気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

現実とは想念である

2017-05-29 07:08:40 | 真我実現シリーズ
我々は皆色即是空を地で行っている。

あるいはそのものであるが、
これに、なかなか気づかない。

それぞれ私が存在する今の在り様は、
1日24時間という概念で説明された、
単なる繰り返し現実だと、そう思っているかもしれない。

しかしながら本質を言えば、
1日は「意識の変遷」そのものである。

熟睡から夢見へ、そして目覚めている状態へ、
つまり朝起きだしてから、
毎度おなじみの生活があるがゆえに、
最後に意識が行くところ、現実と言われる状態へ、
それはより具体的な事象の世界なので、
それが現実・真実だと思い込んでいる。

そうではないか?

「おいおい、違うの?、何言ってんの」
これが現実ではないなんて、どういうこと?
そうでなければ、なんでこんな苦労をするわけ?
だってそうでしょ、毎日毎日の努力でちょっとは変わるが、
基本なんにも変わり映えがないし、
生活に追われている現状が、どうして現実ではないのか?

と、そういう強い思いが定着しているのだ。

人は皆、
夜明けに「意識」が再び目覚めてから、夢見を通じ、
自然な過程で、現実生活というお馴染みの世界まで毎日到達し、
到達したそこで活動している。
これが自動化されているのが「人生」というサイクル。

そしてその繰り返しによって、
これが現実であるという思いが刷り込まれる。
そうではないか?
学習だって、繰り返して覚え、それを使えるようになる、
それが「現実」を作り上げてゆく。

そして現実というそこは、
様々な具体的事象、いろいろな刺激的事物であふれており、
こころは・・それを面白いと感じている。
快楽や苦痛、恐怖や不安さえも面白いと思っている。

そう思っているから、繰り返しそれを経験するのである。
したがって、面白いと思っている人に、何をいっても無駄だ。
「えー、冗談じゃない、嫌だよ嫌だ」・・というのは、
もうすでにそれにつながっている証拠なのである。

つまり、
自分の想念に気づいていない、と、そういうことだ。

絶対的な真実として、
それぞれの・・わたしの世界は、
わたしの想念の感覚映像化であるということだ。

もっと自由で楽しいのが良いという段階になった存在ならば、
どうすればいいのかと言えば、それは、

わたしの「想念を観る」ということだ。

瞑想は良いし、自分の思いへの気づき、観察は、
いつでもどこでも出来ること。

実際に、これが極めて重要な、
避けては通れない修練なのである。

あなたは毎日、自己の「想念形」を観えているか?
それとも、結果の吹き溜まり、
外の世界の盛んに吹聴する、誰もどんな責任者もいない世界の、
出来事ばかりを追いかけているだろうか?

あなたの想念が、今のあなたの世界の種・基本形であり、
死んで生まれてを繰り返す、意識の作り上げる、
その物語の、種、基本形でもある。