識、気づき・・普遍的なそれは、
遍く(あまねく)、宇宙すべてに、気づき、意識している、
宇宙意識、神、創造主・・色々表現があるけれど、それのこと。
●意識は分割されない
普遍的な意識と、私個人の意識はどう違うのだろう?
どちらも、気づき、意識なのだが、
個人の意識・・は、様々な想念で、重たく歪んで脚色され、
卑小な個人としての肉体に・・自己投入している形になっている、
もとは無限の普遍意識である。
小さな表面意識と、それを含む、膨大・無限の潜在意識との関係だ。
私個人の意識は氷山の一角のようなもの、
普遍的意識、大海の中から浮き出た氷山のようなものと、
そういわれることがある。
顕在意識、潜在意識、超意識などと呼ばれることもある
●わたし=神・ただし気づきの差
それも間違えば、大きい小さいの物量比較イメージに陥るが、
意識は物質、物量でなく、それは分割されないのである。
つまり、無限の普遍意識もわたしの意識も、まったく同一なのである。
ただ、顕在化している程度の・・差のよう。
物量・計量ではないので、差もあるわけもないが、
ただ、気づく・・気づかない・・の違いであるともいえようか。
あなたは、まだそれに気づいていないかも・・の差である(笑)。
・・・
●意識は思考、想念ではない
潜在意識は、文字通り「潜在」する意識ということであり、
また表面に出ているものを「顕在」とすれば、
日常の目覚めているときの意識は、「顕在」意識ということになる。
顕在意識は膨大な潜在意識のほんの表層のもの、
それはまるで大海の表面にある波のようなものだ。
また「意識」というのは思考やイメージ、想念ではなく、
知覚していること、意識していること・・根本的な気づきのこと。
意識、気づきは思考や感情ではなく、思考やイメージ、感情の発生する、
そのもとにある原因や根っこのようなものである。
・・・
●熟睡中は肉体も世界もない
意識に関して、あなたが熟睡しているときはどうだろうか。
身体はスリープモード、意識はどこかに消えているだろうか。
意識どころか、熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。
その時には、外側のことを何も気づいていないし、
自分の肉体すらも気づいていない。
というか、自分が存在している・・ことすらも意識にない・・わけだ。
そう、
それぞれの、わたしにとって、
熟睡中は、外の世界などまったく何もない・・そうではないか?
そのまま、仮に死んだとしても、何もわかるまい。
夢見の最中や目覚めた後ではないため、まったく無意識、
怖い怖いも、嫌だ嫌だも、何もない(笑)
宇宙や地球、自然も環境も何もない。
「えー?、世界は無いという等あるものか、、
絶対まだそこにあるよ・・」と、どうして言うことができる?
できっこない。
それを知覚する当人の意識が目覚めていないからだ。
世界や肉体や、環境は絶対まだそこにあるよ・・と、
それは目覚めている他人が言えることで、
熟睡している「わたし」は、そんなこと聞けないし、わかるわけもない、
そもそも、私が・・わたしが・・という自意識もなにもない。
そう、熟睡中は、外側のことを何も気づいていないし、自分の肉体すらも気づいていない。
というか、自分が存在している・・ことすらもわからない・・わけだ。
それぞれの、わたしにとって、
熟睡中は、外の世界などまったく何もない・・
宇宙や世界が存在するとは言えない。
●宇宙は意識の創造物
極端に言えば、全宇宙で人間のような意識ある存在が誰もいなければ、
どうして、宇宙が、地球が、あの横丁のタイ焼き屋(笑)が有るといえるだろう。
宇宙を知覚し、気づき、意識する存在がいなければ、
宇宙は存在しているとは言えないのである。
いや、創造主がいて、宇宙を見ている、気づいているだろう・・
というかもしれないが、
要するに、神も・・・宇宙を知覚し、気づき、意識している
からこそ宇宙が存在している・・ということだ。
意識、気づきがなければ・・
宇宙も多次元宇宙も、地球さえも存在しているとは言えない。
意識、気づきがなくて、
いくら物質がたくさんあって、右に左に動いていても、
どうしてそれが存在できようか?
いいや、存在できるわけもない。
あなたがいるからこそ、あなたの知覚する、意識する世界が生じている・・。
世界があるから、その二次的結果であなたが生じている・・わけではない。
熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。
その時には、外側のことを何も気づいていないし、
自分の肉体すらも気づいていない。
周りの人から見れば、あなたは単に寝ているだけで、
揺り起こせばすぐにも、あるいは不機嫌でも目を覚ますから、
単に肉体が休息しているだけだと思っている。
しかしながら、すべての中心である<わたし>意識がなければ、
宇宙も、世界も環境も、そして肉体も、存在しているとは言えない。
なぜならば、それらが知覚されないからだ。
それに気づく意識がなければ、
宇宙も、世界も環境も、そして肉体も、存在しているとは言えない。
気づいていないだけ・・ではなく、
わたしの意識にとっては、全く!「存在していない」のである。
・・・
●物質宇宙が意識を生み出す・・うそ
一般常識?では、
世界がまずあって、そこに私という身体が生まれ、
その身体の中で、身体機構、頭脳の働きで「意識」が生じる・・と考えている。
つまり外側世界、環境、宇宙があって、そこに物質構成の肉体が生じる、
そう考えているし、それが常識と思っているからである。
世界が先、私はあと、ということだ。
世界環境、宇宙が私を生み出している・・という考えである。
そう、それは「考え」・「理論」・「思い」・・でしかないのである。
他人が他人に意見を言っているだけで、
当人の直接体験なんかではない・・のである。
繰り返すが、
熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。
その時には、外側のことを何も気づいていないし、
自分の肉体すらも気づいていない。
その間は、世界は存在していない。
そしてあなたが目覚めるにしたがって、
昨日と同じ、あなたの意識のベクトルで生じる、
その想念形式と同じ世界が、目覚めとともに生じている。
だから毎日同じような世界が現れているので、
どこか安心だし、またどこか不満なのである。
人生とはある期間設定での、その繰り返しといえようか。
気づきそのものとして、
意識としての直接経験では、
わたし:意識が存在していなければ、
肉体、環境、世界、宇宙は存在しないと同じ。
意識の目覚めで現れる、宇宙は・・
意識のなかにある、
わたしの・・・なかに・・あるということである。
私個人であると意識しているわたしは、
この宇宙、時空間という、立体スクリーンの中の登場人物の1人である
肉体自我という私個人であり、
それに気付いているのが、普遍的意識である・・わたし・。
よく言われる逆転の発想・・どころではない気づきからいえば、
人間という小さな私という個人の、
その・・全宇宙反転したすべてが、真のわたし・・である。
真のわたし・・無限の空(くう)、普遍意識、神意識、
それは一なるもの、
気づく、気づかないにかかわらず、
すべては・・ひとつである。
毎日、毎日忙しく生きているにもかかわらず、
我々は本当に身近すぎて見えないことが多すぎる。
自分のことをほとんど知ることなく、外側の世界で右往左往し、
うわさ話や出来事で一喜一憂しているかもしれない。
世界を知覚し、知り、記憶するその根幹にある・・・わたし・・について、
まったく無知蒙昧と言わねばなるまいに、
というか、無知、それ自体に気づきもしない有様ではなかったか。
わたしのことを肉体だ・・と簡単に決め込んで、
よくも何千年も知らずに、あるいは知らされずにいたものだと思う。
そうは思えないか?
●内奥のわたしが・・根源
わたしに最も近いのは・・何あろう・・わたし・・なのである(笑)。
本当の意味で、・・
わたしが・・<わたし>のことを知る、識ることを悟りともいえようか。
あるいは、個人としての私、個人我、肉体自我が、
ほんとうのわたし・・真我・・を知る、識るということだ。
真のわたし・・は、<普遍意識>である。
意識、気づき・・普遍的なそれは、
遍く(あまねく)、宇宙すべてに、気づき、意識している、
宇宙意識、神、創造主・・色々表現があるけれど、それのこと。
●意識は分割されない
普遍的な意識と、私個人の意識はどう違うのだろう?
どちらも、気づき、意識なのだが、
個人の意識・・は、様々な想念で、重たく歪んで脚色され、
卑小な個人としての肉体に・・自己投入している形になっている、
もとは無限の普遍意識である。
小さな表面意識と、それを含む、膨大・無限の潜在意識との関係だ。
私個人の意識は氷山の一角のようなもの、
普遍的意識、大海の中から浮き出た氷山のようなものと、
そういわれることがある。
顕在意識、潜在意識、超意識などと呼ばれることもある
●わたし=神・ただし気づきの差
それも間違えば、大きい小さいの物量比較イメージに陥るが、
意識は物質、物量でなく、それは分割されないのである。
つまり、無限の普遍意識もわたしの意識も、まったく同一なのである。
ただ、顕在化している程度の・・差のよう。
物量・計量ではないので、差もあるわけもないが、
ただ、気づく・・気づかない・・の違いであるともいえようか。
あなたは、まだそれに気づいていないかも・・の差である(笑)。
・・・
●意識は思考、想念ではない
潜在意識は、文字通り「潜在」する意識ということであり、
また表面に出ているものを「顕在」とすれば、
日常の目覚めているときの意識は、「顕在」意識ということになる。
顕在意識は膨大な潜在意識のほんの表層のもの、
それはまるで大海の表面にある波のようなものだ。
また「意識」というのは思考やイメージ、想念ではなく、
知覚していること、意識していること・・根本的な気づきのこと。
意識、気づきは思考や感情ではなく、思考やイメージ、感情の発生する、
そのもとにある原因や根っこのようなものである。
・・・
●熟睡中は肉体も世界もない
意識に関して、あなたが熟睡しているときはどうだろうか。
身体はスリープモード、意識はどこかに消えているだろうか。
意識どころか、熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。
その時には、外側のことを何も気づいていないし、
自分の肉体すらも気づいていない。
というか、自分が存在している・・ことすらも意識にない・・わけだ。
そう、
それぞれの、わたしにとって、
熟睡中は、外の世界などまったく何もない・・そうではないか?
そのまま、仮に死んだとしても、何もわかるまい。
夢見の最中や目覚めた後ではないため、まったく無意識、
怖い怖いも、嫌だ嫌だも、何もない(笑)
宇宙や地球、自然も環境も何もない。
「えー?、世界は無いという等あるものか、、
絶対まだそこにあるよ・・」と、どうして言うことができる?
できっこない。
それを知覚する当人の意識が目覚めていないからだ。
世界や肉体や、環境は絶対まだそこにあるよ・・と、
それは目覚めている他人が言えることで、
熟睡している「わたし」は、そんなこと聞けないし、わかるわけもない、
そもそも、私が・・わたしが・・という自意識もなにもない。
そう、熟睡中は、外側のことを何も気づいていないし、自分の肉体すらも気づいていない。
というか、自分が存在している・・ことすらもわからない・・わけだ。
それぞれの、わたしにとって、
熟睡中は、外の世界などまったく何もない・・
宇宙や世界が存在するとは言えない。
●宇宙は意識の創造物
極端に言えば、全宇宙で人間のような意識ある存在が誰もいなければ、
どうして、宇宙が、地球が、あの横丁のタイ焼き屋(笑)が有るといえるだろう。
宇宙を知覚し、気づき、意識する存在がいなければ、
宇宙は存在しているとは言えないのである。
いや、創造主がいて、宇宙を見ている、気づいているだろう・・
というかもしれないが、
要するに、神も・・・宇宙を知覚し、気づき、意識している
からこそ宇宙が存在している・・ということだ。
意識、気づきがなければ・・
宇宙も多次元宇宙も、地球さえも存在しているとは言えない。
意識、気づきがなくて、
いくら物質がたくさんあって、右に左に動いていても、
どうしてそれが存在できようか?
いいや、存在できるわけもない。
あなたがいるからこそ、あなたの知覚する、意識する世界が生じている・・。
世界があるから、その二次的結果であなたが生じている・・わけではない。
熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。
その時には、外側のことを何も気づいていないし、
自分の肉体すらも気づいていない。
周りの人から見れば、あなたは単に寝ているだけで、
揺り起こせばすぐにも、あるいは不機嫌でも目を覚ますから、
単に肉体が休息しているだけだと思っている。
しかしながら、すべての中心である<わたし>意識がなければ、
宇宙も、世界も環境も、そして肉体も、存在しているとは言えない。
なぜならば、それらが知覚されないからだ。
それに気づく意識がなければ、
宇宙も、世界も環境も、そして肉体も、存在しているとは言えない。
気づいていないだけ・・ではなく、
わたしの意識にとっては、全く!「存在していない」のである。
・・・
●物質宇宙が意識を生み出す・・うそ
一般常識?では、
世界がまずあって、そこに私という身体が生まれ、
その身体の中で、身体機構、頭脳の働きで「意識」が生じる・・と考えている。
つまり外側世界、環境、宇宙があって、そこに物質構成の肉体が生じる、
そう考えているし、それが常識と思っているからである。
世界が先、私はあと、ということだ。
世界環境、宇宙が私を生み出している・・という考えである。
そう、それは「考え」・「理論」・「思い」・・でしかないのである。
他人が他人に意見を言っているだけで、
当人の直接体験なんかではない・・のである。
繰り返すが、
熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。
その時には、外側のことを何も気づいていないし、
自分の肉体すらも気づいていない。
その間は、世界は存在していない。
そしてあなたが目覚めるにしたがって、
昨日と同じ、あなたの意識のベクトルで生じる、
その想念形式と同じ世界が、目覚めとともに生じている。
だから毎日同じような世界が現れているので、
どこか安心だし、またどこか不満なのである。
人生とはある期間設定での、その繰り返しといえようか。
気づきそのものとして、
意識としての直接経験では、
わたし:意識が存在していなければ、
肉体、環境、世界、宇宙は存在しないと同じ。
意識の目覚めで現れる、宇宙は・・
意識のなかにある、
わたしの・・・なかに・・あるということである。
私個人であると意識しているわたしは、
この宇宙、時空間という、立体スクリーンの中の登場人物の1人である
肉体自我という私個人であり、
それに気付いているのが、普遍的意識である・・わたし・。
よく言われる逆転の発想・・どころではない気づきからいえば、
人間という小さな私という個人の、
その・・全宇宙反転したすべてが、真のわたし・・である。
真のわたし・・無限の空(くう)、普遍意識、神意識、
それは一なるもの、
気づく、気づかないにかかわらず、
すべては・・ひとつである。