あるサイトにあった十牛図の解説を、勝手ながら掲載する。
これらは決して、たんに「禅」というカテゴリーの中の話ではなく、
人生の意味、ここ、地球という世界で生きては死んでゆく、
その意味をを問いかけ、
そして、永遠の生命(いのち)の進化といわれるプロセス、
その歩いている道を見出した多くの存在たちの残した、
謙虚ながらも愛深い・・古代から続く「指南書」のようなものである。
悟りのプロセスは、生命・意識の進化・拡大のプロセスである
1.尋牛(自己とは何か、私とは何かを尋ね始めること)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/f2/58033a1ac5a30b94410994a7dc8b008b.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/ba/abd4da120166daa92a98a85d5d7af26f.png)
ここで、牛とは・・こころであり、マインド、思考と言っていい。
牛とはつまり自由奔放なマインドであり、いつもありながら見失っているそれ、
まずこれを再発見しなければならないということだ。
思考がなければ問いかけも何も、問題の認識すらできない。
自分とは何か?という問いさえも、「思考」であることに気づけるだろう。
思考、マインドに・・殊更・・気づくこと!・・だ。
思考を垂れ流さず、すべての体験のベクトルである思考、
生死とその繰り返しの原因でもある「思考」に気づき、
これが一体何なのか?・・を訪ね始めることでもある。
世間がどうした、日本がどうする、世界がどうなる、あれがあった、これがあったは・・、
面白可笑しくて刺激的かもしれないけれども、
本質のあなたにとって・・何の解決にもならないことにすでに気づいてるはずだ。
外側の世界の興亡など、それはそれでありながら、
それぞれの人の本質にとっては、実に全くどうでもよい映画のようなもの。
さにありながら、
それにはまり込んで、気づかず知らず、何度も生き死にを繰り返しながら、
そういう世界での繰り返し人生を経てきて、人はいつか・・・、
「ところで・・、わたしとは何か・・?」
と問いかけ始める時が来るということだ。
そしてそれは・・常に・・今在ることの中で起きる。
今・・在ること・・その生活・・生きて・・活きていること、
ごく普通の有様の中でこそ、見出すことができるのだ。
だから何度でも・・それぞれのわたしは・・この世界に現れてくるのである。
それが輪廻のサイクル、今までの・・この世界の魂の修行形態であった。
ところで、「わたしとは・・何か?」・・本質のあなたとは・・何だろうか?
生きていること、死んでゆくこと、って何だろうか?
あなたはどう思う?
これが「尋牛」だ。
(つづく)
これらは決して、たんに「禅」というカテゴリーの中の話ではなく、
人生の意味、ここ、地球という世界で生きては死んでゆく、
その意味をを問いかけ、
そして、永遠の生命(いのち)の進化といわれるプロセス、
その歩いている道を見出した多くの存在たちの残した、
謙虚ながらも愛深い・・古代から続く「指南書」のようなものである。
悟りのプロセスは、生命・意識の進化・拡大のプロセスである
1.尋牛(自己とは何か、私とは何かを尋ね始めること)
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ここで、牛とは・・こころであり、マインド、思考と言っていい。
牛とはつまり自由奔放なマインドであり、いつもありながら見失っているそれ、
まずこれを再発見しなければならないということだ。
思考がなければ問いかけも何も、問題の認識すらできない。
自分とは何か?という問いさえも、「思考」であることに気づけるだろう。
思考、マインドに・・殊更・・気づくこと!・・だ。
思考を垂れ流さず、すべての体験のベクトルである思考、
生死とその繰り返しの原因でもある「思考」に気づき、
これが一体何なのか?・・を訪ね始めることでもある。
世間がどうした、日本がどうする、世界がどうなる、あれがあった、これがあったは・・、
面白可笑しくて刺激的かもしれないけれども、
本質のあなたにとって・・何の解決にもならないことにすでに気づいてるはずだ。
外側の世界の興亡など、それはそれでありながら、
それぞれの人の本質にとっては、実に全くどうでもよい映画のようなもの。
さにありながら、
それにはまり込んで、気づかず知らず、何度も生き死にを繰り返しながら、
そういう世界での繰り返し人生を経てきて、人はいつか・・・、
「ところで・・、わたしとは何か・・?」
と問いかけ始める時が来るということだ。
そしてそれは・・常に・・今在ることの中で起きる。
今・・在ること・・その生活・・生きて・・活きていること、
ごく普通の有様の中でこそ、見出すことができるのだ。
だから何度でも・・それぞれのわたしは・・この世界に現れてくるのである。
それが輪廻のサイクル、今までの・・この世界の魂の修行形態であった。
ところで、「わたしとは・・何か?」・・本質のあなたとは・・何だろうか?
生きていること、死んでゆくこと、って何だろうか?
あなたはどう思う?
これが「尋牛」だ。
(つづく)