気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは・・何か(21)I am THAT I AM

2017-05-06 18:16:25 | 意識の拡大
「在る」こと・・存在のことを、英語ではBeing(ビーイング)と言うようだ。

Be に、ing(進行形)がついている。

活動しながら在ること、在り続けること・・という意味だ。

あー、なるほど。

しかし、これは概念での説明であって、実経験が重要である。

今自分が・・在ることを調べてみることだ。


人に関して、在る・・とは何か、

「生きていること」とでもいうのだろうか。

また、生きている・・ことを意識があると言う場合がある。


よく医学系のドラマなどで、

「あー、先生!、この患者、まだ意識があります・・!」という場面があるが、

生きていることは、”意識がある”というわけだ。

生きている、存在している、意識している・・は同じような意味である。

多くの人はこれをすでに知っている。

生きている=意識がある・・だ。

生物的に活動している・・生きている・・意識がある・・である。

・・・

しかしながら、人に意識があるということを、

考えるとか、感情反応するなどと解釈している場合は、

動物、人間などに限ったものと考えているかもしれない。


あなたの家の猫や犬にも、意識があると気づく人も多いだろう。

<散歩に出してくれ、ご飯をおくれ!・・>

そういう個体としての意思表示があるから、動物にも意識があると感じる。

意思を、意識と同じように考える場合があり、

意思のある生き物には意識がある、と考えるのだ。


当然すべてに意識がある、

なぜならば<在ること>、存在すること・・それは意識だからだ。

そうではないか?


しかしながら、ここでいう、・・わたし・・「意識」とは、

思考や目的、思いや感情のもとにあるものだ。

思うこと、考えること、感情を持つことが、つまり「意識」というわけではない。

思いや感情=意識・・ではない・・ということだ。


例えば、

あなたが何かを見た!として、特別な「思い」が湧くとは限らないし、

何かを聞いた!としても、特別な「感情」が起きるとは限らない。

当然のこと、知覚したことに対する反応は、人によって千差万別なのだから。



人の「意識」は、思いや感情、思考という精神作用のもっと根源にあるものだ。

見る、聞く、味わう、触れる・・などの五感の知覚そのもの、

しかしながら、五感という知覚作用、その機能・働きではなく・・、

つまり、様々なものが存在している・・ことを<知る>、そのこと・・、

存在に・・<気づく>・・こと、そのもの、

それ・・だ。

それを「意識」という。



科学最先端のロボットには、人間の五感の機能に類似したセンサーがあり、

そこで受けた情報は、電気信号で情報処理されて、記憶もされる。

様々な・・IF、THEN・・のような反応プログラムによって、

人間に酷似した動きやしゃべりが可能だし、

内臓プログラムに記憶された論理情報を組み合わせることで、

あたかも思考しているかのような振る舞いが可能だが、

「意識」があるわけではない。





意識とは、まず自己の存在に気付いていること・・・、

わたしが・・わたしの在る・・ことに気付いていること。

それが・・・わたし・・である。


意味不明だろうか?


I am THAT I AM.

わたしとは・・わたしであるところの存在・・それが<わたし>である。


これは、なにものにも依存しない、自己存立としての第1原理だ。

これを・・存在の・・第一原理とすると、

わたしとは、なにものにも依存しない、自己存立なのだから、

I am [ ・・  ].の、

このカッコに入るすべての<対象物>は、真正のわたしではない。


例えば、

私は男だ、女だ・・は、性別に依拠している。

私の生年月日は、○年○日だ、は時間に依拠している。

私の体重は68kgだ、は体重計測に依存している。

これら本質ではなく、特定の「属性」のようなもの。


光の色でいえば、赤、とか青等と言えようか。

私とはこの肉体である・・というのも、

同じく特定の対象物である肉体に依拠している。

私の肉体形式、性別、年齢、経歴・・、

さらに思想、信条など、思考、感情、そして記憶の全ても、

具体的事物、または思考の・・概念・・ラベルでしかない。

つまり、真正のわたしではなく、私の一時的属性のようなものだ。



真正のわたしとは、・・わたし・・である。・・(笑)


これは論理や思考では理解できない。

なぜならば、概念、記号の組み合わせではないからだ。

まったくの・・禅の公案のようなものだ。



意味不明かもしれないが、お付き合い願えれば・・、


I am THAT I AM.

わたしは・・わたしである存在・・それが<わたし>である。


I am [    ]のかっこ内は、何かの対象物や記号ではなく、

そこにも・・わたし・・が入るのだ。

注意すべきは、論理でいう、

A=A・・ではないということ。

なぜならば、A=Aが成立するのは、

<A>が何か判っていることが条件である。


わたし・・は判っているのだろうか?

いいや、判っていないのである。


わたしは・・わかっていない、

あるいは知ることができない・・

が・・

わたしである・・ところの、存在。



意味不明だろうか?


・・でも、わかることがある・・はずだ。



I am THAT I AM. 


わたしは何か・・分かっていない、

しかし、<わたし>として、無数に立ち現れる、

現象がどれもこれも、わたしではない!


つまり、わたしは・・在る・・が・・知れていない、

知ることができない・・無限の、それである。

逆に、自己を知らないから、その自己を知ろうとして、

あれとか、これで無数に、無限に現れるとも言える。


また、

知ることができない・・とは、無知ではない・・。

無知ならば、問いかけ自体もあるはずがない!

無限に現れるものが無知なわけもなく、

まさしく無限の知性、いや英知を有すのである。


しかしながら、

無数に立ち現れるわたしの・・どれが、わたしとは言えない。

まさに、無限に展開される・・この宇宙・・そのもの。


大きさも何も関係なく、

今ここにいる・・わたしも・・それ、

I am THAT I AM. 


つまり、私は何者だ、どうしたこうした・・ではなく、

わたしは・・在る・・、つまり、Being  である。

それがすべての根源である。


いつかの時間とかどこかの空間とか、・・・ではなく、

何をどう考えるか、・・ではなく、


今・・在る・・それに、今・・・気づいているではないか。

それを・・意識・・と言っている。



根源意識は、マインド、思考の曇りがなくクリアーなため、

すべてに気付いている。

現象として現れた人間の意識は、マインド、思考、観念の曇りによって、

なかなか気づけないともいえようか。


しかしながら、

I am THAT I AM.

わたしとは・・わたしであるところの存在・・それが<わたし>である。

存在そのもの、・・あらゆるすべての第一原因である。