十牛全図でいうところの悟りの道標の5番目は「牧牛」だ。
牛はもう勝手に動き回ったりせず、淡々と牧童と共にある・という図である。
こころ(牛)が静まって、無駄な動きをやめ、わたしとともに存在している。
こころが無くなるわけでも、貧弱になるわけでもなく、
牛が勝手気ままに動いたり、外からの刺激に無条件に反応して暴れたり、
無駄に右往左往したり、思わず怪我をしたり・・という事がなくなることだ。
悟りの5番目、牧牛は調教と似ているが、調教ではない。
調教というのはどこか良くないイメージがあるが、
それは動物等を人間の欲望に沿った方向に洗脳、飼育して、支配するということであり、
動物の本来の姿を失わせることなのである。
あるいは外から網を仕掛け、身動き取れない集団を作るという事にもなる。
世界での常識という・・マトリクス(支配網)もそれだ。
・・・
ここでいう「牧牛」は、牧童の無理難題を聞くように躾けられるのではなく、
牧童自身(わたし)が、牛(マインド)とともに在ることに、
何ら違和感を持ちえないような関係性に至るという事だ。
牛は牛でありながら、牧童と調和をもって相対しているのである。
この調和に至ると、内面からの「至福」感が生じることがわかる。
何らかの形で与えられる、無条件のうれしさ・・至福、
なんとも表しようのないこの至福感は、
その方向が合っていることを示す「道標」である。
この「至福」は、実践したものだけ経験するご褒美のようなものだ。
なにはなくとも、<在る>・・こと自体が、素晴らしいのである。
それともお金で買える?・・・わけないだろう。
牧牛とは、
霊(魂)と、マインド(こころ)と、身体が調和するということだ。
それまでは、こころがわけもわからす勝手し放題で、
身体と魂の間に亀裂や歪が生じていたわけだ。
例えばあなたも、他人の言動に怒り心頭に達したり、嘆き悲しんだり、
心が破けんばかりに憤ったりしたことがあるだろう。
それがそのままになっているのが「カルマ」なのだ。
絶対!他人が悪い・・としているのは「カルマ」である。
それは、それこそ何千年でも残るのもの。
だからすべてを許せと言われているのだ。
だって、自分が相手であれば、同じことをしていたかも・・
たぶん、絶対そうなのだ。(笑)
そう、それらは良い教訓を与えてくれたわけだから、
だから何でもかんでも許してOKなのである。
許すというより・・「手放す」といったほうがいいかもしれない。
もともと・・何もなかった・・ではないか?
牛を捉え、牧牛に至るまでは、
魂の微妙な声がなかなか聞こえず、直感や内面の促しを無視し、
外からの様々な刺激や扇動のままにうごめいていた。
そう、まさにまるでマインドのない野牛のようなものだった。(笑)
(モー、こころここにあらずだったかなモー)
他人様を頼っても、期待を何度も裏切られたり、
世間でもてはやす栄誉、栄冠を獲得したにも関わらず、
何度やっても、それは持続せず一瞬の快感で終わり、
外の世界に、真の栄誉などどこにもなかったことを悟れるまでの話なのだ。
人生や出来事や収穫の方向を決めるのはマインド、
常に変化を旨とする、幻想の世界を創るのもマインド、
そうであるからこそマインドを確認し、観察し、
それがどういう風に働いているかを知ることが、きわめて大切でなのである。
壮大なファンファーレを伴って、刺激を伴って、
やけに騒がしく現れるものの中には、決して真実はない。
真実は常に・・広大無辺な・・あなたの中にある・・
人がマインドを発見し、これをしかと観察して一体化できるまでには、
マインドのパワーを次第に自覚できるようになるには、
少なからず時間がかかるかもしれない。
悟りの5番目・・牧牛は、根気よく、静かに実践されるものだ。
牛はもう勝手に動き回ったりせず、淡々と牧童と共にある・という図である。
こころ(牛)が静まって、無駄な動きをやめ、わたしとともに存在している。
こころが無くなるわけでも、貧弱になるわけでもなく、
牛が勝手気ままに動いたり、外からの刺激に無条件に反応して暴れたり、
無駄に右往左往したり、思わず怪我をしたり・・という事がなくなることだ。
悟りの5番目、牧牛は調教と似ているが、調教ではない。
調教というのはどこか良くないイメージがあるが、
それは動物等を人間の欲望に沿った方向に洗脳、飼育して、支配するということであり、
動物の本来の姿を失わせることなのである。
あるいは外から網を仕掛け、身動き取れない集団を作るという事にもなる。
世界での常識という・・マトリクス(支配網)もそれだ。
・・・
ここでいう「牧牛」は、牧童の無理難題を聞くように躾けられるのではなく、
牧童自身(わたし)が、牛(マインド)とともに在ることに、
何ら違和感を持ちえないような関係性に至るという事だ。
牛は牛でありながら、牧童と調和をもって相対しているのである。
この調和に至ると、内面からの「至福」感が生じることがわかる。
何らかの形で与えられる、無条件のうれしさ・・至福、
なんとも表しようのないこの至福感は、
その方向が合っていることを示す「道標」である。
この「至福」は、実践したものだけ経験するご褒美のようなものだ。
なにはなくとも、<在る>・・こと自体が、素晴らしいのである。
それともお金で買える?・・・わけないだろう。
牧牛とは、
霊(魂)と、マインド(こころ)と、身体が調和するということだ。
それまでは、こころがわけもわからす勝手し放題で、
身体と魂の間に亀裂や歪が生じていたわけだ。
例えばあなたも、他人の言動に怒り心頭に達したり、嘆き悲しんだり、
心が破けんばかりに憤ったりしたことがあるだろう。
それがそのままになっているのが「カルマ」なのだ。
絶対!他人が悪い・・としているのは「カルマ」である。
それは、それこそ何千年でも残るのもの。
だからすべてを許せと言われているのだ。
だって、自分が相手であれば、同じことをしていたかも・・
たぶん、絶対そうなのだ。(笑)
そう、それらは良い教訓を与えてくれたわけだから、
だから何でもかんでも許してOKなのである。
許すというより・・「手放す」といったほうがいいかもしれない。
もともと・・何もなかった・・ではないか?
牛を捉え、牧牛に至るまでは、
魂の微妙な声がなかなか聞こえず、直感や内面の促しを無視し、
外からの様々な刺激や扇動のままにうごめいていた。
そう、まさにまるでマインドのない野牛のようなものだった。(笑)
(モー、こころここにあらずだったかなモー)
他人様を頼っても、期待を何度も裏切られたり、
世間でもてはやす栄誉、栄冠を獲得したにも関わらず、
何度やっても、それは持続せず一瞬の快感で終わり、
外の世界に、真の栄誉などどこにもなかったことを悟れるまでの話なのだ。
人生や出来事や収穫の方向を決めるのはマインド、
常に変化を旨とする、幻想の世界を創るのもマインド、
そうであるからこそマインドを確認し、観察し、
それがどういう風に働いているかを知ることが、きわめて大切でなのである。
壮大なファンファーレを伴って、刺激を伴って、
やけに騒がしく現れるものの中には、決して真実はない。
真実は常に・・広大無辺な・・あなたの中にある・・
人がマインドを発見し、これをしかと観察して一体化できるまでには、
マインドのパワーを次第に自覚できるようになるには、
少なからず時間がかかるかもしれない。
悟りの5番目・・牧牛は、根気よく、静かに実践されるものだ。