我々は皆色即是空を地で行っている。
あるいはそのものであるが、
これに、なかなか気づかない。
それぞれ私が存在する今の在り様は、
1日24時間という概念で説明された、
単なる繰り返し現実だと、そう思っているかもしれない。
しかしながら本質を言えば、
1日は「意識の変遷」そのものである。
熟睡から夢見へ、そして目覚めている状態へ、
つまり朝起きだしてから、
毎度おなじみの生活があるがゆえに、
最後に意識が行くところ、現実と言われる状態へ、
それはより具体的な事象の世界なので、
それが現実・真実だと思い込んでいる。
そうではないか?
「おいおい、違うの?、何言ってんの」
これが現実ではないなんて、どういうこと?
そうでなければ、なんでこんな苦労をするわけ?
だってそうでしょ、毎日毎日の努力でちょっとは変わるが、
基本なんにも変わり映えがないし、
生活に追われている現状が、どうして現実ではないのか?
と、そういう強い思いが定着しているのだ。
人は皆、
夜明けに「意識」が再び目覚めてから、夢見を通じ、
自然な過程で、現実生活というお馴染みの世界まで毎日到達し、
到達したそこで活動している。
これが自動化されているのが「人生」というサイクル。
そしてその繰り返しによって、
これが現実であるという思いが刷り込まれる。
そうではないか?
学習だって、繰り返して覚え、それを使えるようになる、
それが「現実」を作り上げてゆく。
そして現実というそこは、
様々な具体的事象、いろいろな刺激的事物であふれており、
こころは・・それを面白いと感じている。
快楽や苦痛、恐怖や不安さえも面白いと思っている。
そう思っているから、繰り返しそれを経験するのである。
したがって、面白いと思っている人に、何をいっても無駄だ。
「えー、冗談じゃない、嫌だよ嫌だ」・・というのは、
もうすでにそれにつながっている証拠なのである。
つまり、
自分の想念に気づいていない、と、そういうことだ。
絶対的な真実として、
それぞれの・・わたしの世界は、
わたしの想念の感覚映像化であるということだ。
もっと自由で楽しいのが良いという段階になった存在ならば、
どうすればいいのかと言えば、それは、
わたしの「想念を観る」ということだ。
瞑想は良いし、自分の思いへの気づき、観察は、
いつでもどこでも出来ること。
実際に、これが極めて重要な、
避けては通れない修練なのである。
あなたは毎日、自己の「想念形」を観えているか?
それとも、結果の吹き溜まり、
外の世界の盛んに吹聴する、誰もどんな責任者もいない世界の、
出来事ばかりを追いかけているだろうか?
あなたの想念が、今のあなたの世界の種・基本形であり、
死んで生まれてを繰り返す、意識の作り上げる、
その物語の、種、基本形でもある。
あるいはそのものであるが、
これに、なかなか気づかない。
それぞれ私が存在する今の在り様は、
1日24時間という概念で説明された、
単なる繰り返し現実だと、そう思っているかもしれない。
しかしながら本質を言えば、
1日は「意識の変遷」そのものである。
熟睡から夢見へ、そして目覚めている状態へ、
つまり朝起きだしてから、
毎度おなじみの生活があるがゆえに、
最後に意識が行くところ、現実と言われる状態へ、
それはより具体的な事象の世界なので、
それが現実・真実だと思い込んでいる。
そうではないか?
「おいおい、違うの?、何言ってんの」
これが現実ではないなんて、どういうこと?
そうでなければ、なんでこんな苦労をするわけ?
だってそうでしょ、毎日毎日の努力でちょっとは変わるが、
基本なんにも変わり映えがないし、
生活に追われている現状が、どうして現実ではないのか?
と、そういう強い思いが定着しているのだ。
人は皆、
夜明けに「意識」が再び目覚めてから、夢見を通じ、
自然な過程で、現実生活というお馴染みの世界まで毎日到達し、
到達したそこで活動している。
これが自動化されているのが「人生」というサイクル。
そしてその繰り返しによって、
これが現実であるという思いが刷り込まれる。
そうではないか?
学習だって、繰り返して覚え、それを使えるようになる、
それが「現実」を作り上げてゆく。
そして現実というそこは、
様々な具体的事象、いろいろな刺激的事物であふれており、
こころは・・それを面白いと感じている。
快楽や苦痛、恐怖や不安さえも面白いと思っている。
そう思っているから、繰り返しそれを経験するのである。
したがって、面白いと思っている人に、何をいっても無駄だ。
「えー、冗談じゃない、嫌だよ嫌だ」・・というのは、
もうすでにそれにつながっている証拠なのである。
つまり、
自分の想念に気づいていない、と、そういうことだ。
絶対的な真実として、
それぞれの・・わたしの世界は、
わたしの想念の感覚映像化であるということだ。
もっと自由で楽しいのが良いという段階になった存在ならば、
どうすればいいのかと言えば、それは、
わたしの「想念を観る」ということだ。
瞑想は良いし、自分の思いへの気づき、観察は、
いつでもどこでも出来ること。
実際に、これが極めて重要な、
避けては通れない修練なのである。
あなたは毎日、自己の「想念形」を観えているか?
それとも、結果の吹き溜まり、
外の世界の盛んに吹聴する、誰もどんな責任者もいない世界の、
出来事ばかりを追いかけているだろうか?
あなたの想念が、今のあなたの世界の種・基本形であり、
死んで生まれてを繰り返す、意識の作り上げる、
その物語の、種、基本形でもある。